阿字観 χαρά Scar
Hetero (へてろ)
野山にまじりて
野山なんかない。都会の中心だ。
だが都内のビルの谷間で、癒やし、だのまぁ如何にも女性が食いつきやすい文句をつらつら並べて、元はおんぼろ寺だったこの寺では阿字観教室が今日も行われている。
男性は勿論俺だけだ。
ITドカタと言われるSE業を、大学卒業直後から5年務めて、気づいたら胃に大穴の空く潰瘍が出来ていて、親にも身内にもコテンパンにほら見ろと打ちのめされた後に退職し、今はこの寺からほど近い商業ビル内のレストランで働いている。
集中して【阿】の字を見るのも、悟りが開けた訳じゃ無いけどそろそろ慣れてきたと思っていた。まぁ、元々親が檀家のつてで、あんた精神病んでるなら行ってみなさいよって背中を押されて紛れ込んだんだけど。
とまぁ正座してる脚のつま先がビリビリしてきたあたりがいつも、『(自称)修業』の限界なんだけど……。
ふと、お寺の一室としては広くは無い10畳敷きの部屋で、あえて俺の隣のほんの10センチっくらいしか離れていない座布団に、腰を下ろそうとしてきた新入りが現れた。
「あの、お隣、いいですか?」
ネーちゃん、いいかここは精神修業の場なのだ。いかな今時、時代遅れだろう、ミーちゃんハーちゃんみたいな雰囲気で、パワースポット巡りだなんだっていって、お寺で気軽にミラクル修業体験♩なんて糞坊主が宣伝を打ったからってそれに乗せられて――。
「あ、どうぞ」
思わず5センチほど座布団を遠のけて、彼女に着座を示唆する。
「ありがとう」
柔らかな女性の声音は、その場に男性は自分しかいないのに、修業を初めて3ヶ月で初めて聞いた声だった。
見ればその女性は20代半ばで、きっと同い年くらいだろう。
普段着で受けられるとはいえ、まだこなれてない、少しおしゃれ気味な服装で、
少々浮いて見えるが、服装じゃ無くて、その表情は意外にも真剣で。
正座して阿の字へ向けた視線は少し悲し気で、
黒く長い睫の下の真剣な黒い瞳に、先ほどのザワついた幼い指摘は誤解だったかなとも思い改める。
正座がいい加減厳しいので足を崩して、組み直し、胡坐をかいて阿の字に向き直る。特に姿勢についての指定があるわけでは無く、所謂フリースタイルというやつなんだが、最近は、耐えられるところまでは正座するようにしていただけ。
阿の字を眺める。見つめる。穴が空くほど見る。
部屋の正面に綺麗な書体で白い半紙に毎度デカデカと達筆で書かれる阿。
先の糞坊主の先代が趣味で書いてるんだとか。
雑念を持ってはいけない、なんて最初の頃は思ったけど、今はそうじゃなくて、
この阿の字から繋がって、いろいろな雑念を持つことこそが阿字観なのだろうと思うようになってきている。あるいはこの字がもたらすつながりこそが字観か――。
「はい、10時半です、今日はここまででーす」
のんびり口調の糞坊主が突然現れて、日曜朝の静かな時間・字観は終わりを告げる。
ふぅ。今日もいろいろ考えられたからいいか。
んーと、座布団に座ったまま背伸びをして、
未だ微妙にピリピリしびれる脚で立ち上がり屈伸する。
「おう、秀ちゃん、お昼どっかで食べてくか?」
と、周りの女性が立ち上がってはけていくのをみながら、座布団を片付けつつ、先の糞坊主が話しかけてくる。
そう、こいつは幼なじみの燐太郎というこの寺の、元小坊主で現跡継ぎなのである。
まだ周りに女性もいるってのにお気楽極楽なこって。
「まだ10時半だろ、親父さん手伝ってお堂の掃除でもしとけ!」
と喝を入れてやる。すると?
「お、そいじゃここの座布団は任せた! じゃーまた来週なー!」
「え、あ、おい、コラ!」
袈裟ですごすごと威厳の無い背中でもって、部屋を右から左に横断して、お堂の方に勝手に行ってしまった。俺はボランティアでもこの寺の関係者でもないっつーのに。やれやれ。
と、そんなやりとりには目もくれず瞑目していたお隣の席の女性も、体験時間が終わったのだと気づいたらしくはっとした顔をしてこちらを見てから、立ち上がろうとして。
「あっ――足が……」
よろけて俺の下半身にしがみつく形でなんとか転ばなかったけれど、
明らかに太ももの下の方に胸の膨らみだとわかる物が当たった独特な感触がして、
とんでもラッキースケベをあの馬鹿に見られなくて良かったと肝が冷えたのだった。
「うわっ、だい、大丈夫ですか?」
「え、ええ、は、はい! ごめんなさい。わたし初めてで、あの、こんなに正座でしびれるなんて、は、恥ずかしい」
真っ赤な顔を両手で覆って蹲ってるのをみて、
気軽に背中をぽんと叩いてしまった。
「なに、俺も最初はそうでしたよ。短時間のほうが余計痺れるんですよ。大丈夫ですか? もう立てますか? 少し脚を伸ばしてマッサージとかしてからの方が良いですよ?」
「いえ、もう大丈夫ですご迷惑をおかけしました」
ぺこりと辞儀をする彼女は、どこかのいいとこの出なんだろうか、凜とした綺麗な表情で、この距離感もあって、少し、ほんの少しだけ心がふるりと揺れたような気がした。
今度はふらつかせちゃ悪いなと手を取って、(ここまでの人生でこんなことしたのは中学の修学旅行の時のフォークダンス以来だ。)彼女が立ち上がるのを補助する。
「わっ、ありがとうございます。
……あ!」
立ち上がった彼女が見つめる先には繋いだ俺の手。
「あ……すいませんなんか差し手がましかったですかね?」
慌てて手を引っ込める。
だが、ここでしばらく間が空いた気がした。
彼女は首をゆっくり確認するように横にふってから、
「わ、わたし今、あなたに触れてましたよね?」
とおっかなびっくりの顔で問うた。
「え? ええ」
立ち上がる前にも、その、ちょっと大事なところで触れていましたよね?
という突っ込みを入れたいけれど。
「すごい、阿字観の効果かな!」
ものすごい嬉しそうな笑顔で彼女は俺の顔をみつめてきた。
可愛いというか綺麗系で、さっきはふるりとしか反応しなかったものが、
今度は明らかにドキリと下手くそに鳴った気がした。
――これが俺とお隣の席に偶然座った彼女との出会いだった。
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