第298話 孤独な「獣」の辿る道。俺が死神と対話したこと。
程なくして、死神は現れた。
ゆらりと木陰が揺れたかと思うと、白い頭蓋骨がぼうっと闇夜に浮かんで、彼はその大きな身体を俺の前に押し出した。
「タリスカ。…………ありがとう、来てくれて」
「勇者よ、何用か」
骸の騎士は悠然と腕を組む。
率直だが、言い方に冷たさはない。(ところで、なぜ彼はいつまでも俺を「勇者」と呼ぶのだろう? 本物はあーちゃんなのに…………)
気を許して口を開きかけたところで、骨の手がおもむろに俺の額へと伸びてきた。
「あっ! ちょ、待っ…………今は違っ…………本当にっ…………」
「冗談だ」
「えっ…………?」
漆黒の衣に包まれた腕が悠然と俺から離れていく。
何だかもう、はしゃいでいるとすら言える上機嫌ぶりである。リーザロットの謁見が叶ったのが余程嬉しいらしい。
俺は呆れ目で彼を仰ぎつつ、ホッと息を吐いて話を切り出した。
「実は、聞きたいことがあって。…………フレイアのことなんですけど」
死神の虚ろな眼窩に溜まる闇は、静かに俺を受け入れている。
彼は大樹の幹に背を預け、黙って耳を傾けた。
庭の木々が穏やかにさざめいている。
夜を映して黒く艶やかに流れる小川のせせらぎは、不思議と胸をざわつかせた。
「俺…………あの子のことがもっと知りたいんです。フレイアが「裁きの主」を…………信じない理由について。「裁きの嵐」なんてものを、どうしてあの子が呼べるのかって、ずっと気になっていて」
すげない答えを予想していた。
フレイア本人にさえわからないことなのだ。それを、藁にも縋る思いで聞いている。
予想に反して、タリスカは案外真摯に答えてくれた。
「理由などなかろう。とはいえ、生来のものだと言い切りもすまい」
彼は俺の奥の、彼女から感染ってきたあの呪わしい魔物…………邪の芽を見据えて続けた。
「勇者の内に巣食うそやつもまた、完全な理由とはならぬ。そやつが「不信」故に芽吹くのか、そやつが根ざすがゆえに「不信」を抱くのか、見定めることは叶わぬ。…………あのツヴェルグでさえも、その根幹を掴むことは叶わなかった」
彼の低く単調な、どこか侘しい響きが、頭を巡った。
「フレイアは孤独な娘だ。…………あの娘の孤独は、余人とは次元を異にする。あれはその魂が、宿命として携えているものだ。
孤独は誰の魂の内にも潜む。だが真なるそれは、固き凍土の下に深く眠るが如く。生涯芽吹くことはまずない。孤独の眠りは遥か深層に及ぶ」
「…………」
死神は強張る俺を暗い眼窩の奥に溶かし、淡々と話し継いだ。
「なれど稀に、生まれながらにしてそれを己が内に息づかせている者がある。
…………人とは限らぬ。亜人、獣、蟲、樹木、精霊、魔…………形は様々であった。そして彼らは皆、等しく力を持っていた」
「…………力?」
繰り返す俺に、死神は低く言葉を重ねた。
「彼らは強く…………優れていた。我が刃すら通さぬ程の力を身に着けた者は、皆そうであった」
「…………タリスカが? 勝てない相手がいるの?」
骸の騎士は答えない。
負けを認めたくないとか、恐らくそういうわけではないと思うが、俯いた彼の顔色から真意を読み取るのは至難の業だ。
ふと、ジューダムのヤガミのことが頭によぎる。
彼の連れる大鮫、「
黙って窺っていると、タリスカはまた顎骨の間から暗い風を吹かせ始めた。
やはりあまり彼らしくない、微かなくすみを滲ませながら。
「…………命を知るより早く、あれらは孤独を知るのであろう。そして時を同じくして、あれらは力を知る。…………如何なる存在にも揺るがされぬ、生命の本性を」
漆黒の衣が風に揺れる。
それは消えかけの炎にも似て頼りなく、目が離せない。
瞬きの後には物悲しい色彩は幻と消え失せ、乾いたいつもの語りが続いた。
「かつてフレイアの祖母、エレシィ・ツイードは私に語った。…………あの娘には力がある。ツイードの血を引く者がひた隠しにしてきた、おぞましい獣の力があの娘に顕現している、と。…………エレシィ自身は、あのまつろわぬ魔のことをその正体と思い込んでいたが」
タリスカが空へと視線を投げた。
天の川がその先で音も無く流れている。
少し風が冷たくなってきたので、俺は肩にかけていた上着に袖を通した。
死神は何を見つめているのだろう?
その横顔は白々と冴えて、水底に長いこと忘れられている古い宝石みたいだった。
彼は俺へと目を落とすと、静かに尋ねた。
「勇者。フレイアの力、あの獣達の名を知っているか?」
「えーと、確か…………ジークとシグルズ」
「フ」
何がおかしいのだろう。
というか、何でそんなことを聞くのだろう。
声に出すまでもないようで、彼は俺の顔を見て話を続けた。
「獣型の魔力は、それ自体が意思を持つ。そこに邪の芽は巣食う。…………だが、それだけだ。フレイアの分身たるあの蛇達も、まつろわぬ魔も、結局は根より萌出づる枝葉に現われし些末な事象に過ぎぬ。フレイアの宿命の根は、魂の根源の核にまで至っていると、私は感ずる」
「さっきの、孤独の話?」
聞き返しに、タリスカは下顎骨をわずかに引いた。
「フレイアとは幾度も剣を合わせてきた。あの娘の孤独は、戦の中においてより深く感じ取れる。
エレシィには…………否、他の如何なる魔術師の手にも負えぬであろう。
あれの才は即ち、孤独の宿命。あの未来永劫絶えぬ業火こそ、真の「獣」の証だと、やがて私も悟った」
死神がしばし口を閉ざす。
彼は相変わらず、俺を見ている。
俺に何か言えるだろうかと考えて、止めてしまった。
何もかも最初から知っていたような気がするし、何ならこれから聞くことも、実の所、もうとっくに全部わかっていることなのではないかと思えた。
ただ、わかりたくないだけで。
タリスカは見えない誰かへ伝えるように、小川のせせらぎに調子を紛れさせつつ語った。
「勇者よ。フレイアは戦の子だ。そのように生まれ、そのように育まれた。私はあの娘が力に溺れぬよう、その魂を濁さぬよう、鍛え上げた。ツイードの一族もまた、同様であるべく厳しい教育を施した。
故にあれは何者も信じておらぬ。「裁きの主」はおろか、その他に息づく、世界の何者をも。
心得た「獣」となるより他に、「獣」を生かす道は無かった」
「…………「獣」なんかじゃない」
思わず吐き出された俺の呟きを、満天の星空が冷ややかに蹴っ飛ばす。
樹々のざわめきも川の流れも、素知らぬ顔でただただ美しく流れていく。
死神は話を続けた。
「道は無い…………はずであった」
白い腕がするりと夜を滑る。
大きく長い指が、俺の頭に触れた。
「え…………? あ、あの…………?」
当惑はさらに強まった。
何とも不器用で異様な揺らめきではあるが、どうやら死神は俺の頭を撫でたらしい。
「「獣」ではない。…………ああ、そうであろう」
低い声と共に、骸の腕が離れていく。
たまたま風に吹かれただけだったかもしれない。そんな余韻が残っている。
彼の声調子は、とても穏やかだった。
「…………いつであったか、辺境の森ではぐれた折に、フレイアが歪み穴を抜けて消えたことがあった。幼子にはよくあることであるが、あれもまたよく時空に惑っていたものだ。
…………私が見つける時には、常に毅然と振る舞っていたが、一度限り、その折に涙を見せたことがあった。
何と出会ったのかは知らぬ。語ろうとせぬ。なれど、私には以来、あの娘が「獣」には見えぬようになった。…………勇者にのみ伝えることだ」
暗く深い眼窩の奥で、闇が揺れる。
俺は続く言葉に耳を澄ませた。
「本来であれば、見過ごしてはならぬ。あのような弱さや甘えは必ずや「獣」自身を殺す。なれど私は…………。
…………望んでいた。あり得ぬ、その道を」
タリスカが大樹に預けた背をおもむろにもたげ、巨体を闇夜に浮かび上がらせる。
彼は俺に背を向け、こう言った。
「あの蛇らの名を知る者はごく少ない。
…………世界の何者をも信じぬ。だが、世界の外をも信じぬものか…………。
勇者との因果は、まこと望外であった。…………我が愚行の果てを、今もまた、私は愚かしくも待ち望んでいる。
…………勇者のその目は良い。強い目だ。…………」
去り行く彼を、俺は引き留めようと呼びかける。
しかし彼は振り返らなかった。
夜よりも木陰よりも濃い漆黒を背負って、姿が遠退いていく。
ハッとした瞬間には、すでに彼はどこにもいなかった。
冷えた風に乗って、低く沈んだ声だけが届いた。
「…………今は休め、勇者よ。戦は近い」
俺はしばらくその場に立ち尽くして、それから、わだかまる気分をどうにかこうにか飲み込んで、部屋へ戻った。
長かったこの一日がまるで嘘みたいに、戦までの残り少ない日々は飛び過ぎていくことになるのだが、この時の俺には、最早焦りすら浮かんでこなかった。
戦のこと…………ヤガミのこと。
本物の勇者…………あーちゃんのこと。
そして何より…………フレイアのこと。
考えることが多過ぎるのに、考えるのが下手くそで、ロクに言葉にも行動にも出せない内に、時間は正体の無い魔物に無残に食い散らかされていった。
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