第8話 上海ラボ

 碧海作戦の研究室は、引っ越しすることになった。

 じつは前から決まっていたのだが、ここにきて碧海作戦の政治的側面が強くなってしまったため予定が早められたのだ。

 政治の都、北京から、経済の都、上海へ移すことによって少しでも政治色を押さえようというのだ。

 それに海王朝の本拠は上海である。碧海作戦の研究室が同じ上海にあったほうが見栄えがいいというのだ、


 なんか違和感があると思ったら、戸部典子がジーンズ姿なのである。

 こいつはいつも黒いスーツを着ている。もともと外務省の職員というお堅い身分だったからしょうがないのかもしれないが、若い娘がオシャレのひとつもせず、着たきりスズメなのはいかがなものかと問うたところ、

「あたしは黒いスーツを六着持っているのだ、全部ブランドものなりよ。」

 との答えが返ってきた。

 私は戸部典子のクローゼットに同じような黒のスーツがずらりと並んでいる様子を想像して笑ってしまった。

 李博士を見習え! いつもエレガントなファッションで私の目を楽しませてくれている。高いハイヒールでコツコツと床を鳴らせて歩く李博士の姿は優雅である。それに比べて、戸部典子、おまえはベタ靴でバタバタと歩き回って、色気もへったくれも無いではないか。


 戸部典子は戦国武将のフィギュアたちを丁寧に紙にくるんでダンポール箱に詰めている。

 戦国武将からの略奪品はスーツケースに仕舞っている。こればかりは中国の運送会社に任せて失くされたら大変だ。お宝は自分で持っていこうとしているのだ。


 北京では私も戸部典子もホテル暮らしだったが、上海ではマンションを借りることにした。といっても中国政府が手配した社宅のようなものである。

 黄埔江を眼下に見下ろす高層マンションの三十七階の部屋で、夜には上海の夜景が楽しめるそうだ。独身貴族の隠れ家。中国政府の粋なはからいだ。

 驚いたことに、戸部典子の部屋は私の隣の部屋だ。引っ越しで鉢合わせして、お互い脂汗を搔いてしまった。中国政府は細かい配慮に欠けている。


 戸部典子が脂汗をかいたのは初日だけだった。

 翌日からは、「味噌はないなりか」とか「お米を貸してほしいのだー」とか言って、私のプライベートゾーンにずかずかと土足で入り込むようになる。

 ある日、帰宅すると戸部典子が私の部屋にいるではないか。

 何でだ、と聞くと。

 「このあいだ、合鍵を作っておいたなり。」

 と答える。

 それに、おまえが今飲んでいるのは何だ!

 「これなりか、クローゼットの中に落ちてたなり。この芳醇なコクがたまらないなり。」

 そんなことを訊いているのではない!

 それは私が隠しておいた幻の焼酎「千年の愉楽」ではないか。

 食ってるのは何だ!

 「鰻の白焼きなり、冷蔵庫の中に落ちてたなり。」

 落ちてたのではない! 

 私が通販でお取り寄せした「おひとり様グルメ」の逸品なのだ。

 「先生の部屋の冷蔵庫にはおいしそうなものがいつも落ちてるなり。」

 悔しいので、戸部典子の手から焼酎のボトルを取り上げて私も飲むことにした。

 楽しみにしていた真空パックの鰻の白焼き、高知の四万十川の鰻だぞ。半分も食いやがって、残り半分は私が食う!

 「いいのだ、また冷蔵庫の中の落とし物を探すなり。」

 私の部屋は次第に戸部典子の植民地と化していく。戸部インド会社、恐るべしである。


 陳博士も引っ越してきたが、今後は北京と上海を行ったり来たりになるとのことで、北京の自宅もそのまま残した。

 李博士はもともと上海の出身だとかで、実家から通うらしい。


 上海の研究室は、北京のよりひとまわり広い。メイン・モニターも少し大きく見えた。

 壁面にはあいかわらす意味不明の計測機器のようなものが並んでいる。

 北京ラボと違うのは、ちょっとオシャレになったことだ。壁紙は淡いピンクだし、私たちが打ち合わせをする中央テーブルはちょっとしたカフェみたいなのだ。

 せっかくのお洒落なテーブルの上に戸部典子が戦国武将のフィギュアを並べて台無しにしている。

 北京では研究室はあくまで研究室だったのだが、上海の人々はおしゃれに「上海ラボ」と呼ぶ。

 上海ラボ、始動である。


 上海はいい。北京に比べて明るい街だ、巨大なビルが立ち並び、ときどき東京みたいだと錯覚してしまう。街の人々も、高度経済成長期の日本人のようなのびやかな活気がある。

 かつて西欧人や日本人が租界と称する外国人居留地があった。外国人たちが我が物顔で歩いていた頃から「魔都」と言われただけあって、抗しがたい魅力を持つ都市だ。

 中国でも北方と南方では大きく違う。この広大な国が一枚岩であるわけがない。ただ、中華という巨大な文明がそれらを結び付けているのだ。

 私は日本人の源流のひとつは、中国の揚子江流域にあると考えていた。

 この地では、春秋・戦国時代において楚と呉が、そして呉と越が戦った。敗北した国の民が、日本列島へ流れたとしても不思議ではない。現に呉も越も日本の地名に残っているではないか。広島県のくれ、越前、越中、越後の越である。ここは古代において越こしの国と呼ばれた。二十六代の天皇、継体天皇は越の国から来たという。ここに王朝交代があったとされる説もあるが定かでない。日本のタイムマシンが廃棄されていなければ、ぜひ真相を調べてみたいものだ。

 上海は越の地である。

 揚子江流域は日本人の故郷のひとつなのだ。



 田中博之一尉以下、三名の自衛隊ドローン部隊の隊員が上海ラボに挨拶に来た。

 いよいよ十七世紀に派遣されるのだ、

 田中一尉はまず、桧垣忠司二尉を紹介した。自衛隊ドローン部隊のエンジニアだ。ドローンの整備だけではなく、搭載する様々な装備も開発しているらしい。小太りの優しそうな男だが、目がぎらぎらしている。

 次は、相場剣介三尉だ。軽そうなハンサムボーイだが、腕は確からしい。偵察用ドローン、シーガルを操れば彼の右に出る者はないそうだ。シーガルはカモメを模した鳥型のドローンである。高速飛行で遠距離偵察を担当する。

 例の木場あかね三尉も同行している。

 ヘルメットとゴーグルを取ると、端正な顔立ちをしているではないか。ボーイッシュな美少女だ。

 陳博士が、

 「このあいだは、すごいものを見せてもらいました。」

 と言って、木場三尉の肩に手を置いた。

 木場三尉はその手を跳ねのけて、陳博士をにらみつけた。

 「気安く触るな!」

 おー、怖い。話しかけなくてよかった。

 超イケメンの陳博士の手を払いのけるとは、なんて女だ!

 田中一尉が陳博士に手をすり合わせて謝っている。


 上海ラボが気まずいい空気に包まれた時、井伊直政のフィギュアを手にした戸部典子がおすまし顔で入ってきた。

 私がしつこく「李博士を見習え!」と言ったものだから、彼女は「おすまし顔」を開発していたのだ。

 李博士はとろんとした色っぽい目元である。これをコピーしたおかげで薄目を開けたような目になている。李博士が口元に絶えず笑みを浮かべているのをマネして、口を半開きにしている。

 はっきり言おう。不気味な顔だ!

 悪かった、戸部典子。おまえのパキパキの顔立ちに李博士の真似は似合わない。

 あっ、こけた!

 馴れないハイヒールなど履いたせいで躓いたのだ。

 「いてて!」

 腰を押さえながら戸部典子が立ち上がる。おまえは、ばあさんか!


 「ひゃーぁぁぁぁぁ。」

 頭のてっぺんから出たような妙な声だった。

 誰だ、と思ったら木場あかね三尉だ。

 戸部典子を見て、あのブラックホールのような暗い目がぐるぐると回り始めた。

 「もっ、もしかして、戸部典子さん・・・」

 「そうなり、あたしが戸部典子なり。」

 「わたくし、じえいたいドローンぶたいの、きばあかねです・・・。」

 敬礼する手が震えている。

 「あかねちゃん、このあいだは凄かったなりね。」

 「はい、こうえいです。あたくし戸部典子さんの大ファンなのです。うれしいです。」

 さっきのドズの効いた声はどこえやら、蚊が鳴くような声も絶え絶えである。

 戸部典子がずんずん木場三尉に近づいていく。木場三尉の手をがっちり握って、

 「あかねちゃん、期待してるなり。」

 と言うと、くらくらして倒れそうになった。

 「現地に行く前にどこかでお茶しようなり。ガールズトークするなり。」

 「かんげきです、がーるずとーくするなりです。」

 木場三尉が引きつった笑顔に涙まで浮かべているではないか。

 大丈夫なのか、こいつ。


 田中一尉以下、ドローン部隊が上海ラボを後にした。

 木場三尉は戸部典子に手を振りながら名残惜しそうに帰っていった。


 私の耳元で陳博士がささやいた。

 「感動です、本物のツンデレを見ました。」


 「あれはヤンデレなり!」

 ほほほ、と笑いながら戸部典子はハイヒールをコツコツと鳴らしながら歩いている。

 あっ、またこけた。

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