つかいけり

 ――それから十年が経った二〇二八年七月七日。

 熱狂のオリンピックが終わり、大きな戦争が終わり、大きな災害が終わり。

 いろいろあったけれど一番大きかったのは――


 やっとこさっとこ静けさを取り戻し、夏の訪れを告げる虫たちの声が密かに聞こえる都会のビルに埋もれた寺の夜の庭で、最近立つ位置によって見えることに気づいた、遠くに見えるビルの谷間のスカイツリーの頂を眺める。

 そして、更にその上に右手の人差し指と親指で作ったエル字の、15センチくらいの定規を重ねたところに、都会の明かりに煽られながらも煌々と白く輝く満月が見えた。


『私、宇宙工学を勉強したいんですよ』

 と言い前に歩み出した彼女に刺激を受けて、

 と言ってもそれから踏ん切りをつけるまで数年の助走期間を要したけれど、

 俺も調理学校に通い出して、本格的に料理の仕事を手に付けようとしてみたし。

『秀さん、小さい頃の夢ってなんですか? 私の小さい頃の夢は――』

 彼女は才能と、言い出したら聞かない負けん気なんて物も兼ね備えていた。

 勿論容姿が美人だったり、出来た人間だってことは親友としても鼻が高い点だけど。

「ほんとにしちゃうとはなぁ……」

 人差し指の先に輝く満月を、それが、

 15センチの25.6億倍も距離のある384,400キロの彼方にある物だとは思えず、

 眺めていた。


 カラカラと寺の広間と外廊下との敷居を、今では大げさに住職なんて威張っている燐太郎が開けて、

「お、なんだ秀ちゃんそんなところに居たのかよ、オヤジがイイ酒開けるってよ。今日はお祝いだからな。一緒に飲もうぜ!」

「ああ、すぐ行くよ」

 ついさっきまでNHKを筆頭に報道陣が訪れていて、ずいぶん騒がしかった。

 まさか燐太郎の父の書いた〝阿の字〟がにまで行ってるなんてな。


 もう一度月を見上げてから付き合ってやるかと、光の漏れている明るいお堂に戻ろうとすると、携帯電話に着信があった、見慣れない番号からだ。

 はて? と思いつつも間違い電話なんて昨今珍しいしな、と取り上げてみる。

『(何やら英語でいろいろな背景音が聞こえた後に)……――ザザッ、

 し、失礼しました、こちら鳩山秀さまのお電話で間違えないでしょうか?』

「はい、私、鳩山ですけど……」

『ああ、良かった、取ってくれなかったらどうしようかとヒヤヒヤしましたー、

 あっ! 時間が無いって!? 私、JAXA通信指令室の田代と申します』

「えっ!?」

 思わず振り返って、白く輝く満月を見上げた。

『はい、ちょっと衛星の位置調整に手間取っててお時間10分くらいしか無いのですが、今からNASA経由で白金牡留飛行士にお繋ぎしますね。

 ああ、回線は完全プライベートなのでどんな会話をしていただいてもかまいませんよ。それではごゆっくりー』

 接続待ちの音楽はエリーゼのためにじゃなくて、

 日本語から英語、機械音声とどやどやと作業しているらしい音が続いて、

 それから一分くらいして――。

『Hello 秀! 聞こえるっ! わたしっ、牡留ですっ!』

 思わず携帯を握る手が汗ばむ。

「うん、聞こえるよ! 今、ちょうど見てた」

『月? ああ、日本は夜の10時位ねっ! 七夕に満月なんてロマンチックだよね! あのね、秀、私も、今丁度日本が見えてるよー』

 そう。

 彼女は、月に居た。

 彼女の夢は、宇宙飛行士になることだった。

 阿字観で出会った彼女は、

 夢に向かって歩み出す元気を次第に取り戻していって、

 この十年で形にしてしまったのだった。

 ビコンと会話中に携帯が鳴って、

 彼女から送られてきた画像が表示される。

 それは月の稜線から望む暗がりの宇宙に浮かぶ青い地球だった。

『ねね、見えた? 地球は青かった! ほんとうに!

 ちょっと核戦争とかで心配したけど、まだまだ青いみたい』

「うわー、すっごいな。映り込んでる手、宇宙服の牡留さん?」

『うん、今ね、他のクルーたちはお仕事とお休み中。

 地球への電話は順番待ちで、親族に限られるって事になってるんだけど、

 お願いしたら秀に繋いでくれて』

 第二期月開拓調査船団、なる仰々しいプロジェクトの女性宇宙飛行士の募集が始まったのは五年くらい前だったように思う。

 破竹の勢いでキャリアを積み上げていた彼女が、女性宇宙飛行士の応募に名乗りを上げたのを、日本の宇宙学会は諸手で歓迎したし、あとはあれよあれよとこうなって……。

「最後に電話したの、地球を立つ日の前の日だったっけ、まだ一週間もたってないけど……」

 それでも、彼女はこんな一般人の俺と仲良くし続けてくれていた。

『でもー、秀のことだから心配してくれたでしょ? だから、ありがとーって言いたくて。こっちからの電話もお父さんとお母さんよりも先にあなたにしたかったの』

「はは、そうか。ありがとう牡留さん」

 彼女が檜舞台に上がって、やはり出てきた障害は、前カレだった。

 だがどういう因縁があったのか、彼女を守るという建前の俺と、

 ヤツの直接対決の場が訪れて、中学生かと言われるような泥臭い喧嘩の果てに

 こっちもボコボコになりつつも彼女の安全を勝ち取ったのだった。

 それも数年前だけど。

『ねぇねぇ、阿字観。公表しちゃったけどどうだった?』

「ああ、あれね、こっちはすごい事になったよ。燐太郎と親父さん、一躍時の人だ。俺も手伝いで駆り出されてさ、今、寺の庭から月みてる」

『ははは、そうだったんだ! 流行るといいなー! なんてったって私とあなたの出会いを作ってくれたコトだからね』

「うん、そうだね」

 宇宙船に持ち込まれた、達筆の阿の字。

 どういうわけか宇宙心理学者の先生なんかからも好評だったらしく、

 飛行士の精神安定を図る上での効果は科学的にも裏付けされてしまい、

 おかげでさっきNHKの人までこんな寺に来たって訳だ。

 こんな、なんて言うとあいつが怒るけどな。

『ねぇ、月での暮らしは思ったより快適だよ! 今度はあなたも連れてきたいなー』

「俺が生きてるうちに気軽に行けるようになれば……」

『一緒に来てくれるっ?』

「もちろん」

『ふふふ』

 そういえば、彼女が大学に通い出す頃からだったろうか、

 笑顔が増えたなーと思っていた。

 彼女の笑顔は周りの人も巻き込んで幸せにするタイプの笑顔だった。

 その声に、その心に、俺も前に進む元気を貰っていたんだよなー。

「声、だけじゃなくて、牡留さんの笑顔が見たいな」

『えっ!? あ、……えっと、うん。こんどテレビ電話用意して貰う』

「そういう意味じゃなくって」

『……は、早く帰れるように善処します』

「よろしい」

 俺たちの距離は、というと、

 そう、今、実距離は384,400キロも離れているけど、

 今が一番近いのかも知れなかった。

 ああー、でも、ここまで来たら、いや、

 このタイミングだからこそ逃したらチャンス無いだろ。

「あの、牡留、さん」

『なあに? 秀さん』

「うん。帰ってきたら、大事な話があります。覚えておいて下さい」

 滑舌よく、滑り出しよく、素直に、落ち着いた気持ちで言い切れた。

『……――――』

 言い切ったら牡留さんが黙ってしまった。が、

『……あの、待って、ました。そう、ずっと、ずーっと。ずーーーーっと』

「そっか、待たせてごめん。でもこのタイミングかなー! って思ってさ」

『ありがとう! あなたの、胸に、帰るね』


 の長距離電話をしている二人は知らなかったが、

 後に聴いたところによると、

 国家安全保障上の理由で聞き耳を立てていたNASA職員達は、

 この会話に拍手喝采で大盛り上がりして、二人を祝福してくれたんだとか。

 数ヶ月後に彼女が地球へ帰還する頃にはそれは周知の事実となっており、

 NASAでの歴史上初神前婚はそれは華やかに執り行われた。

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