第327話 泥の雨を抜けて。俺が帳の向こう側に触れること。

 ――――――――…………顎門の吠え声が聞こえる。

 どこかレヴィの歌に似ているのは、それが直接魂に響いてくるからだろう。

 優雅でもないし、勇壮でもない。

 なのに、激しく胸を打つ。


 人の魂では到底表し得ない激情に、火蛇の業火が応える。

 同じだけ苛烈な獣の魂のぶつかり合い。

 その残響が貪婪に夜を喰らい続ける黒い魚の声と合わさって、不思議な詠唱めいたリズムを刻んでいた。


 ヴェルグの黄金色の瞳が一瞬だけ差して、どこかへ失せる。

 頭に浮かんだ彼女の微笑みは心底愛おしげで、いっそ無邪気ですらあった。

 彼女の悲願の正体は、恐らくもうサンライン中の誰もが察している。だが、それを表す言葉が誰の内にも無い。


 それは遥か遠い昔、「裁きの主」の恵みと引き換えに失われてしまった世界。「母なるもの」。その大いなる闇…………。

 光の下で生まれた俺達には、それを心で思う以上に描くことは出来ない。


 上からも下からも降りしきる泥の雨の中を、俺は小さな魚の姿になって泳いでいる。

 白く、半透明の綺麗な魚が先導してくれている。

 砲弾じみた豪雨の只中を突っ切り、渦巻く膨大な想いの荒波を魚は真っ直ぐに貫いて進んでいく。


 …………なぜだろう。あんなに壮絶だった人々の記憶と想いの嵐が、彼に重なっていると少しも恐ろしくない。

 世界という名のおもちゃ箱の中に放り込まれただけ。そんな感覚に陥る。


 それも紛れもない「子供の」おもちゃ箱。

 大人のそれとは比べ物にならないほど、その世界は鮮やかで、感傷的で、底無しで、そしてどうしようもなく生きている。


 俺は彼――――ヤガミと弟のソラ君――――の指し示す先に扉があると確信していた。

 根拠なんてない。ただ、この場において俺とソラ君が最も近しいと感じている。

 俺と同じジューダム王を…………アイツを知っている、唯一の相手だ。


 ヤガミと王の姿は見えない。

 この雨と記憶の激しいせめぎ合いが、彼らの争いの形なのだろう。事実、雨粒に打たれると身体が焼けるように痛んだ。

 こんな規模で魂が潰し合い喰らい合う姿は、きっとおもちゃ箱の世界の中でもなければ、到底耐えられなかっただろう。


 一方で、自分は大人なのだとつくづく自覚しもする。もし本当に本物の子供であったなら、とてもこんな風に冷静に眺めてはいられなかったはずだ。

 ここにはヤガミがいて、フレイアがいる。彼ら以外にもたくさんの仲間が戦っている。俺にはやり遂げたいことがあって、守れるものがある。

 そういうことが、この子供と大人の境界線を守っている。


 ヤガミと王の声が箱中に響いていた。

 それは顎門と火蛇が織りなす獣の咆哮のように、容赦無く魂に叩きつけられた。



 ――――――――…………彼らの錯綜する景色を、俺はソラ君の背を通じて眺めている。


 人の記憶を掠め見るのは、何だかとても悪いことをしている気がする。

 リーザロットの過去に立ち入った時にも思ったが、ここは本来、本人以外の誰にも触れられない…………というか、触れてはいけない領域なのだ。


 魂が紡いだ世界は、例えそれがどんなに残酷なものだったとしても、どれだけ歪んでいたとしても、真実なのだ。

 正しいも間違いもない。

 心に映ったものが、世界となる。


 魂が色付いていく過程を、俺はじっと眺めている。

 リーザロットの瞳を介した時みたいに、俺の何から何までもが染まってしまっているわけではない。

 あくまで俺は異物だった。おもちゃ箱を人知れず覗き込む、神様でも何でもない、誰か…………。



 ――――――――…………雪崩れ込んでくる全てをつぶさに思い描くことはできない。

 両手いっぱいの積み木をを、一度には積みきれないように。

 そんなことをしようとしたら、積み木は二つと言わず、三つにも四つにも五つにも砕け散ってしまいかねなかった。


 …………誰だってそうなのかな。

 人間同士なら…………それも同じ世界で、同じ国で、同じ時間を、同じ学校で、一緒に過ごしてきたなら…………誰だって、カーテンを引いてしまいたくなるのかな…………。


 自分の姿があちこちを行き交うので、俺はどうしても自分を目で追ってしまった。

 それと同時に浮かびくる、自身の記憶。

 いたずらに蘇っては陽炎となって消えていく儚い出の数々に、俺はともすると流されてそのまま帰ってこられなくなりそうな危うさを覚えた。


 ヤガミの目に映る景色は、遠目に見れば綺麗なものばかりだ。

 公園で一緒に散らした花火の色。

 火蛇の火の粉に巻かれて、すぐに掻き消える。


 裏の神社の板のささくれが指に刺さる。

 長い長い石階段から見上げた入道雲、雨の匂い。


 夕暮れの校庭。手垢まみれの鉄棒とマメの潰れた手のひら。

 雨で爛れた身体の痛みがあっという間に塗り潰す。


 小枝を手折って剣にする。

 草の匂い。


 湿った雪の気配。

 枯葉の山を踏んで登る丘の向こうにうっすら日が差している。

 泥の雨が灰色の空を裂いて俺を焼く。


 電車がひた走る。

 眩しい夜の中。

 忙しない街から暗く長閑な俺達の街へ、そして知らない街へ…………。


 振動が黒い魚の声に重なってどこかへ沈んでいく。

 俺の知らない時間が駆け抜けていく。

 俺は薄いカーテンを閉めて、意識から世界を遠ざける。

 でなければ、俺は俺がわからなくなる。



 ――――――――…………血でぬめる路地。

 どこまでも続いていく。


 長い石造りの廊下。

 両脇にずらりと並んだ厳めしい異国の扉。


 夕暮れの学校の廊下が一瞬だけ浮かんで。

 古いアパートの錆びた金属の階段がカンカンと音を立てて薄らいでいった。


 何もかもが暗闇に深く沈んでいく。


 ふいに、大きな大人の手が四方からたくさん伸びてきて、俺は自分が無力な赤子となってしまったような強い恐怖に駆られた。


 すぐに小さな白い魚が戻ってきて、俺をほの明るい光で包み込む。

 ソラ君が俺の周りを一回りすると、腕達は幽霊みたいにどこかへ消え、俺達はまた前へ向かって泳ぎ出した。


 泥の雨はずっと降り続いている。雨脚は時を追って激しくなり、俺とソラ君はそぼ濡れながらどこまでも進んでいく。


 血まみれの路地がまた闇に浮かびくる。

 半透明に輝く白い魚は滑るように、そよそよと小さなヒレを動かして、輝く軌跡を路地の上へ伸ばしていった。



 廊下。



 廊下。



 …………どこまで行っても、細長い道ばかり…………。



 血濡れた世界が扉の奥で展開されていることを、俺は知っていた。

 だけど開きはしない。カーテンを開けないのと同じ理由だ。ヤガミもまた、それを望んではいない。


 いつだって、気付くと血まみれの手のひらを見つめていた。

 俺は腹に強い痛みを抱えながら、生温かい感触に一緒に浸っていた。


 …………川のように流れていく血。

 …………海となって広がっていく血。

 朱に染まる空が菫色から濃紺へと変わっていく。


 子供達の泣き叫ぶ声が響いている。

 ソラ君…………? あーちゃん…………?

 子供達の声はたちまち無数に重なって、最後は女性の凄まじい悲鳴に飲まれて一気に沈んだ。


 大きな手が、再び俺のうなじに触れる。

 兵士の攻撃ではなく紛れもない記憶の景色だと気付いて、俺は大急ぎで逃げ出した。

 雪崩れ込んでくるおぞましい記憶から、少しでも離れたくて叫んでいた。


 何枚も何枚も立て続けに扉を閉じて、固く錠をおろして、俺はまた長い廊下に転がり出た。

 記憶に引きずられていつの間にか人の姿になっていたのが、また元の魚の姿に戻った。


 …………血でぬめる路地。


 どこまでも続いていく…………。



 ――――――――…………火蛇と顎門が戦いを続けている。

 獰猛な命の飛沫が紅い火や白い牙の閃きとなって眩く弾ける。

 フレイアの荒い息遣いが俺の肌を粟立てたが、そんな呻きもすぐに熱気に炙られて蒸発していった。


 強い風を伴って泥雨は降りしきる。

 俺はもうまっすぐ進むのにすら苦労していた。

 気を抜くと、ソラ君があっという間に小さくなっていく。見失えばこの濁流の中でたちまち粉々になってしまうだろう。必死でついていく。


 ヤガミの記憶が散らす景色の欠片が訴えていた。


 それはまだ美しいと。

 街の明かりはまだ消えていないと。

 空は続いていると。

 道は続いていると。


 カーテンの向こうを跳ね回る少年たちの姿が、草を蹴って元気良く走り去る。



 ――――――――…………白く輝く軌跡が大きなループを描く。

 俺はその円の中を覗き込んだ。


 扉はぽっかりと口を開けて俺を待っていた。



 …………本当に「扉」があった。

 魔人すらくぐれそうな、巨大な扉だ。

 蝶番がけたたましく軋んでいる。固く閉ざされた両開きの鉄の扉は、中から激しく揺すられていた。

 力任せに何度も叩かれて、ヒビが入っている。


 奥から凄まじい怒号が聞こえた。

 数え切れぬ程大勢の声だ。悲鳴も聞こえる。

 赤子と子供の泣き叫ぶ声が甲高く混じり合い、黒い魚の吠え声がそれに共鳴して、わぁんと鼓膜を震わした。


 皆が揃って同じ名前を呼んでいる。

 「セイ」。

 俺の声も混じっていた。


 次いでか細い声がした。


 「逃げて」。


 女の人の声だったろうか。

 それはたちまち混沌とした音の狂乱に飲まれ、跡形もなく消え失せた。


 やがて轟音が力場を打ち、ついに扉が破られた。

 溢れ出てきた生々しい臓物の山に、俺は目を剥いた。

 人のものか、それだけではないのか。息の詰まる悪臭に吐き気を催すも、それより遥かに強く眩暈がして景色がひっくり返る。


 …………臓物の内から生えたたくさんの腕がこちらへ押し寄せてきて、逃れる間もなく俺を捕まえる。


 いつの間にかまた人の姿に引き戻されている。

 太い腕が咽喉をきつく締め上げる。他の腕達が我先にと身体中の皮膚を引き裂く。

 一つの腕が、腹の傷を抉って引き破った。


 腹を大勢にまさぐられ、激痛に気が遠退く。

 残響のように、残酷なまでに明るい花火が目にチラついた。


 どこかから茶色い眼差しが俺を見つめている。


 …………見透かしている。

 …………憐れんでいる。

 …………期待している。


 ただ真っ直ぐな瞳――――――――…………。



 ――――――――…………俺は目に映ったうんざりするぐらい見慣れた少年の姿に、手を伸ばしていた。




「――――――――コウ!!!!!」




 ヤガミの叫ぶ声と同時に、白い小さな魚が矢となって力場を突き抜ける。


 泥雨のカーテンを貫いて、矢は王の心臓に突き立った。

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