第320話 凶刃の舞う夜。俺が白い夢の終わりを見ること。

 ローゼスの刃の上を風が流れていた。

 薄く鋭い、あたかも刃をもう一重ねたかのような冷たい流線が、彼のロングソードの刀身を一分の隙も無く覆っている。


 ローゼスの太刀筋は無慈悲なまでに精確で、息つく間もなく繰り出されるフレイアの剣を、難なく全て受け流していた。

 その間も緻密に制御された風のうねりが、フレイアの火蛇を的確に傷つける。


 拓いた隙は、決して見逃さない。

 己にも相手にも、黒鉄の騎士は断じて油断を許さない。

 ローゼスはこれでもかとばかりに執拗に、フレイアを攻め続けた。


 獲物を狩る獣とて、このような苛烈さは滅多に見せまい。

 常軌を逸した執念深さと狂暴さが、鍛錬に鍛錬を重ねられた極上の剣と、機械仕掛けの如く冷め切った頭脳に、奇妙に同居していた。


 明らかに、前とは一線を画している。

 体捌きも、放つ魔力も、凄まじい圧を誇っていた。


「イカれてやがる…………」


 尋常ならざる攻撃の嵐に、つい口をついて出る。

 血と刃の化身とも呼ぶべきローゼスは、その凶悪な力を専らフレイアにのみ注いでいた。


「――――クラウス様!!!」


 斬り合いの最中、フレイアが叫ぶ。

 クラウスはまさにその瞬間、魔法陣をローゼスの足元に輝かせた。


「…………そんなにがっつくとモテないぜ」


 冷然と言い放ったクラウスが剣を振ると、魔法陣の描かれた地面がクレバスとなって深く裂けた。

 ローゼスは咄嗟に離れかけたが、間に合わずにクレバスの中へと体勢を崩す。


 間を置かず、クラウスはきらめく雪結晶を巻かせてさらに魔法陣を描き重ねる。

 黄色い獣の瞳に、空色の光が差した。


「――――…………閉じろ」


 横薙ぎに剣をピタリと止めると共に、クレバスが音を立てて閉じ始める。

 フレイアが火蛇を刃にまとわせ、身体を氷塊に挟まれて足掻き続けるローゼスを見下ろした。

「己の剣で決着をつけたかった」とでも言いたげな顔つきだが、こだわっている場合ではない。


 ローゼスの狂おしく暴れる魔力と、クラウスの氷山の唸り声が互いを圧し合い、腹の底まで地鳴りを轟かせる。


 俺はクラウスの力場に集中し、扉の気配を探っていた。

 天から地まで貫く巨大な氷山が割り裂ける、その音を稲妻の速度で抜き去る。


 ふと地の底で揺れた水の匂いに、俺は扉の存在を確信した。


「クラウス、行くぞ!」

「はい!」


 クラウスはすぐさま剣を翻して額へ十字に沿わせると、散らばっていた雪結晶をまとめてクレバスへと勢いよく流し込んだ。

 俺は氷山の底の扉に触れ、そこに滔々と流れている力を解放した。


「――――――――…………魔海に溺れろ!!」


 クラウスと俺の声が重なる。

 途端にクレバスに津波が溢れた。氾濫する流れは氷壁をたちまち崩し、瞬く間に轟音を響かせる氷河へと変貌する。

 飲まれたローゼスの姿はあっという間に見えなくなった。


「お二人とも、やり過ぎです!」


 勢い余って押し寄せてくる氷河から俺達を庇って、火蛇がベールを張る。

 クラウスは黄色い獣の瞳をぱちくりと瞬かせ、後は任せたとばかりに気を抜いて息を吐いた。


 ややして氷河の流れが治まった後、フレイアは避難していた建物の上から戻ってきた。

 俺は彼女の怪我が無いことに安堵し、声をかけた。


「ありがとう、フレイア。助かっ…………」


 言いかけで、急に禍々しい魔力を感じて言葉を途切らす。

 突如沸き上がった不安がわずかな間に力場全体を暗く覆い尽くす。重い雲の立ち込めている夜空が、一段と陰鬱に身体へとのしかかってきた。


 黒い魚の叫びが鼓膜をつんざいて響き渡る。

 街中を蠢くヘドロが、悲鳴じみた産声を上げて中身を弾けさせた。


「ヒッ!!!」


 そこから現れ出たのは、牙の魚だった。

 まだ未分化な、小さく奇妙な形をした魚の胎児が続々と血濡れた姿で溢れ出てくる。

 破けたヘドロはだくだくと石油の如く流れて繋がり合い、そこからさらに大量の魚を産み出した。


 真っ黒に腐った羊水を飛沫かせて、魚達は飢えを満たすように一斉に街の中へと泳ぎ出していった。

 皆、最早魚とは呼べないような異様な形をしていた。ただ尖った牙だけが痛ましく、白く、残酷に輝いている。

 早くも貪り食われた魂の絶叫が、力場をガラスのようにひび割れさせた。


 フレイアとクラウスはすでに臨戦態勢を取っていた。

 二人の詠唱が重なって始まる。

 響き合う声には、確かな緊張と強烈な戦意が色濃く込められていた。


 俺もまた二人を追って、力場に意識を潜らせる。

 まずクラウスの魔力が冷たく肌に触れ、フレイアの火蛇の息遣いがぽっと熱く胸に灯った。


 一つ、深呼吸。

 大丈夫…………。冷静にやれば、今度もきっと負けやしない。


 と、その時押し流されてきたヘドロの後ろで、何かが身を捩るのが見えた。


「…………?」


 正体に気付いた刹那、そいつは風となって俺の脇を駆け抜け、真っ直ぐにフレイア達へと襲い掛かっていった。


 狂暴な魔力が再び力場に吹き荒れる。急速に、ジェット機のような轟音を立てて空気がよじれる。

 黒鉄の鎧に施された金の装飾が闇に微かな残像を残す。

 鋭利な風を帯びた銀色のロングソードが、響き渡るいかなる叫びよりも鮮やかに闇を斬り裂き走った。




「――――――――…………フレイア!!! クラウス!!!」




 声を割ったが、銀色の刃はその時にはすでに獲物を捕らえていた。


 真っ赤な血が大きく斬り上げられた太刀筋をなぞって鮮やかな曲線を描く。

 白い鎧に点々と赤が燃える。

 赤褐色の獣の毛が、静かに空へ散った。


 首筋を斬られたクラウスは呻き声一つ上げることなく、前のめりに倒れ伏した。

 なだらかに大きく広がる血の海へ雪結晶がハラハラと溶けていく。

 儚い最後の一片が消え失せたのと同時に、彼の魔力が囁いた。



 謝罪。


 懇願。



 …………遠い恋慕。



 みんな夢のように、乱暴な風に攫われてあっけなく失せた。

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