第3話 死の商人は悪くない

 案の定、十五センチはどんどん大きくなった。

 鳥子の持っているメジャーで測れる二メートルを超えてもまだ成長を続けた。

 部屋には置いていられなくなり、庭に移動させられた。

 ずぶ濡れになりながら僕も庭に移すのを手伝った。

 僕は、部屋の窓から落ちてくる十五センチを受け止める役目だった。

 だけど十五センチは元々浮いているので地面に落ちることはなく、僕はただ濡らされただけだった。

 しかし庭に置いておくのも、一ヶ月が限界だった。

 十五センチが大きくなりすぎたので、とうとう海に放すことになった。

 その当日、土曜日の朝、僕は鳥子に呼び出された。

 海まで十五センチを運ぶのは、夕方のはずだった。

 水着を持って家に来い、ということだった。

 僕は自転車をこぎ、僕の家と鳥子の家の最短ルートを知らなかったために学校を経由して、鳥子の家に行った。

 鳥子は縁側に腰かけていた。

 フリルのついた水着の上にパーカーを羽織っている。

「泳ぐよ」

 とだけ言って鳥子はパーカーを脱ぎ、ゴーグルを着けると十五センチの水に入った。

 十五センチは長く太くなった胴体を蛇のように巻き、スペースを取らないようにしていた。

 しかしそのようにしても丸い水は庭に植えられた木の枝を飲み込んでしまっている。

 とても窮屈そうだ。

 鳥子は十五センチの体に足を付けながら、上の方へと登る。

 登りきって十五センチの頭に立つと、丸い水のてっぺんから顔を出す。

「ほら、早く」

 少し乱れた息で急かされる。

 僕は家を出る前にもうトランクスの形の水着を履いていた。

 服を脱ぎ、リュックからゴーグルと水泳帽を取り出す。

 だけど鳥子は水泳帽を被っていなかったので、被ったらださいだろうかと思った。

 少しかっこつけたかった僕は鳥子と同じように水泳帽は被らずにゴーグルを着けた。

 まだ夏とは言えない時期だったが気温は高かった。

 それに十五センチの水はあまり冷たくなくて、十五センチの水の中に入るのは気持ちよかった。

 鳥子は泳ぐと言ったが、十五センチの水の中に、泳げるようなスペースはほとんどなかった。

 どうしても十五センチの体と自分の体がぶつかる。

 泳ぐのは諦めて、僕は十五センチの体の上をはうように進み、鳥子の所まで行く。

 十五センチの体はでこぼことしているみたいだった。

 たぶんうろこの一つ一つが大きいから、そんなふうに感じるのだろう。

 登っていくうちに鳥子の足が見え、僕は立ち上がった。

 水から顔を出してみると、僕は思った以上に鳥子の傍にいた。

 鳥子の後ろ髪、そしてうなじがすぐ目の前に見える。

「やっと来た」

「全然泳げない」

 長く水中にいたから肩で息をしながら僕は言う。

 荒い息はたぶん鳥子の後頭部に当たっているだろう。

 ぎりぎり水中から出ている鳥子の肩は、鳥子の顔よりもっと色が白い。

「そうだね。泳ぐって感じじゃないか」

 ちょっと待ってて、と言うと鳥子は水の中に潜った。

 足下を見ると、鳥子の手が十五センチの顔に触れているらしいことがわかる。

 その場に立ったままでいると十五センチが急に動き、僕はバランスを崩した。

 水の中に入ると、十五センチは顔を持ち上げていて、顔につかまっていた鳥子も上へと登っていくのが見えた。

 顔の近くの、僕の立っていた所も水面近くまで上がっていく。

 僕はそれに両腕でつかまった。

「偉い、偉い」

 鳥子は十五センチの頭を撫でる。

 僕は腕に力を入れて十五センチの胴体に乗っかり、腰かけた。

 小学生の時、学校のプールにとても大きなビート板があったことを思い出した。

 大人が寝そべっても余裕があるくらいの細長いビート板で、授業後半の自由時間には何人かでそれに座り、軽くバタ足をしてプール内を漂っていた。

 丁度その感じに似ていた。

 でも十五センチの体の方がしっかりしていて、何人乗っても沈みそうにない。

 鳥子は平均台を進むように十五センチの上を歩き、僕の隣で腰を下ろした。

 そしてゴーグルを頭の方にずらす。

「この子、すごく賢いんだ」

「ああ、すごいね」

 鳥子は顔を少し近づけてきた。

 見えにくそうに顔をしかめる。

「目、悪いのな」

「だから眼鏡をかける」

 そりゃそうか。

 鳥子は見ることを諦めたのか、顔を離す。

 僕はつい鳥子の水着、胸元を見てしまった。

 目を逸らさなければと思っていながらも鳥子の水着に目を奪われているうちに、ごく小さな波によって絶えず水面がわずかに上下しているのを僕は見つけた。

 僕はそれに頼ることにした。

 水の球の表面を走る小さな波、その一つを追いかけるように視線を動かしていった。

 十五センチの角が水から出て、木の枝とぶつかっていた。

 僕はその一点を見つめるように心がけ、

「そういえばさ」

 とビート板の話をした。すると鳥子は、なにそれ、と言った。

「なかったの」

 聞いてみると鳥子の学校ではそのような物はなく、だけどクラスの金持ちの子が空気で膨らませるボートなどを持ってきたらしい。

 その子は水鉄砲をクラス全員分持ってくるようなこともして、それであだ名が死の商人になったのだと鳥子は語った。

「いいなあ、そのあだ名」

「いや、羨ましがるような呼び名じゃないでしょ」

「小学生の時だったら絶対嬉しいって」

「でも、しばらくしたらそのあだ名はよくないって、校長先生から怒られた」

 校長先生が授業で教壇に立つことがあり、その時のことだったそうだ。

「最初はそう呼んでた私たちを怒ってたんだけど、話が長くなるうちにその死の商人がそもそも水鉄砲をたくさん持ち込んだことが悪いみたいな話になってさ、それですごく嫌な気持ちになった」

 話を聞く少しの時間で、もう僕は鳥子を見ないでいることに耐えられなくなっていた。

 胸は見ないと強く思いながら鳥子を見る。

 鳥子は下を向いていて、水中の足を静かに動かしていた。

「だって死の商人は悪くないもん。死の商人が色々持ってきてくれるおかげでプールの授業はすごく楽しかった」

「死の商人は、それでどうなったの?」

「もう商売は終わりにするって言った。プールの授業とか関係なく、おもちゃを一切持ってこなくなった。私たちは退屈になって、また色々持ってきてよって時々頼むんだけれど、でもその子が死の商人に戻ることはなかった」

 はあ、と鳥子は大きなため息をついた。

 怒りの矛先をどこに向けるか定まらず、ため息はそのままどこかへ流されていった。

「十五センチが生まれて、こんな大きくなったことにはどんな意味があるのかな。私たちが遠足の日を晴れにしたのは間違っていた?」

「どうだろう。断罪されるみたいな悪いことは起きてないと思うけど」

 鳥子の思い出話のような、苦い記憶にはなりそうもないと僕は感じた。

 十五センチとは今日お別れするのだし、そうしたらよい思い出になるのは確実だ。

 青春の日。あの時の思い出。

 大人になったらそんなふうに今日までのことを振り返って胸の内を温めるであろう、と僕はわかっていた。

「幸せの代償は空虚なエピローグだよ。今日からまた元通りの現実に戻される」

 深刻そうに鳥子は言ったけれど、つまり十五センチがいなくなるのがすごく寂しいということだった。

 十五センチを飼っていることで、鳥子は自分自身が漫画になれたようにも思っていたから。

「それでも僕は今日まですごく楽しかったよ」

「私もそうだよ」

 明るくなる気配は少しもない。

 鳥子のどんよりとした気分がどんどん広がり、僕まで寂しくなっていくようだった。

「無理に明るくいる必要もないのか」

 ふと思ったことをつぶやいた。

 すると鳥子も、そうかも、ととても小さな声で言った。

 それで僕たちはしばらくなにも話さずにいた。

 どれだけ明るいことを、そうしどれだけ暗いことを考えていたのかはわからない。

 僕自身がどうだったのかさえも。

 でも僕は寂しさを捨ててしまわないようにしていた。鳥子もそうだったと思う。


 昼ご飯を食べたり、テレビに夢中になったりして、時折十五センチのことをほったらかしていながら僕たちは十五センチとの最後の時間を過ごした。

 夕方になると、鳥子の母方のおじいさんの友達の息子で、鳥子のお父さんと仲がいいという、大野さんが小型トラックに乗って鳥子の家に来た。

「でかいなあ。乗るかなあ」

 と十五センチを見て言った。

「この水は、どうにかなんのか?」

 大野さんは鳥子と鳥子のお父さんを交互に見ながら聞いた。

「できます」

 とても賢いから、と鳥子は答えた。

 そして水を引っ込ませるべく鳥子が十五センチに近寄ると、鳥子はなにもしていないのに十五センチは体中で吸い込むように水の塊を引っ込めた。

 十五センチの胴が二回りほど太くなる。

 すごいな、と大野さんが興奮した声で言った。

「今?」

 僕が駆け寄って聞くと、鳥子はうなずいた。

「私、なにもしてない」

「わかってるんだ、こいつ」

「うん」

 十五センチは顔を少し下向きにして、僕たちに視線を合わせた。

 ウオオ、というような低い鳴き声を出す。

 なにかを喋っているかのように長く、強弱のある鳴き声だった。

 たぶん一分より短かったと思う。

 鳴き終わると十五センチは顔を真上に向けた。

 そして糸に引っぱられていくみたいに、真っ直ぐ一定の速度で空へ飛んでいった。

 やがて十五センチは雲の中に入り、見えなくなる。

 それでも僕は、十五センチが雲から出てきて、空を飛び回るのではないかと期待して、首が痛くなるまでずっと空を見ていた。

 鳥子はまだ上を向いていた。

「まだ見るなら、レジャーシートかなにか出してくるよ」

 と僕は言った。

 すると鳥子は空を見るのをやめ、首を横に振った。

「もういいよ。大丈夫」

 鳥子は柔らかく、そして少し力なく、笑った。

 僕は自分の後ろ首を押さえながら、

「首痛いや」

 と笑った。私も、と鳥子は首を回す。

「いいもの見たわ。ありがとな」

 そう言って大野さんはトラックに乗った。

 僕と鳥子は深々と頭を下げてお礼を言う。

 トラックが走り出す。

「そういえばさよならって言い忘れてた」

 鳥子は庭を出ていくトラックに手を振りながら、なんでもないことのように言った。

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