後悔

 正直、間に合わないかと思った。

 土蜘蛛の糸に手脚を拘束された彼女の姿を見つけたとき、私は長いこと感じていなかった感覚に襲われた。

 それは、理性よりも本能が先立つ感覚。普段様々なことを考えている頭から一切の事柄が抜け落ちて、ただ目の前のものを救わなければと身体が動いていた。

 「───戯れもそこまでになされよ、土蜘蛛殿。」

 我ながら数十年ぶりに聴いた、怒りの滲む声だった。明らかに焦った様子で派手で趣味の悪い着物姿の男がこちらを振り返る。その指先から彼女に向かって放たれている白い糸がこの上なく不愉快で、私はいつもの二割増しの強さで眉根を寄せた。

 この土蜘蛛は、態度が横柄なことでこの界隈では有名な客だった。そんな客が生粋の人間の娘を見て手を出さないわけがない。周りの客は巻き込まれるのを恐れてか、遠巻きにするばかりだった。

 「だ、旦那じゃねぇか……へへ、アンタもにおいが気になってきたのかい?アンタ、腐っても獣だもんなぁ。」

 私はそれに一切応じることなく、下衆と彼女の間に割り込んだ。そのついでに彼女には羽織をかけて、蜘蛛の糸を一瞥で切り刻んで解放してやる。

 「……白沢さん……?」

 こちらを見上げる視線に一瞬顔を向けたあと、私はついっと目を素行の悪い客へやった。そろそろきつい灸を据えなければとは思っていたから、いい機会だった。

 私はねちねちと嫌味ったらしい口調と言葉遣いで文句を並べ立てたあと、言うだけ言って彼女を羽織ごと引き寄せた。初めて自分から触れた彼女は壊れ物みたいに細く柔らかで、きっと自身も気がついていないのだろうが、小さく震えていた。あの春の日、突然現れた私を見ても物怖じひとつしなかった彼女が。私はその事実に、横っ面を張られた気分になった。

 彼女は人の子で、あやかしとは違うのだ。ましてや、現代を生きる彼女の瞳にはよほど力あるものでない限り、我らは映らない。

 私たちだけが、人の子を見る。人の子を求める。そんな世界は、人の子には遥かに危険だと……危険になってしまったのだと、愚かな私はようやく理解する。

 やはり、妙な気まぐれを起こしたのが間違いだったのかもしれない。古書店に戻ってきたとき、私はたしかに後悔していた。

 「もうここには来るな。」

 絞り出すように紡いだ言葉を、彼女がどんな顔で受け取ったのか。

 私はその表情を見ぬまま、再び己が身を置くべき世界へと戻った。このときは本当に、これで最後だと思っていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る