第22話 三つ数えろ
「久しぶりに、美味しいものが食べられそうなり。」
アトランタはこれだけの大都市だ、食い物屋もいろいろある。それにもうすぐ日も落ちる。なんか旨い物を食べよう。
ホテルを確保し、トランザムを駐車場に入れた後、再び街に繰り出した。
日本食、イタリアン、目移りはするが、私たちはビア・ホールに入ることにした。
久々に、ジョッキで冷たいビールが飲みたい。
店内は結構はやっているみたいだ。日本人ビジネスマンと思しき客もいる。アメリカ風大衆居酒屋といったところか。席に着くとおしぼりが出てきた。日本人ビジネスマンが多いから日本風のサービスをしているのか。
店の隅では黒人ピアニストがジャズを弾いている。ミュージシャンの雇用が至る所にあるから、アメリカのエンターテインメントに日本は敵わないのだ。
「かんぱいなりー。」
戸部典子がジョッキを傾けた。泡が口元に残って髭みたいだ。その髭、なかなか似合うぞ、と言うと、彼女は石田三成のモノ真似を始めた。確かに三成髭だ。
「お小姓、おしぼりを持て。」
戸部典子の頭におしぼりを載せてやった。丁髷だ。
後ろの日本人ビジネスマンたちの席が騒がしい。ウエイトレスたちが困った顔をしている。
「ねーちゃん、ビール持ってこい。黒いねーちゃんは要らねーぞ。そっちのパツキンのねーちゃんだよ。」
だいぶ酔っているみたいだが、こういう差別的な日本人がいることが恥ずかしかった。
「ねーちゃん、ねーちゃん!」
その後、彼らは日本語で卑猥な言葉を叫んでは大笑いしている。
日本語だから分からないと思っているかもしれないが、侮蔑の言葉というのは伝わってしまうものなのだ。
戸部典子と天野女史も憮然としている。
私の中で怒りがはじけた。私は席を立ち、彼らの席に歩いていった。
「やめなさい、日本人の恥をさらすのは!」
たしなめたつもりが、語気が荒くなった。
「こいつ知ってるよ、中国びいきの歴史学者だ!」
げらげらと彼らが笑う。
「売国奴のくせに、えらそうに言うな。」
またゲラゲラと笑う。
私は背後に黒い影を感じた。天野女史である。
天野女史はコットン・パンツの後ろにたばさんだ銃を抜いた。
銃には詳しくないが、口径のでかいマグナムだ。
「警察だ、ポリスを呼ぶぞ!」
日本人ビジネスマンの引きつった声だ。
「ジョージアではオープン・キャリーが認められている。銃を抜いたくらいじゃポリスも手を出せない。」
天野女史は銃口を向けたわけでは無い。ただ、右手にぶら下げているだけだ。
「撃ってみろよ!」
日本人ビジネスマンのひとりが、フォークを投げつけた。
「よーし、これで正当防衛成立だ。」
天野女史も目がギラリと光り、彼女は両手で銃を構えた。
「三つ数えろ。」
ハンフリー・ボガードの名セリフだ。
「分かった、分かった。」
「勘定はちゃんとして行けよ。」
リーダーと思われる男が三百ドルをテーブルに置いた。
「迷惑料もだ!」
天野女史の迫力に男は財布ごとテーブルに置いて、逃げ出すように店を出ていった。
店内に拍手がおこった。よかった、日本人の名誉を守ったのだ。
ピアニストがジャズ風にアレンジしたアメリカ国歌を激しいテンポで高らかに弾いた。私と戸部典子は胸に手を置いて、アメリカの精神に敬意を表した。
「サムライ!」
黒人ウエートレスが私に抱きついて、私は頬に大きなキス・マークをつけることになった。最高の勲章だ。
だが、後味の悪さは払拭できない。
「天野女史、ニュー・ヨークへ帰ろう。」
「そうですね、見るべきものは既に見ました。」
戸部典子はテーブルに残された財布を開けた。
「十六ドル三セントしか入っていないなりよ。」
エラソーなわりには、案外、金持ってないな。
天野女史は、からからと笑った。
ニュー・ヨークへ向かうトランザムは、私の血の気が失せるようなスピードで疾走した。天野女史はパトカーさえも振り切るのだ。ダーク・ライダーだから、しょうがないけど。
戸部典子は後部座席で眠っている。アトランタで碧海作戦の最新資料をダウンロードした彼女は、夜通し分析にかかっていたのだ。眠っているのはいいが、時々妙な寝言を言う。
この旅行で、私は認識を改めたのだと、天野女史に言った。私は東洋対西欧、白色人種対黄色人種という二項対立に捕らわれていた。アメリカを見ると対立は多岐にわたり、これを単純化するならば、いくつかの偏見を許容することになる。
宗教ひとつにしてもそうだ。オーソドックスとカトリック、カトリックとプロテスタント。学問上はカテゴライズできるのだが、アメリカのエヴァンジェリカルは理屈では理解しがたい。
自由と平等、グローバリゼーションが進行する現在、平等な競争を果てに国内での格差が生じる。一方、貧困にあえいできた後進国は人が生きるに値すべきささやかな豊かさを手に入れた。
正義とは何か? 理想とは何か? この国は人類に命題を突き付けている。
「そんな大げさなものじゃないですよ。」
天野女史はそう言う。
そうかもしれない。ただ、私は見るべきものを見たのだ。
ニュー・ヨークまではダーク二〇〇〇のスピードをもってしても、丸二日かかった。
天野女史は私たちをウォルドルフ・アストリア・ホテルまで送ってくれた。
別れ際に天野女史は意味深な言葉を残した。
「近いうちに、またお会いすることになるでしょう。」
陳博士も李博士も帰国した後だったが、コンシェルジュが私たちを迎えてくれた。
「お帰りなさいませ。」
日系人のコンシェルジュだ。陳博士は私たちが帰った後も、宿泊できるよう手配しておいてくれたのだ。
「よかったなり。ニュー・ヨークでもモーテルみたいな安ホテルには泊まりたくなかったなり。」
何を言うか、バック・パッカーのくせに。贅沢に馴れ過ぎだ。
陳博士は今や中国共産党の幹部なのだ。碧海作戦の成功が彼を英雄にしたのだ。だから、それに貢献した私たちも、おこぼれに預かっていいはずだ。そうだろ、戸部典子!
私がそう言いと、戸部典子は「そだねー」と笑った。たまには権力者におもねる研究者の役も悪くはない。
「お腹すいたなり。」
久しぶりに日本食でも食うか!
「右に同じなり。」
部屋に荷物を置いて、街へ出た。二日も車に乗りっぱなしだったので、少し歩きたい。日本食を食べさせてくれる居酒屋まで歩こうではないか。
ニュー・ヨークは好きだ。対立と葛藤が渦巻きながら新しい文化や、価値観を生み出し続けている。街の空気からそれがビリビリと伝わって来る。アメリカを旅したせいで、進歩というものに敏感になっている。ニュー・ヨークは進歩の最前線で戦っている街なのだ。
五番街にさしかかると、戸部典子がショー・ウインドゥの前で足を止めた。テイファニーである。映画にも登場した有名な宝飾店だ。ウインドゥーには銀のイヤリングが飾ってあった。
「素敵なり!」
お前、こんなものに興味あるのか。だいたいイヤリングなんかしたことないだろ。
「先生には女心は分からないなりよ。」
戸部典子はプンスカ怒って、歩き出した。
居酒屋に着いた私たちは、居酒屋特有のびっしり書かれたメニューを手渡された。表記は日本語と英語である。それに料理の写真もついている。
刺身に焼き鳥、豆腐料理もいいな。最後はお茶漬けで締めくくろう。
とりあえず、ビールだ。
メニューを一瞥した戸部典子が、最初にオーダーしたのはイカリングだった。
彼女の脳内でイヤリングがイカリングに変換されたことは疑うすべもない。実に分かり易い女心である。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます