下手な嘘

機戸ひいら

第1話


 朝。今日も目覚まし時計のアラームが鳴る前に目が覚めた。

 デジタル表示された時刻は、まだ午前四時二十分。

 冬の朝日が昇るにはまだ足りない時間だ。

 私は枕元の目覚まし時計のアラームを切る。アラームをかけると必ずそれよりも前に起きてしまう。この妙な癖のせいで、生まれてこの方映画の中でしか目覚まし時計のアラームを聞いたことがなかった。

 私は寝室を出て、リビングに移動する。昨夜の新聞がアイランドキッチンに置きっぱなしだったので、それをソファ横のボックスの一番上に置く。新聞はこうして一ヶ月ごとにアーカイブしている。

 私はテレビをつけた後、食パンをトースターに入れて、引き出しからインスタントの紅茶の箱を取り出す。そこから一つティーバックを取り出し、コップに入れた。冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し電気ケルトに注ぎスイッチを入れてお湯の準備しておく。コーヒーは自宅で飲まないようにしている。仕事中にだけ飲むことを許している。

 トースターとお湯も出来上がるまで時間があるので、マンションのエントランスにあるポストへ新聞を取りに行く。

 こんな時間に活動している人間はいない。だからこのマンションの他の住人とは擦れ違うことがまずない。尤も誰かと会ったところで私は挨拶の一つも交わさないだろう。

 新聞は日経新聞を取っている。仕事上、しょうがないことだった。新聞を部屋に持ち帰り、アイランドキッチンに広げて主なニュースをチェックする。政権交代を果たした新首相の外遊が主な話題だった。特に衝撃なことはない普段と同じ朝だった。

 トースターから焼きあがった食パンが半分飛び出すのとほぼ同時に電気ケトルから音がきえた。水が沸騰した証拠だった。

 私は冷蔵庫からマーマレードを取り出し、トーストの表面に塗る。それを口に加えたまま電気ケトルのお湯をカップに注ぐと、生活感のまるでないキッチンに紅茶の香りが広がった。

 テレビでは天気予報をやっていた。本日は一日中、快晴ということだった。

 昨日と同じ朝だった。


 シャワーを帯びながら今日発表の主な経済指標のチェックをする。毎週日曜日に今週発表の経済指標をプリントアウトしてラミネート加工しているので、シャワーを浴びながらでも紙はふやけずにチェックが出来る。

 会社に行けばこの種の話題は幾らでも出てくるので、こうして確認するまでもないのだが、こうやって確認しながら一日の業務の流れをイメージトレーニングするのが好きだった。

 シャワーを浴び終えると髪を乾かして、身だしなみを整える。無地のワイシャツに同じく無地のネクタイの上にグレーのチョークストライプのスーツを羽織る。腕時計はずっと前に先日別れた女が何の前触れもなしにくれたものだった。安物かも高級品かもわからない。その女はこの腕時計を何の箱にも入れていなかったからだった。たぶんそんなに良い物ではないんだろう。ただ時は精確に刻んでくれる。シチズン。日本製だ。だから今もしている。別れた女の顔を思い出すためじゃない。

 用意が出来たらアパートを出る。まだ東京は眠っている。鴉が残飯や深夜に出されたゴミ袋を狙っている時間帯だった。他に歩いている人の姿はない。駅までは徒歩で五分程度だった。

 私は朝のラッシュを回避する為に、朝五時半の電車に乗った。泉岳寺駅から出ている都営浅草線だった。

 列車に乗っているのは終電を逃したらしき大学生が数名と汚い、中年男性だけだった。どちらも疲れきった表情をしていた。私は大門で浅草線から大江戸線に乗り換えて勤務地の六本木で降りた。

 無人の構内を歩いていると自分が世界に取り残されたような錯覚にさえ陥る。

 私はコンビニ寄ってお茶と昼ご飯のサンドウィッチを買ってから出社した。

 IDカードをカードリーダーに読み込ませて、私のタイムカードをオンにする。いつも通り六時十分前の出社だった。こんな時間に来ても会社は開いているのだから、たいしたものだ。

 私は自分のチームのトレーディングルームに入った。まだ誰もいない円卓テーブルには私のスタッフは誰もいない。その周りに右に二つ左に三つ、デスクが並んでいる。各デスクの上には、液晶が四つ上下左右に並んでいた。スイッチの切られた黒い液晶が並んでいるデスクの一つに腰をかけ、PCの電源を入れる。IDとパスワードを入れてから、本格的に起動するまでしばらく時間がかかる。この時間が毎日の中で唯一、私が無になる瞬間かもしれない。何も考えず何の目的も持つことがない時間。別にこの時間が一日の中で至福の時というわけでもないし、よって特に大事にしているわけではないが。

 PCが完全に立ち上がると、市場の全てを見渡し支配できるかのようなプログラムが自動的に立ち上がる。実際、市場を支配することなど幻想なのだが、誰もいないこの部屋で揺れ動く為替チャートを眺めていると、そんな気の触れたような考えが起きてもおかしくないな、と思える。

 私が自宅にいた間の海外の株価の動きと、時差の関係で発表が日本時間の深夜になったアメリカの経済指標の結果をチェックする。

 日本時間の深夜に発表された他国の指標というものは、期待したほど動かなかったりするものだ。この日もその通りで、各国の平均株価が大きく動かなかった。

 私は世界中のニュースをインターネット使って目を通す。本当に便利な時代になったものだった。経済関係のニュースはもちろんのこと政治、くだらないゴシップなど、新商品の発表など株価に影響を及ぼすものは様々だ。

 その中でも一番予測が出来ず怖いのがテロ関連のニュースだ。特にアメリカやスペインなど民族、人種、宗教での対立が根深い地域ではたまにテロやテロと思われる事件が起きて一時的に市場の動きを激しくしてしまう。

 世界平和が私の願いなのだ。

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