第一章

第2話 アンデット×エンカウント

 久遠は必死に走っていた。日も沈んで、夕方から夜へと移り変わろうとしている街並み。

 賑わいを見せる雑踏を避けるように、久遠は息を上げながらも懸命に走る。

「ヤバい……このままじゃ、遅刻する……!」

 ポケットから取り出した携帯電話で時刻を確認すると、久遠は焦りながら声を上げる。

 先日、就職面接を受けた企業からのお祈りメールを受信して、丁寧なお断りの文章に心を折られて数時間。呆然自失から立ち直った時には、既にバイトの出勤時間三十分前。

 常識的に考えれば遅刻は必須だったが、久遠はとある事情からこれ以上の遅刻や無断欠席が許されない状況だった。だから無理を通してでも出勤時間を守らなければならない。

「よし、ここの近道を通れば、ギリギリ間に合うかもしれねぇ!」

 通常のルートでは間に合わない。だから久遠は裏路地に入り、迷路のように入り組んだ道をするすると進んでいく。幸いなことに、この街の地理は熟知している。

「頼む……間に合ってくれ……」

 祈るように路地裏を駆ける久遠。

 しかし、あと少しで店まで辿り着くところまでやって来ると、不意に怒号のような声が聞こえてくる。

「見つけたぞ――咎神天華(とがみゆき)ィッ!」 

 声は久遠の左前方の方から聞こえてきた。

 ここで右折すれば久遠の職場がある大通りに出て、ギリギリだがバイトの出勤時間に間に合うだろう。

 左折すれば声の聞こえる突き当たりに出るが、そうなってはバイトに間に合わない。

「…………」

 厄介事の気配を感じると、久遠は立ち止まって考える。

 彼は困った人は誰一人見捨てられないという正義漢ではないが、目の前で厄介事が起これば後味の悪さを感じる程度の良心は持っている。

「ああ、クソ! ちょっと様子を見るだけだからな……!」

 結局、久遠は声のする方向へ向かって行った。

 多少の遅刻ならば叙情酌量がある、と自分に言い聞かせる。

「……どちら様?」

 人気の無い路地の突き当たりには二人の男女がいた。

 一人は黒にピンクのストライプが入ったスーツを見事に着こなす女性。一言でいえば女社長、もしくはキャリアウーマン然としている。デキる女という言葉が似合いそうだ。

 アッシュ系の灰色がかったピンク色の髪は肩口まで伸ばされていて、毛先は優雅にカールしている。シャツやスカーフの色も淡いピンクで統一されていて、おそらくこの女性のイメージカラーはピンクなのだと久遠は判断した。

 彼女は髪を掻き上げて、怪訝そうに問いかけている。

 もう一人はギラギラと血走った目をした男で、その手には拳銃が握られていた。

「そんなことはどうでもいい……俺は、お前を殺しに来た」

 男は赫怒に滾る瞳で女性を睨み付ける。

 その声は怒りに震えていて、明確な敵意が込められていた。

 まるで噴火寸前の火山を見ているようだ、と久遠は漠然と思う。

「それで……本当にアタシを殺すの? 一応、理由とか聞いていいかしら」

 先ほど咎神天華と呼ばれた女性は、溜め息混じりに男を一瞥して平然と問いかける。

 彼女は男とは対照的に、僅かにも動揺している素振りを見せない。

「それは自分の胸に聞いてみろ、と言いたいところだが……いいだろう、どうせお前は、おれのことなんて覚えてもいないだろうからな」

男は天華の額に銃口を突きつけたまま、彼女の質問に答える。

「おれの妻と子供は……お前たち、【ヘブンフラワーズ】に殺された!」

静かに肺腑の底から声を絞り出すように男は言葉を続ける。

 その表情は憎しみによって禍々しく、そして醜悪に歪んでいた。

「お前たちの会社が、人外の連中を殺し屋として雇ってるのは調べがついている。妻と子供はそいつらに殺された……おれの目の前で!」

 わなわなと憎しみに震えながら、男は慟哭するように叫んだ。

 それは絶望に支配される一歩手前、復讐という拠り所によって保たれている唯一の理性だったのかもしれない。

「――ああ、もしかして……アナタ、例の悪徳企業の社長さん?」

 遠目で見ている久遠でさえ、気圧されるほどに凄惨な表情で問い糾す男を見て、天華はポンと手を叩いて声を上げる。それはまるで、取るに足らないことを思い出したようだ。

「前に来た依頼人が泣きながら言ってたわよ? なんでも随分と乱暴な手段で競合会社を潰していったものだから、生活がメチャクチャになった人が何人もいるとか」

 まるで子供の悪戯を窘めるように、苦笑混じりで言葉を続ける彼女は、この場において明らかに異質だった。

 その声色からは怯えや恐怖といった感情が、まったく感じられないのだから。

「つまり――恨まれるような真似するアナタが悪いでしょ? 自業自得、ってやつね」

 男もあっけらかんと答える天華の反応が意外だったのか、表情を凍らせて言葉を呑む。

「例えば、その銃でアナタの家族が殺されたとして、その時は何を恨む? 銃そのもの? 違うでしょ。真の元凶は殺意を持って、引き金を引いた人間よ。だからアナタが恨むべきは、明確な殺意を抱いてアタシたちに依頼をしてきた人間。銃そのものや、それを売った人間を責めるのは筋違いだって分からない? 正直に言ってお門違いよ」

 やれやれと肩を竦めながら、聞き分けのない子供へやんわりと、諭すように言い放つ。

 男はその流暢な口上にあっけにとられていたが、やがて言葉の意味を理解したのか怒りに顔を紅潮させ、憤怒の形相で喚き散らかす。

「ふざけるな! この化け物め!」

 再び構えた銃の指先に力を入れ、今にも引き金を引きそうな男を見て、久遠は息を飲む。

「もう、おれにはあいつらの復讐として、お前を殺すことしか残っていない! この距離なら、いくら化け物といえども避けられまい! 死ね! 報いを受けろぉぉぉ――ッ!」

 次の瞬間にでも、男は引き金を引いて天華の眉間を打ち抜くだろう。もはや対話の意思さえ粉々に砕かれ、冷静さを失っている男には、いかなる説得も通じない。

「止めろぉぉぉ――ッ!」

 久遠は覚悟を決めて物陰から飛び出す。力強く地面を蹴り、少しでも早く男と天華の間に割って入ろうとしたのだ。あわよくば、男を取り押さえて銃を奪い取ろうともした。

「――!?」

 死角から突然、現れた久遠を見て、男は反射的に引き金を引いてしまった。

 それは意図してのものでは決してなく、おそらく飛び出たのが犬猫の類いでも、彼は同じようにしていただろう。

「……ッカ、ハッ――」 

 その結果、あともう少しで男に届くところまで迫っていた久遠も、一歩及ばずに左胸を撃ち抜かれしまい、慣性に従ってそのまま地面へと倒れ込む。

 傷口からは止めどなく鮮血が溢れ出て、無残な呻き声を僅かに漏らすと、彼はそのまま動かなくなった。

「アナタは――どうして……?」

 そんな久遠の蛮行に驚いていたのは、男だけではなく天華も同じだった。

 男に銃口を向けられても決して動じていなかった彼女だったが、今は信じられないようなものを見るように目を見開いている。それは彼女が初めて見せた動揺でもあった。

「な、なんなんだ、こいつは……!」

 男は無関係の人間を撃ってしまったことに混乱しているのか、地面に倒れ込んだ久遠を見て、青ざめた表情でガタガタと身体を震わせている。

「お、おれは悪くない! ちくしょう。急に出て来た、こいつが悪いんだ!!」

 なおもヒステリックに喚き立てる男。それはおそらく、実際に人を殺してしまった罪悪感から逃避するため、自分自身に言い聞かせているのだろう。

 久遠の身体からは血が流れ出し、辺りを真っ赤に染めている。銃弾は偶然にも急所である心臓を貫いていた。即死とはいかなくとも、充分に死に至る致命傷だと見て取れる。

「…………」

 しかし、男は気づかない。この時、久遠の身体から流れ出していた血液の量が、いつの間にか減っていたことを。それが意味することも、同様に気づかない。

「あー……チクショー、痛(い)ってぇなぁ……」

 むくり、と久遠は身体を起こす。

 ふらふらと覚束ない足取りであったが、時間をかけてゆっくりと立ち上がった。

 そして気怠そうな顔で男を見ると、ぼやくように呟きを漏らす。

 着ていた服は血で赤く染まっていたが、その下の傷は既にふさがっていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る