3-4-1-2

〈Sound Only〉のテキストの上に、人間のバストショットを表象したアイコンと「岩井悦郎」の名前が並んでいた。

「四宮さん、単独での交渉はしないでください。それは特別査察局として行うべきことだ」

 武野が何か話している。そのことだけは、四恩にもどうにかわかった。しかし何を話しているのかわからない。三縁の命がかかっているというのに、どうして特別査察局に――ナナフシに交渉権を譲ることがあるだろう。彼女は即座に通信の許可を出し、東子と磐音とカムパネルラとに回線を共有した。

〈私が何を望んでいるのか、賢いお前になら、わかるな〉

 岩井の既に何もかもを確保しているかのような、落ち着き払った余裕のある声。四恩は思わず、彼の望んでいるものを忖度し、自分が何を提供できるのか考えた。

〈誰でも、本当に欲しいものは何か、ちゃんと言うべきだと思います〉と磐音。

〈そうね。交渉は、まず互いの最大要求を確認するところから始めないとね〉と東子。

「岩井悦郎」という半透明の文字列の向こうで、カムパネルラが大きく瞬きした。

〈誰も誰かが何を望んでいるなんて、わかりません。私が望んでいるのは三島三縁の安全です。司令、あなたの望みは?〉

〈お前が今持っている物、全てだ。奥崎謙一、《地下金庫》、鳥栖二郎の〈還相抑制剤〉供給ルート〉

「四宮さん、全部を提供しようと、一部を提供しようと〈137〉を操作することはできない。交渉を今すぐに中断してください。一切を私の管理下に置き、その後、〈137〉から何もかも奪ってやりましょう。簡単だ。私はこの国を支配する」

 通信を聞いていないはずなのに、武野は正確に内容を把握していた。彼は情勢を分析する能力を失っていない。冷静そのものの様子。だが、サクラは四恩とカムパネルラの方へ足を踏み出した彼の肩を掴んで、その場に立ち止まらせていた。

「三縁――」

「リスクがなければリターンはなく、コストがなければベネフィットはない。現実は常に選択と集中を要求する。そういうものです。それに、ニューロコンピュータは他に何台もあるわけでしょう? 〈137〉を接収すれば、使い放題ですよ」

 結局のところ、彼は完全に冷静さを失っていた。言ってはいけないことを言ってしまった。

 彼の優秀なボディガードには、そのことがわかったようだった。サクラは大きな溜息をつくと、「アウトだ、馬鹿」と囁くように武野に言った。四恩も言うべきことを岩井に言うことにした。

〈《地下金庫》は司令の物になります〉

〈足りない〉

〈《還相抑制剤》の供給ルートは特別査察局へ。一連のテロをこれで収束させます〉

〈お前の前の恋人はどうする?〉

 岩井が声をあげて笑った。

〈奥崎はどうする? それこそが核心だ。後のものは単なる付属物、副産物に過ぎない。奴こそが〈三博士〉の狂気とこの国の腐敗の物証そのものだ。奴を確保したものが全てを手に入れる。《地下金庫》の金も、《還相抑制剤》の供給ルートも、それだけでは意味をなさない。使うことができない。お前が奥崎を内務官僚にくれてやると言うのなら、今すぐに三島三縁を死を望むまで拷問することにしよう〉

〈奥崎謙一の身柄はこの国の誰にも渡しません〉

〈何だと? 『この国の』……?〉

〈はい。わたしを信用してください〉

〈お前を? この私が、お前を?〉

〈あるいは、わたしの狂気を〉

 はぁああああああああはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはふっはふっはふっはっはっひひひいい――。

 視界の第二層の向こう、カムパネルラが岩井の哄笑に顔をしかめている。四恩も耳を塞ごうと思わず手を動かした。大きな、そして甲高い笑い声だった。心の底から、愉快でたまらないといった趣。

〈いいだろう。お前の狂気を信用することにしよう。それ以上に信用できるものなど、今の私にはもう、考えもつかないよ。狂気、か。結構、結構〉

〈三島三縁と話したいのですが〉

〈それは無理だな。彼は今、友人と自殺について議論中だ。お友達のニューロコンピュータとの通信以外は全て遮断、施設の電子制御へ侵入されて物理的に近づくこともできない。どうやら安楽死の倫理的問題と技術的問題、倫理的問題を回避できるような嘱託殺人の方法について議論中のようだ。親切心で教えてやると、連中の《議論》というのは、純粋に電子的な信号のやり取りで、我々が想定するような《議論》と同じではない。まず速度が違う〉

 飛び跳ねるようにして四恩は起き上がった。カムパネルラが顔と顔の衝突を回避するために大きく仰け反る。東子と磐音が目を丸くしてこちらを見る。

「四宮さん、前職の上司とのお話は終わりましたか?」

「《地下金庫》は――彼ら、に」

「看過できません。全て私の物だ。そうでなければ、貴女たちを守ることもできない。言っていることがわかりますか?」

「《還相抑制剤》の供給ルートは、武野さん、に」

「足りません」

 武野が眼鏡の弦に手を添えた。そのための僅かの動作が、彼の周囲にいた警察特殊部隊への指示だった。ドイツ製の機関拳銃の全ての銃口が少女たちに向けられていた。

「やめましょう、こんなこと」

「そうそう、せっかく仲良くやってきたのに」

 言いながら、磐音と東子は魔法のようにその手に出現させた回転式拳銃の銃口を武野へと向けていた。

 典型的なメキシカン・スタンドオフ。あるいは相互確証破壊。

 四恩は状況を打開する糸口を見つけようとするが、ただ1つの解、ここにいる全員を皆殺しにするという選択肢しか思いつかない。時間は、ない。三縁を助けることのできる可能性が減少するのに合わせて、未来の虐殺が現在へと投げかける影が濃くなっていく。

「馬鹿」

「どうかしましたか、サクラさん」

 サクラは武野の横に立っている。手には煙草とライター。拳銃ではなく。四恩と同様に、武器など必要のない戦闘員なのかも知れない。しかし、それにしても、この状況で――。

 ゆっくりと煙草を口に咥え、火を点ける。

「銃を降ろさせろ、馬鹿」

「サクラさん?」

「私の仕事はボディガードだ」

「知っています。彼女たちなど、貴女の敵ではないということも」

「貴様は何も知らない馬鹿野郎だ。買いかぶり過ぎだ、馬鹿。私の命と引き換えにできることは貴様をここから安全に出してやることだけだ。彼女――四宮四恩はここにいる全員、外にいる全員、ひとり残らず殺すつもりだ」

「何故そんなことが言えるのですか?」

「同じ状況なら私も同じことをするからだ。言わせるな、馬鹿」

 数多ある銃口が一斉に床を向いた。東子と磐音もまた、拳銃そのものをその手からまた魔法のように消し去った。

「この国を支配する最後の機会だったかも知れません」

「最後かどうかは貴様次第だ」

 武野がサクラの口から煙草を取った。彼にしては乱暴な態度に「あら」と磐音が声をあげた。サクラも虚を衝かれたようで、しばらく煙草一本分の隙間を唇の間に残していた。

 彼は煙草を味わってから、出口に向かって歩き出した。

「お姉様ぁ」

 磐音がサクラの腕に絡みついている。サクラは押し付けられた大きな胸を押し返しながら、懐からシガレットケースを取り出す。

「お姉様はあの男のどこが良いのぉ?」

 磐音と反対の腕を取りながら東子が聞いた。あまりにも直球で核心に迫る質問だった。四恩はどうにか無関心を装いたかったが、聴覚が鋭敏になるのだけは彼女の意識の範囲外のことだった。

「学歴主義者だし、職業差別主義者だし、権力欲に取り憑かれてるし……」

「人の話をすぐ遮るし」と磐音が続ける。

「しかも自分の頭が良いと思いこんでいる、馬鹿の中でも最低の部類の馬鹿だ」

 言って、煙草に火を付けるのを止める。

「煙草と同じだ。百害あって一利なし。パッケージには……」

「『喫煙は、様々な疾病になる危険性を高め、あなたの健康寿命を短くするおそれがあります。ニコチンには依存性があります』」

「うん、そう。よく知っているな。最悪なんだ。臭いし、実は美味くもない」

 サクラがカムパネルラの頭を撫でる。

「だが、吸うと気持ち良くなる」

 ええっ――!

 嬌声が木霊する。何、どういうこと、吸うって、吸うって何を、と東子と磐音が騒ぎ出す。短く笑うと、サクラは武野の後を追って歩き出した。

「おい、馬鹿。面白い職場になりそうだぞ」

「久しぶりに喫煙したせいか吐き気がしてきました」

 上司が体調不良を訴えているが、四恩にはそんなことに配慮している余裕はなかった。彼には今からさらに働いて貰う必要がある。存在しないはずだが存在する奥崎謙一と存在しているが存在をやめようとしている三島三縁を交換する取引のために。



                               3-4-1 終わり

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