第317話 猫と女とワールドエンドパーティナイト。俺が地獄の噴火口に臨むこと。
リーザロットは桜色の風に巻かれながら、沈痛な面持ちでサンラインを襲う惨状を見つめていた。
ヴェルグの耳障りな優しい声が、彼女をわざとらしく撫でていく。
「…………気に病むことはないよ、蒼の主…………。君は、本当によく頑張った。…………本当にね…………」
デンザとフレイアが眉間を険しくして空を睨む。
暗澹たる混沌を渦巻かせた空は、ジューダムの貴婦人の手によって留まるところを知らず茫漠と広がり続けていた。
「…………こいつぁもう、エズワースやサン・ツイードばかりの話じゃねぇな」
デンザの呟きに、フレイアが唇を噛んだ。
「なんということを…………。これ程までに蹂躙する必要があるのでしょうか? ここまで領土を荒らしては、最早侵略の意味がありません」
「ジューダム兵の腹は肉や魚じゃ満たされんのさ。…………敵さんが戦の歯車を永遠に止めない理由だ」
デンザは皺の寄った黒い目を俺に向けると、今度は地上に視線を送った。
黒い魚の呼び寄せた大津波と混沌が街を押し流していく。踏みしだかれていく命の叫びが、俺を震わせて止まなかった。
低い、唸るようなデンザの語りが、じわりと内臓に浸みた。
「勇者様。兵士なんてのは、どこの国のヤツだって命がけで飯食ってるもんですがね。ジューダムの兵は…………少々行き過ぎてるんですわ」
「…………?」
「アイツらは文字通り、魂を喰うんですよ。…………言うなれば、戦そのものがヤツらの糧なんです」
「魂…………? 糧…………? 何を…………」
「霊体の腹を膨れさすには、本物の飯は要らんのです。飯を食ってる感覚だけでいい。…………そのために、それを知っている魂を喰うんですわ」
「そんな…………! こんな殺戮をしてまで…………!?」
蒼褪める俺を、デンザはじっと静かに見つめて話し続けた。
「肉体を食わしていくよりは安上がりなんです。…………まぁ、それはともかくです。そんなわけで、この混沌は生半かじゃ始末に負えないってわけですよ。黒い魚はジューダム兵もサンライン兵もお構いなしに飲み込んでますが、ジューダムのヤツらは太母の護手共の力場を使って、その状況を上手く活かしてもおります。…………絶え間なく沸き上がってくる大勢の渇望…………要するに飢餓感が、ブッといパイプとなってジューダム兵の力場を強化し続けてます」
「そんな…………」
俺は言葉が継げず、黙り込んだ。
フレイアが心配そうに俺を眺めている。リーザロットは眼差しこそ向けないが、それでも思いやってくれている気配はひしひしと感じた。
デンザは俺にヒントをくれたのかもしれない。…………あるいは、忠告か。
いずれにせよ、覚悟無しにあの真っ黒な流れに飛び込むのは危険ということ。
どうすればいいのか…………。
力場中に満ちる、むせ返るような血と潮の匂いに眩暈がする。凍える風と湿り気、舞い散る灰がもたらす渇きが、それをさらに不快に仕立て上げた。
ただいるだけで感情が黒く滲み込み、窒息しそうになる。
ヤガミはまだ生きているだろうか?
ずっと気配を探っているが、血の匂いと味がどっと押し寄せてくるばかりで、何もわからない。
アイツの怪我は本当にヤバい。こんな力場に長く晒しておけば、確実に命にかかわる。
ヤガミを攫った太母の護手達は、ジューダムと手を組んで黒い魚を招き寄せている。連中からしても、きっと半ば捨て身の作戦なのだろう。
護手達の悲願は、世の中の全てを混沌の中に沈めてしまうこと…………だったはずだけど、一体これからさらに何を始めるつもりなのだろう?
長いこと虐げられてきた異邦人である彼らの恨みつらみが、混沌の一端となって侘しく天地を行き交っている。
ああ…………クソ、もどかしい。
やっぱり力場に深く潜らなくては、何も見えてこない。ここでこうして考えているだけじゃ、いつまで経っても「たぶん」「だろう」の堂々巡りだ。どこの扉にも辿り着けない。
飲み込まれる限界まで迫らなければいけないのに。
ゆくりなく、空を覆う黒いレースがふわりと揺れた。
仰ぐと、黒く透明なヴェルグの影が俺達の空を支配していた。
ジューダムの大騎士と貴婦人に向かって和やかな笑みを向けている彼女の声は、そよ風のように涼しく力場を渡った。
「いいだろう…………ジューダムの若き王よ。君がそうするのなら、僕も僕のとっておきを呼ぶとしよう」
黄金色の眼差しが、閃くような寒気を力場全体に走らせた。
「さぁ、宴はまだまだ盛り上がるよ。…………楽しもうじゃないか? 後悔しないように…………今しかない今を、ね」
激しい稲妻が、天を裂いて轟いた。
応じて、空の闇と地の闇が蠢き、暴れ出す。
絡まり、踊る混沌。膨らみ弾けて死肉まみれの腸をぶちまけ、吐瀉物が四方から溢れ出る。
それは頭の中で、外で、あらゆる意識の層に及んで、一斉に俺を苛んだ。
「うわぁあぁ――――――――っっっ!!!!!」
恐怖に、思わず悲鳴を上げる。
フレイアが俺を守って火蛇を滑らせ、白く輝くベールを張った。デンザの怒鳴り声が鼓膜に衝撃をくらわす。リーザロットのひんやりとした詠唱が鈍く深々と胸に刺さった。
「コウ様、お気を確かに! 今、結界を…………」
フレイアが呼んでいる。
だが、それよりももっと凄まじい邪悪な呼び声が、縋る当てのない壮絶な悲鳴を帯びて俺を暗闇へと引き摺り込もうとしていた。
邪の芽の高笑いが聞こえる。
言葉も感情も記憶も、瞬く間に混ぜ合わされ吸い込まれていく。
抗いようのない圧力に押し潰され、俺は自分の身体が血飛沫を上げてひしゃげるのを自覚した。
「うぁ…………あぁ、ああぁっ!」
「コウ様!!」
見えない。何も見えない。
神経という神経を余さず焼き尽くす激痛に、俺はまた悲鳴を上げた。
その声さえ、咽喉を締め付ける正体不明の力に阻まれる。
ドロリと甘い汁が一筋、咽喉を垂れ落ちる。
血の味…………それと砂糖。鉄錆と蜂蜜の塊がべりべりと粘膜を引き剥がす。
成す術もなく地に伏せた俺の頭を踏みつけるように、女の声が降ってきた。
「アッハハーッ!!! 宴もたけなわ!!! 真っくろ黒々!!! グログロゲロゲロのだぁーい盛況!!!
ハァーイ、ご主人様!!! ついにこの私をお呼びですねーっ!?」
このわざとらしい甘ったるい作り声は…………。
力づくで持ち上げた瞼の先に、ハッキリとその姿が浮かんできた。
年齢を一切顧みない、どでかいフリルの付いた趣味の悪いメイド服。不気味な紫ベースの厚化粧。油でも塗りたくったみたいに奇妙なてかりを帯びた黒いおさげ髪。
その女の唇が、下品に不敵に歪んだ。
「呼ばれて飛び出てジャジャジャジャーン!!! イリスちゃん、で――――っす!!! 期待に応えて全身全霊、全力全開、ワールドエンドナイト大フィーバ――――!!!」
現れた女…………魔術師イリスは、軽やかな足取りで俺の前に立つと、紫色にじっとりと輝く瞳でうずくまる俺を見下ろした。
「アハァ…………だっっっ…………っせ! まだなぁーんもしてないのに地面舐めてやんのー! プークスクスッ! 弱ッ! 雑魚ッ!」
フレイアの瞳がカッと赤く燃え上がる。
リーザロットが止めるのがあと一瞬遅ければ、立場も状況も無く斬りかかっていたかもしれなかった。
フレイアを抑えてイリスと差し向かったリーザロットは、鋭く研ぎ澄まされた蒼玉色をさらに冷ややかに細めて言った。
「アルゼイアのイリス。魔術師ならば自身の力場を制御なさい。…………味方にも影響が出ていますよ」
リーザロットが俺の傍に屈み、そっと額に手を当てる。
渇きや痛みがゆっくりと引いて、俺はようやく深く呼吸ができるようになった。
身体にはまだ軋む感じが残っていたが、いくつかの内出血以外に目立った怪我は無いようだった。
イリスは肩をすくめると、右目にかけたモノクルをあざとく光らせて俺に軽蔑の視線を送った。
「ハァ…………この世で一度きりのワールドエンドなのに、言ってる場合かってんですよー。むしろこれしき乗りこなせなくて、よく今まで生きてこられましたねー? イリスちゃんびっくらポン! ポンポンポン!! …………っつーかイリスちゃん、アンタらに義理立てする理由、マジでどっこにもねーですからねー? 勝手にガンバレ! って感じぃー…………」
彼女はペロリと長い舌を出して唇を舐めると、歪に頬と目とを引き攣らせてジューダムの貴婦人と大騎士を見据えた。
笑っている…………のかもしれない。
全く人らしく見えない、魔獣めいた不気味な迫力を灯したその横顔に、俺はまた口内に腐肉を突っ込まれる感覚を覚えた。
「はぁん…………あーれが音に聞くジューダムの双塔ってヤツですかぁー? どっちもすっごく燃費悪そうですねぇー。ああしてデッカデカと顕現するのに、果たしてどんだけ喰い散らかす必要があったのやらー? その分の死体肥料にしてグゥブ飼う方が、よっぽど安くつくとイリスちゃんは思うんですけどねー。
ま、その分馬力はあるんでしょうけどもやっぱりぃ…………」
ぶつぶつと綴られる独り言を遮って、ヴェルグの声がした。
「では、任せたよ。イリス。僕は黒い魚と王様に会いに行く。来るべき時は近い」
「アッハァ! りょーっ・か・い・ですっ! すぐにグチャミソのケッタクソのクッソミソにしてご覧にいれますからねー! …………今夜はトコトン! 好きにやっちゃっていいんですよねーぇ?」
「ああ、存分に」
ヴェルグが無数の黒い流星となり、真っ逆さまに黒い魚めがけて落ちていく。
後を追う突風の衝撃が俺達を襲った。
イリスが奇声を上げて駆けだす。
勢いよく宙に飛び出した彼女は、両手を大きく広げると、一瞬にして街を埋め尽くす程の大量の魔法陣を展開した。
彼女の瞳の色と同じ、紫色の光を噴く禍々しい魔法陣は、彼女が空中で繰り出す奇々怪々なステップに合わせて、さらにおどろおどろしく、邪に沸いて燃え上がる。
力場に響き渡る悲鳴の一切合切を捩じ伏せて、一滴残らず絞り出された金切り声に、俺は歯を食いしばった。
ジューダム兵や太母の護手だけじゃない…………サンラインの市民や騎士の声も混じっている。
「レッツ!!! スウィ――――ツ・パ――――――――ラダァァァ――――――――イスッ!!!!!」
イリスの歓喜の叫びに合わせて、先に感じた闇の衝突よりも遥かに凄まじい混沌のうねりがドッと押し寄せてくる。
急激な気圧の変化に、鼓膜が千切れんばかりに痛んだ。
リーザロットが見たことのない怒りの表情で蒼く凍えた風を周囲に張り巡らせる。フレイアが火蛇の輪を広げて、結界を重ねた。
火蛇の熱がじりじりと肌に伝わってくる。蒼い風が時折、それを突き破って俺を震わせた。細かな雪結晶がキラキラと周りを取り巻いている。
デンザのハルバードの刃が、紅と蒼を交互に映して猛々しく揺らいでいた。
「…………なんてむごい…………!」
リーザロットから血の滲むような呟きがこぼれる。
イリスの力場の気配から隔てられていくのにつれて、次第に辺りの景色が冷静に見えるようになってきた。
眼下に広がる変わり果てた街の景色に、俺は思わずえづいた。
それはひどい悪臭を放ち、大地と海にまたがって浸食していた。
地上、海中関わらず、そこにあった全てのものが腐敗し、一つのヘドロとなっている。海は巨大なドブ溜まりの如く、海岸線を飲み込んで不定形のスライムのようにわだかまっていた。
その表面をたくさんの黒い影が蠢いている。
本能の警告を無視して目を凝らすと、おぞましい数と形相の蟲達が網膜に飛び込んできた。
「ヒィッ…………!」
叫んだのは、俺のすぐ傍を大きな羽音が掠めたからだ。
同時にパッと甘ったるい異臭が視界を歪める。
辺りを振り返ると、ギラつく翅をはためかせた拳大もの蛾が、大量に結界に侵入してきていた。
この匂いは、こいつらの鱗粉か。
耐えかねたフレイアとデンザが焔と爆風を解き放とうとしたその寸前。
何か小さな影が、俺の傍の蛾に飛びついた。
眼前を過ぎ去ったそれの姿に、俺は言葉を投げつけた。
「お…………お前!」
蛾を足元に組み伏せたそいつは、鋭く爪の立った前脚で暴れる蛾をいともたやすく引き裂くと、何とも面白くなさそうにその辺に放ってこちらを仰いだ。
黄色い目に、縦に細く刻まれた瞳孔。
姿ばかりはよく見慣れている獣…………細身の三毛猫が、そこに立っていた。
「リケ! お前、何でここに!?」
「ナー…………」
リケは半目になって首を低く下げ、言葉を続けた。
「人間は何で、「ナンデ?」「ナンデ?」ばっかりナー。ニャんだかナー…………。「勇者」、少しは魔法を覚えたか?」
「だったら何だって言うんだ! …………今は、お前なんかと遊んでいる暇はないぞ!」
「遊んであげているのはリケの方、おバカ。…………お前達とイリスさんがあまりにダメダメだから、面倒を見てあげるようヴェルグさんに頼まれたのですニャ」
リケは結界を張るリーザロットと、険しい顔のフレイアとデンザをチラと仰ぎ見て、また俺へと視線を注いだ。
リケの瞳孔が微かに広がる。
全身に鳥肌が立ち、何を言おうとしたかわからなくなる中、彼は2本の長い尾を高くゆっくり揺らめかせ、話をした。
「これから牙の魚がたくさんやって来ます。引き留めていたヴェルグさんはもう行ってしまったので。…………でも、リケは食べられないお魚、ちっとも好きじゃない」
「何が言いたい…………?」
「お魚はお前達にあげます。狩りの練習」
「は…………」
有無を言わせぬうちに、リケが身軽く飛び去る。
ふ、と闇の内に姿が消えたかと思うと、凄まじい風が辺りに吹き荒れ、飛び交っていた蛾を粉々に引き裂いた。
「あ―――――――――!!! リケちゃんひっっっどぉ――――――――い!!! イリスちゃんのきゃわいいムシムシに、一体何てことするんですか――――――――!? 悪い猫ちゃんはお尻ペンペン!!! だぞぉ――――――――ッ!!!」
津波となって襲い来る悪臭、耳鳴り、激痛に、語尾のべとついた叫び声が加わる。
どこぞに消えたリケが、巻き上がった山程の蛾の鱗粉を自らの形に変えて、牙を剥いた。
「ニャかましいッ!!! 自分の仕事をしろ!!!」
「うっわー、怒ったァー! 「フシャーッ!」 キャ――――ハハハハハハ――――――――!!!」
リーザロットが素早く印と魔法陣を組み上げ、蒼く輝かせる。
それと時を重ねて、鱗粉でできたリケが目にも止まらぬ速度で上空のジューダムの貴婦人に襲いかかった。
間髪入れず、イリスの蟲達が津波と湧いてジューダムの大騎士を飲み込みにかかる。
この世から放たれたとは思えない悲鳴の渦が力場を震わす。
混沌が俺達を巻き込んで、さらなる闇の腹腔へと叩き込もうとしている。
貴婦人の呼んだ落雷と風雨が夜を賑やかし、ジューダムの大騎士の振るう大剣が蟲達を…………蟲の形をした、かつて命だったものを…………嵐の真っ只中へと千切り捨てていく。
「――――――――来るぞ!!!!」
デンザの大声すらロクに聞こえなかった。
イリスのヘドロが喰い破られ、数えきれない数の牙の魚がこちらへ突進してきた。
俺は突如閃いた次なる予感に、思いがけず叫んでいた。
「上だ!!!」
渓谷を滝が穿つみたいに、夜空が破れる。
上空から溢れ出てきた牙の魚の群れが、一目散にリーザロットへと雪崩れ込んでいった。
逃れようもなく開かれた口が、彼女を飲む――――――――…………。
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