第二次みちのく会戦
青森は、東西二つの異なる文化圏からなる県である。
大まかに西半分が津軽地方、東半分が南部地方と呼ばれる。
津軽地方は、江戸時代津軽氏が治めた弘前藩と黒石藩に相当する。中心都市は弘前市。弘前城は桜の名所として全国的にも有名だ。
一方で南部地方は、現在の岩手県中部から青森県東部を支配した盛岡藩の影響下にあったことから、むしろ岩手に近い文化圏である。例えば、青森県にはフジテレビ系列のテレビ局がないのだが、南部地方の中心都市である八戸市では、岩手めんこいテレビが映るためフジテレビの番組を視聴することができるのである。
南部と津軽は同じ青森県にもかかわらず、歴史的に凄まじく仲が悪い。
戦国時代、南部氏は青森県全域を支配下に置いていた。南部氏一族であった大浦氏が津軽地方の南部系豪族を滅ぼし、独立して津軽氏を名乗った。そして、津軽氏は江戸時代も弘前藩として津軽地方を治めたのである。南部からすれば、津軽は裏切り者に他ならない。
江戸時代後期には、盛岡藩の藩士が弘前藩主を暗殺しようとした事件も起きた。
戊辰戦争時には、盛岡藩、弘前藩ともに新政府に対抗する奥羽越列藩同盟に参加していたのだが、弘前藩は早々に新政府側に寝返った。その後、盛岡藩も降伏したのだが、新政府は、盛岡藩の位置付けを恭順が早かった弘前藩より下に置いた他、弘前城は天守閣を取り壊されることも免れたのである。
明治時代の府県統合の結果、現在の青森県となったのだが、ここでも南部、津軽の各中心都市の八戸市、弘前市のどちらを県庁所在地にするか揉めに揉め、結果、真ん中あたりの青森市に落ち着いたという経緯すらある(もっとも、青森市は津軽藩領であったため、津軽優勢な結果となっている)。
現在においても、まず言葉が通じない。南部人と津軽人が会話をすると、互いに一言も通じない。
また、例えば高校にも敵対関係がある。八戸市には八戸高校、弘前市には弘前高校。お互いに、自分たちが青森県で断トツだと思っている。特に、八戸高校にその傾向が強く、弘前高校が、
「八高なんかに負けることなど万死に値する!」
と敵視している一方、八戸高校は
「うちが当然青森県一なので、ライバルは他県の高校です。弘前高校なんか眼中にないです」
と、はたから見れば意識しまくっている。さらに、
「弘前には弘前大学があるから、所詮弘前高校はそこに甘んじている。八高はもっと上を目指しているからやっぱり青森県で一番」
と、冗談抜きに弘前高校を見下していた。
二〇××年。
この年の市長選挙が節目となった。たまたま同年に八戸市と弘前市長選挙が行われ、八戸市長に南部氏の末裔である南部
ここにきて弘前市は、南部地方に対する敵対姿勢を明確にした。先述のとおり、南部地方と津軽地方は犬猿の仲だが、現代においてのそれは、あくまで市民の魂に刷り込まれたもの、つまり気持ちの問題であった。しかし津軽明信率いる弘前市は、津軽守備隊を組織し南部地方との境に配置。陸路を封鎖したのである。
対する八戸市。津軽の変化を指をくわえて見ているわけにはいかなかった。武装勢力の突然の国境配置。いつ南部地方に侵攻してくるかもしれない。三八城公園を本陣とした南部守備隊を結成。攻め込まれる前に、石川大尉に百の兵を与え、先制攻撃に打って出たのであった。
その結果、第一まさかり中隊の撤退。損害こそ極めて軽微であったが、初戦は南部軍の敗北と言える結果であった。
沢村
第一次みちのく会戦に関する情報はすでに伝わっている。青天の霹靂弾による遠距離攻撃。これは南部鉄器盾を使えば容易に防げる。
しかし、逆に言えば、常に大盾隊が並んでいなければならないということである。重い盾を前線に並べた状態では圧倒的に進軍速度が鈍る。また、遠距離攻撃手段を持たない第一まさかり中隊のみでは、敵の数を減らすことができない。いずれ、機動力の高い縄文人部隊に背後を突かれる。大盾隊は背後からの攻撃には極めてもろい。
そして最大の懸念が、津軽の誇るリンゴであった。リンゴ砲――。もちろん、リンゴを使った砲弾も南部鉄器盾を破壊することなどできはしないが、リンゴは米よりもはるかに質量が大きい。砲撃を受ければ、盾を支える人間の腕の方が耐えられない。
沢村の率いる騎馬隊は、まさかりではなく、みなディスクシューターという飛び道具を携えていた。名物の南部せんべいをフリスビーのごとく回転させながら高速で射出する。さながら、現代型の騎馬弓隊であった。
七戸町役場に到着した沢村の隊は第一まさかり中隊と合流した。
まず沢村が行ったのは、初戦を終えたまさかり兵の体力回復であった。
「石川大尉もどうぞ」
そう言って沢村が手渡すのは「ジャッツ タッコーラ」。
石川はそれを一息で飲み干す。口に入った瞬間はただのコーラ。しかし、あとからにんにくがやってくる。胃の中から鼻へと、にんにく風味が込み上げてくる。
騎馬隊が持参したタッコーラを皆に配り終えて五分後、第一まさかり中隊全軍は、初戦の消耗など何事もなかったかのように全快していた。
「佐々木中佐が
沢村は言った。
酸ヶ湯温泉経由ルートとは、十和田、八甲田山を越え、青森市を通らずに直接弘前へと向かうルートである。
上野
「上野少佐の伝言です。『本隊到着前に、みちのく有料道路を落としておけ』とのこと」
青森市を落とし、二人の佐官級将軍率いる大軍で二方向から弘前城を陥落させるのが、南部の描く絵である。そのためには速やかに国境警備を撃破する必要がある。
「少佐に尻を叩かれては仕方がない。行くか」
石川はまさかりを担いで言った。
第一次みちのく会戦から二日後、南部軍の猛攻が始まった。津軽軍北部国境守備隊は縄文人とマタギ混成部隊を展開したが、沢村が加わった南部軍は圧倒的だった。青天の霹靂弾が届かない距離からの南部せんべい射撃。マタギ部隊のど真ん中を切り裂いていく。敵陣が乱れたところで、南部せんべいを撃ちながら騎馬隊が突撃。馬脚で敵を蹴散らす。散々に敵陣をかき乱しておいて、例のまさかり隊が大打撃を与える。追い打ちをかけるのが、沢村が騎馬隊と共に連れて来たウミネコ飛行隊であった。散り散りに逃げる敵兵に、上空から爆撃機の如くフンを投下する。
こうしてわずか三時間の戦闘で、南部軍はみちのく有料道路の確保に成功した。
勝利に湧く南部軍。しかし石川と沢村の表情は厳しかった。
未だに姿を見せない津軽軍正規兵――。
占領した国境砦に駐屯して三日後、上野率いる青森市方面軍本隊が到着した。石川、沢村共に上野の指揮下に戻る。
本隊が携行した追加のタッコーラで部隊を即時回復させたものの、鳥であるウミネコはそうはいかない。
本業が猟であるマタギ。布陣をあれだけ破られておいてなお、ウミネコに対しては的確に攻撃していたのだ。戦闘不能に陥った十二羽のウミネコを、ウミネコの繁殖地である八戸市の
そして、上野は最低限のまさかり兵とウミネコを五浦に与えて国境砦守備の任を与え、残り約五百ものまさかり兵をはじめとし、騎馬隊、そしてウミネコ飛行隊を率いて出陣した。これが青森市街へと殺到することとなる。
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