第3話 推挙帝

 一六〇一年三月一日、半年の喪に服した織田信忠が皇帝に即位した。

 織田信長には太祖の廟号が送られた。

 太祖は中華で初代皇帝の廟号である。宋の趙匡胤ちよう きよいん、明の朱元璋しゅ げんしょう、清のヌルハチも太祖である。


 儒教の影響が強い中国では親の死後は喪に服することが孝行であるとされた。

 子は三年の喪に服す。粗末な白い衣服を身につけ、掘っ立て小屋に住むのが儒教の教えなのだ。

 織田信忠も半年間は白い衣をまとい、肉食を避けた。中華の伝統に従うそぶりは見せたのである。

 それでも半年というのは、織田家らしい合理性である。


 信忠は優秀ではあったが、父は天才である。とても敵わないことを身に染みて理解していた。この男には天性の明るさがあり、自分に欠けたる才は人材の登用によって補えばよいと考えていた。

 「推挙せよ!」

 それが信忠の口癖でもあった。

 信長は万事、自らが決定し宰相を置かなかったが、信忠は浅井長政を宰相に据えた。浅井長政のブレーンのなかには石田三成や大谷吉継がいた。

 「関が原世代の登場なりね!」

 十六世紀から戻った戸部典子が、モニターに映る三成や吉継に見惚れている。

 彼らも推挙を経て、宮廷の登ったエリート官僚である。


 信忠は帝国の各地に優秀な人材を推挙せよとの命令を出していた。中国、日本、朝鮮の各地から優秀な人材が推挙された。ただ、使えない奴は追い返され地方に戻された。こういうことが起こると地方の恥とされたのだ。

 中途半端な人材を送ると、逆効果になる。人材を推挙する際に、何人かの候補者を立て入れ札で決めるという方法をとった地域がいくつかあり、これが中華における選挙制度の始まりとなった。

 最も優秀な者は宮廷のシンクタンクの一員となった。彼らは諸事議論を戦わせ、政策を検討していくのだ。議会の原型のようなシステムが誕生した。

 ひとびとは親しみを込めて信忠を「推挙帝」の名で呼んだ。


 海王朝は、中華の伝統のいくつかに背いた。

 そのひとつが宦官である。信長は彼らを気味悪がり宮廷から追放したのだ。

 科挙の制度も合理的に変えられた。

 科挙は四書五経など古代の文献から試験問題が出題されるのが通例だったが、海の時代を迎えつつある十七世紀には不十分だとして算術や天文学が加えられた。

 これまで必死に勉強してきた中国の秀才たちには晴天の霹靂だった。


 「試験科目が突然変わったら、受験生たちは困るなり。」

 そうだ、今年のセンター試験の数学は数二Bまでを出題範囲とします、なんて言われたら私だって抗議したくなる。今でも数ニBという名称かどうかは知らないが、微分・積分は私の仇敵だった。

 「今年から日本史と世界史は一本化して歴史としますから、両方勉強してください、と言われたようなものなり。」

 あっ、それは賛成。日本史と世界史はひとつにしたほうがいい。


 役人になるためには科挙と推挙という二つの道が用意された。

 これまで中華の伝統である科挙に邁進していた中国人や朝鮮人は宮廷への進出で一歩遅れをとった。

 官僚たちに日本人が多いのは信忠が日本生まれの皇帝だからだけではないのだ。

 「勉強ができる」ことは優秀さのパラメータの一つでしかないという価値観は、この当時の東アジアで日本人のみが持ち得た特殊性なのかも知れない。日本人の思想的雑食性がここにも表れていたのだ。


 儒教に対する態度も中華の伝統から外れたものだった。

 何しろ信長自身が新しいものを好み、合理性を重んじたからだ。

 学問は実用性を以ってよしとする、プラグマティズムが時代の思想になりつつあった。

 儒教を学ぶことが禁止されたわけでもないのだが、この頃、西欧で起こりつつあった自然科学や経済学が東アジアでも勃興しつつあったのだ。


 中華の伝統であるシビリアン・コントロールは守られた。戦国武将たちが政治に口出しすることは許されなかった。

 浅井長政のように、武将としてよし、政治家としてなお良し、と言える人材は奇貨と言わねばなるまい。

 政治は官僚が行い、軍事は官僚たちの指示で動く。これが原則だ。


 逆に中華の伝統を取り入れたのはヘアスタイルである。日本人は月代さかやき、つまり頭を剃り上げることをやめたのだ。というか、月代は流行遅れになってしまったようだ。中国の総髪がこの頃から定着しはじめた。総髪は髪の毛を全部頭の上で束ね元結を作る。元結を後ろに持ってきてポニーテールのようにする者もあれば、元結に中国風の小さな冠を頂く者もあった。けっこう男もファッションには気をつかうのだ。まっ、平和だからだ。

 満州族が中華の伝統に従いながらも、辮髪を強制したのと真反対である。

 髪の毛と言えば、十六世紀から帰った後、剃り上げていた私の頭にはぼうぼうと毛が生えはじめた。少し額が薄くなりかけたのを気にしていたのだが、二十代のころのような勢いで毛が生えるのだ。

 李博士は、私が過去へ行ったことと関係があるのではないかとの仮説を立てた。昔に帰ったことで、若返ったのではないかというのだ。やがてこの研究は中国の医学会に引き継がれ「タイムマシンの増毛効果について」という論文にまとめられた。


 戦国武将たちに与えられた選択肢は複数あった。政治の才能のあるものや学問を好む者は官僚を目指した。腕に覚えのあるものは武将となるのだが、水軍という選択肢も加わったのだ。経済に明るいものは貿易に精を出し、世界をまたにかけることもできる。

 もちろん、多角経営も可能だ。明智家が貿易商社に特化したのに対し、浅井家は当主たる長政が官僚の最高位たる宰相であり、実家は貿易商社という二本立てだ。

 島津家や伊達家は領国経営プラス貿易商社を目指している。

 この貿易商社は非常に軍事色が強い。帝国が戦争状態に入ったとき、そのまま軍事作戦を遂行できるのだ。

 毛利家は軍事において島津、伊達よりも穏健な分、商才は豊かなようだ。何しろ毛利には村上水軍が着いている。


 武将たちは、辺境で反乱や異民族の侵入があった時は、軍を出動させた。

 福州で明の残存勢力が反乱を起こしたとき、伊達政宗と漢民族の武将、袁崇煥えん すうかんが鎮圧に向かった。改変前の歴史では、袁崇煥は明の武将として満州族と戦った智将である。讒言にあって殺されたが、明末の名将であることは間違いない。

 袁崇煥の用兵の巧みさ、戦略の確かさに、政宗はすっかり敬服してしまって、兄貴とまで慕うようになった。何事も惚れっぽいのがこの男の欠点であり、美点でもある。


 織田信忠の治世の最初の十年は概ね平和だったと言える。

 帝国にとって基礎固めの時期だったのだ。

 戦乱が終わり、人口が爆発的に増えようとしていた。

 ベビー・ブームがまき起こっていたのだ。

 上海の街のどこを見ても、子供たちが走り回っている。


 誰の言葉だったか、平和は次なる戦争の準備期間に過ぎない。


 ひとつの脅威が海からやってこようとしていた。

 その脅威は私たちが創っている歴史だけでなく、私たちの現在をも巻き込むものであったのだ。

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