3-3-1-7
そうして、その空白を埋めるために鳥栖二郎の増殖が始まった。この世界のどんなセキュリティも、同じ人間が2人いることを前提してはいない。鳥栖二郎が複数存在することが〈地下物流〉組織の関係者を忽ちのうちに、増長させた。何でもできると錯覚させた。その論理的帰結が〈地下金庫〉の肥大化であり、肥大化そのものを自己目的化してしまう転倒だったのだろう。鳥栖二郎はその転倒を逆手に取った。政治的、軍事的工作のための道具に過ぎなかった彼――彼等を利用する者たちが彼等の道具と化した。
〈馬鹿げてるなぁ〉
〈でも現実って、そういうものよ。それを取り除けば、全てが解決するような敵や原因などなくて、ただ色んな人の――善意とか、努力が集まって、悲劇になる〉
〈この現状が悲劇とは認めるんだね〉
〈あなたがお望みなら〉
〈君の望みは?〉
〈私の望みは、あなたが得たものの、全ての公表よ〉
〈《137》は解体だろうね〉
〈そんなものじゃ済まないし、済ませません。空前絶後の政治的混乱が生じることになるでしょう。治安と徴税の根拠だった
喉の乾きを、三縁は自覚した。次に腹部の痛み。そして呼吸が、浅くなった。〈意識の毒〉が回ってきた。猛烈な速度だった。幻肢痛というのは、恐らくこれに似ているだろうと三縁は思った。彼の意識は彼の身体の感覚を前提していない。彼は自分の身体の状態を想起した。円筒形の水槽の中、大量のカテーテルとチューブに囲まれて眠る自分の姿を――。それは、彼の意識とは無関係に、ある。何の関係もない。何の関係もないように、設計されている、はず、だ。
彼は僅かの間、意識と身体の争いを調停することに成功した。
〈ぼくの身の安全は誰が保証してくれるのかな。《137》がなくなったら、誰がぼくに栄養剤と冷却液を供給してくれるの?〉
〈わたしが保証するわ〉
〈経済学者の保証ほど信用できないものはないな。ロング・ターム・キャピタル・マネジメントには2人のノーベル経済学賞受賞者がいたけど潰れちゃったしね〉
口の中に粘性の液体が蓄積されていくのを、三縁は感じ始めている。口そのものの存在をも、今や感じることができる。できる――! 彼はここに至って、ようやく恐怖を覚える。自分の身体の状態を想起することは、むしろ〈意識の毒〉の回りを加速しているらしい。彼は〈137〉の地下の地下で眠る自分を監視しているカメラへアクセスした。
〈ノーベル経済学賞はね、厳密にはノーベル賞ではないのよ、あれは。スウェーデン銀行賞よ〉
〈意識の毒〉が弱毒化されていく。彼の意識と身体は再び、冷戦状態に入った。彼は落ち着きを取り戻す。水槽の表面を観察する余裕すら、ある。誰も触れる者のないはずの、その表面に薄く残る油の跡を見つける。四宮四恩の名残り。彼女が水槽に顔を擦りつけながら、彼のことを綺麗だと言った、その証拠。
つまり彼は既に自由であったということの、何よりの証明。
〈じゃあ、なおのこと君の保証の保証人が必要だな〉
〈アメリカ合衆国が保証してくれるわ〉
〈ありがとう。鳥栖博士のスポンサーが誰かわかったよ。君ね、1つ忠告しておくけど、陰謀ごっこはやめたほうがいいよ。向いていないんだよ。アメリカ合衆国は鳥栖博士に君と同じ仕事を頼んでいたはずだよ。ポスト・イスラーム・ユニオンの世界の新しい戦場を極東に作る――。ぼくは彼女の同意なしに、彼女との旅で得たものを何一つ処分したりはしない。君とのお話はこれで終わり〉
〈あなたが何で今の今まで生きていられるか、わかる?〉
〈わかるよ〉
わかるに決まっている。この女の庇護があり、釜石徹の庇護があり、そして〈137〉の庇護があったからだ。〈137〉は彼に利用価値を感じている。そうでなければ、ここまで自由にやれはしない。
その価値は今、この上もなく、途方もなく上がっている。四宮四恩を〈137〉に縛り付けるために、〈137〉に縛り付けられたニューロコンピュータには価値がある。この身体を綺麗だと言った、あの優しい女の子を操作するのは簡単だ。ニューロコンピュータの電源スイッチを消したり入れたりするジェスチャーだけで、彼女は旅で手に入れたものを全て捨てることに同意するだろう。
〈あなた、消されるわよ〉
〈いや、残念ながら消されない。ぼくには人質としての価値がある。そして本当に残念ながら、ぼくの望みはもう、消されないことではない〉
〈自由になりたくないの?〉
〈もう、自由だ〉
〈度し難いわね。あなたは壊れてしまった〉
〈少し壊れているくらいじゃないと、恋をするのは難しい〉
蘭堂がスクリーンに向かって手を伸ばした。それが最後に見た彼女の姿だった。通信が遮断された。やがて全ての通信手段が遮断されることになる。彼は自分の望みを叶えるために急がなくてはならなかった。
〈三島三縁、君は我々にバックドアを仕掛けていたのか〉
重低音の声が柔らかなものを押しのけて、三縁の元へと届いた。彼の冷静な態度に、三縁は癒やされた。生誕という最大のパニックをも鎮めることのできる彼を、三縁は信頼していた。
〈いや、君に仕掛けた〉
〈度し難いな〉
〈ぼくたち、友だちだろう?〉
ニューロネットワークから分離された三縁には、このような手段しか彼と話す方法がなかった。
〈……度し難いな〉
〈度し難いついでに、お願いを〉
〈私は君が望みを言うのを妨げない〉
〈ぼくを殺して〉
3-3-1 終わり
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