第295話 か弱く儚い一枝でも。俺が彼女の叫びとなること(前編)

 ――――――――…………桜色の風が巻く。

 風は俺の心をすっかり包んで、夜空に柔らかく溶けていった。


 蒼玉色の波音が爽やかに、広く響いている。

 俺は透明なイルカになって、眩い星の海を漂っていた。

 遥かな銀河の中を、ゆっくりと流されながら、泳ぐ。


 白い竜の幻が傍らを駆け抜けて、あっという間に月へと――――煌々と明るい満月へと消えていった。

 リーザロットが眼下で、両手を大きく広げている。

 蒼いドレスと夜空の境目は、最早どこにも存在しなかった。


 彼女が踊ると、夜空も踊る。

 キツネになったクラウスと、カラスの姿をしたヤガミが、俺と同じく透明な星座となって浮かんでいるのが見えた。

 互いを見交わす眼差しが夜を不安げにチラつかせる。

 どうなる? これから…………。


 漆黒の嵐が、まもなく訪れる。

 こんなに色濃く穏やかに感じるこの時間も、本当は凄まじい暴風雨の前の、ほんの一瞬の静寂に過ぎない。

 リーザロットは艶めく髪をふんわりと掻き上げ、俺達へ合図を送った。


「皆さん――――お願いします。

 これが最後。今一度、貴方達の眼差しを私にください。

 …………――――真の「蒼」の名のために!」


 かくして俺達はリーザロットの蒼玉色へと落ちていった。

 同時に遥かな銀河が十字に斬り裂かれる。

 死神の魔力が、夢の夜空にたちまち灼熱の狂風を吹き込ませた。




 ――――――――…………熱に浮かされて、世界が陽炎のように揺らぐ。


 世界…………なんて呼ぶには、あまりにまとまらない何かが、全面に沸き立っていた。


 自分が何を感じているのか、もう定かでない。

 ただただ激しい叫びが途切れることなく、怒涛の如く流れ込んでくる。

 言葉になるどころか、意識に浮かぶより先に、全てが押し流されていってしまう。

 そしてまた次の津波が押し寄せる。


 何の、誰の叫びだ?

 わからない。

 唯一つはっきりしているのは、それが魔海の火山から噴き出した、数多の魂の噴出だということだけだ。


 感情とすら名付けられない。

 命そのものの狂暴さ、強情さ、逞しさ。

 この力は血で鍛え上げられた刃なのだ。


 もつれ合い、引きずり合い、絡まり、飲み込み、飲み込まれ、溶岩の如く迸り、猛り、爛れる。


 あの日見た――――もう俺が一生忘れることのできない、あの赤い血の記憶がまざまざと蘇ってくる。

 ヤガミのことを考えて、その時にはもう、彼の記憶の大渦が雪崩れ込んできていた。



 ――――…………


 …………



 これは肉体のヤガミの記憶…………か?

 それとも、取り込んだ向こうのアイツの記憶か?


 …………ああ、ひどい。

 言葉も感情も飛び越えて、遥か彼方に魂を吹き飛ばす絶叫が、俺を粉々に搔き乱す。


 恐ろしい。

 俺の感情もまた、ヤガミにも伝わっているのか?


 隠せない。

 俺は何度でもアイツを…………。

 あのカッターで…………。

 そしたら………。


 そっと、柔らかな尾が肌に触れる。

 たっぷり日を浴びて膨らんだ羽毛にも似た感触は、あわや崩れかけた俺をそれとなく、穏やかに留めた。


 今のは…………クラウスか? リーザロットか?

 よくわからない。

 こんなにたくさんの人間が入り混じった共力場で、俺は今どんな色をしているのだろう?

 リーザロットの優しい波音が、俺に囁いた。



 ――――…………コウ君、大丈夫です。

 みんながいますから。

 大丈夫…………。



 やまびことなって返ってくるのは、言葉とは真逆の心模様。

 透明なカラスが真っ直ぐに、俺を突き抜けていった。



 ――――…………コウ。



 呼びかける短い声は、紛れもなく今の彼のものだった。

 悲しむでも怒るでもなく、ただ労わるような調子に、少し元気が出た。


 …………だよな。

 この先へ行くんだ。

 そのために、お前は来たんだ。…………来てくれたんだよな。


 鮮血の中、まだらに入り混じる甘い蜜の味。

 一陣の張り詰めた冷たい風が嵐を縫ってよぎる。

 風に舞い散る白い雪片が、俺の頭にしんなりと降りかかった。



 ――――…………コウ様。タリスカ様はどうやら、俺達を先に斬るという考えはないようです。

 だとすれば、勝機はある。

 姫様の矢となり盾となり…………グゥブでも、海グゥブでもいいですけど…………戦いましょう。

 とにかくやるだけです。できるはずです!



 クラウスもヤガミも、俺が思うよりずっとずっと強いようだ。

 …………後は俺だけなんだな。

 俺がしっかりすれば、リーザロットは心置きなく立ち向かえる。

 幼い彼女が残した最後の夢に…………永遠の、運命に…………。


 …………ああ、わかった。

 今度こそ本当の正念場だ。

 「コウ兄様」の最後の一仕事だ。


 俺は傲然と唸る魂の激流を、確と両目で睨み据えた。



「――――…………OK、リズ! お兄ちゃん、最後まで責任持つぜ!

 要は…………当たって砕けろだ!!! 後のことも今のことも、関係無ぇ! 想い全てを存分にぶつけるんだ!!!」



 雪片が桜色に美しく染まり、力場に盛大な花吹雪が咲き誇る。

 この上なく明るい返事が、力場に響き渡った。



「――――――――ええ、参りましょう!!!」



 そして波と夜と雪と風が衝突した。

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