第271話 眠たくて幸福な日々の思い出。私が長い夜の始まりを迎えること。(前編)

 学校のことを思い出す。

 行儀良く並んだ机と、決まりきった紺の制服達。

 つらつらと黒板を流れていく白い文字。

 のたうつミミズだってきっともっと読みやすい。


 教科書通りの先生の解説。

 SVOOの文型を取れる動詞一覧。

 どうしてプリントにしてくれないんだろう。もう書かなくていいかな? スマホで調べられるし。

 でもまぁ、退屈だし。

 午後の日差しにのたうつミミズをノートに書き写す。


 古いガラス窓の外の景色は、ややクリーム色がかって見える。

 校庭ではどこかのクラスが体育の授業中。

 賑やかな歓声。サッカーボールの跳ねる鈍い音。短く鋭い笛の声。

 サッカー部員の掛け声は癖があるからすぐわかる。


 ちんまりとした花がいっぱいに咲く、校庭の隅の花壇。

 ささやかな風が土の匂いを運んでくる。

 青くさざめく桜並木の影が、ゆっくりと伸びていく。


 紙切れがこっそりと隣の席のユキから回ってきた。

 開いてみると、くだらないメッセージと先生の顔のシンプルな落書きがしたためられている。

 小学生みたいなことしちゃってと思う反面、思わず笑ってしまう。

 さすが漫研。才能の片鱗がこの一コマで窺える。


 ジェスチャーで「いいね」を伝えて、紙切れを机にしまい込む。

 前の席の前田君は机の下で、絶えずスマホゲームに夢中になっている。

 チカチカ忙しなく光る画面は案外に目立っているので、そのうちバレてしまうだろう。


 斜め前のヨーコさんは今日も難関大の過去問に熱を上げている。私達まだ高1なのに、信じられない。

 学年トップは決して退屈なんてしないのだ。

 いつでもどんな時でも、パワフルに邁進していく。

 塾が同じでたまに話すけど、いついかなる時も保たれる高い向上心に、実は私はちょっと疲れている。


 教科書の中の白黒の登山家が余裕のスマイルで微笑みかけてくる。

 山に登るって楽しそう。彼程高い山でなくていいけどさ。

 誰か誘って行こうかな。

 というか、普通に旅行でもいいかな。


 京都とか。

 沖縄とか。

 北海道も素敵。

 ああ、どこでもいいから、旅がしてみたい。

 そんなお金無いけど。


 …………退屈はふんわりと広がって、心地良い夢を誘う。

 当たり前の教室。

 誰も特別なんかじゃなくって、明日も明後日もきっと同じで。

 つまらなくて。

 ちょっと楽しくて。


 …………そういや、来週は単語テストだって、あの先生言ってたっけな。

 サンラインと向こうの時間が一緒なら、丁度明日だ。

 黒板がもう完全にミミズの宴会場と化していて、多くの人がテスト範囲すら覚束なかったという話だけど、結局どうなったんだろう…………。


 何と言うか、もう本当に他人事だな。

 何が夢で何が現実なんだか、考えることさえもう億劫だった。



 私は寝返りをうって、今夜もまたやってきた長い夜を憂鬱に思った。

 日がな一日何もしていないのだから当然だけど、ちっとも眠れない。

 自分の人生がこんなにも無駄に過ぎていくことを、最早怖いとも感じなくなってきていた。私はこれからどうなるんだろうなんて、三日ぐらいで考え飽きてしまった。


 グラーゼイさんと街の市場に出掛けて、あの嫌な騎士と「太母の護手」との騒ぎに巻き込まれて以来、私はずっと引き籠っている。

 一歩も館の外には出ていないし、どころか部屋からすらもろくに出ていない。


 食事はあのくるみ割り人形さんが部屋に運んできてくれるし、洗面所もここにある。洗濯物だって、お人形さんに渡せば綺麗に畳まれて返ってくる。


 退屈しのぎの絵本やら玩具やらが部屋に並んでいたが、それらにも全く手を付けていなかった。とてもではないが、そんな気分にはなれない。

 あの優しいリーザロットさんがそんなつもりで用意してくれたわけでないことはよくわかっているけれど、どうしても自分が気を使って扱われている立場だということが身に染みて、辛くなってしまう。

 惨めというか…………虚しくて堪らなかった。


 私は一日中、窓の外を眺めて過ごしていた。たまに中庭に出るくらいで、他にしていることは何も無い。本当に無い。

 幻なのか本物なのかも定かでない風景と、とりとめもない思い出だけが慰めだった。


 …………今晩、兄が旅先から帰ってくるという。

 少しは日々に変化があるかと期待する一方で、どうせ本質的には何も変わりはしないという絶望も同時に抱いていた。

 そもそも自分がこの状況で何を望んでいるのか、自分でもわからなかった。


 …………帰りたい?

 帰って、何もかも忘れて、全部なかったことにして、いつも通り続くはずだった退屈で幸福な時間に戻りたい?


 そんなの、今更できるわけがない。

 兄のことも、ヤガミさんのことも、私の力のことも、もう忘れるなんて段階をとうに超えていた。


 この世界サンラインにも大勢の人がいて、当たり前に暮らしている。市場で見たみたいに、退屈だろうが何だろうが、皆、当然のように明日を信じて暮らしているんだ。

 子供だっていた。

 私の世界と同じように、お母さんを慕っていた。

 もちろん怖いこともある。でも、それは誰もが自分の日々を守りたいからだ。


 自分が「勇者」だなんて、未だにわけがわからない。

 それでも今、私が役目を投げだしたら、この国は滅んでしまうかもしれない。暴力…………私を襲ったあのイカれたメイド女や、喋る猫や、市場で子供を何度も蹴ったあの騎士みたいな邪悪な力に踏みにじられる世界を、私は見たくない。

 大体、そしたら兄はどうなる?

 兄は最後までこの世界に尽くすに決まっている。私は独りで帰るの?


 ぐるぐると考えていたら、余計に眠れなくなった。

 というか、何を考えても最終的には、一番考えたくないことにぶち当たってしまう。

 こうなるともう、気を休めるどころの話じゃない。


 私は、自分の力が嫌いだった。

 「なかったことに」。まさにそのこと。

 世界をぐちゃぐちゃにして、思うがままに、好き勝手に造り変えてしまうという、途方もなく馬鹿げた力。

 自分にそんなものが潜んでいるなんて、とても信じられなかったけれど、あの時、グラーゼイさんが止めてくれなければ、私は…………。


 …………自分が怖い。

 私は私をコントロールできない。

 それがわかる。

 自分が自分でないみたいだ。


 かつてどうだったかはしらない。でも、少なくとも今ここに引きこもっている私には、例え壊すことは出来ても、世界なんか作れっこない。

 あの先に何が待っていたの? 私自身にさえ、何も見えなかった。


 どこからおかしくなってしまったんだろう。

 兄を追いかけて、ヤガミさんに会って…………。でも、それは私の探していたヤガミさんじゃなくて…………。ああ、もう、嫌になる。


 こんな力、いらない。

 こんなに願っているのに、どうしてそれだけは叶わないんだろう。

 不気味な力の影が、胸に纏わりついて離れない。


 毛布にくるまって強引に思考を閉ざそうとしたところで、部屋の扉がノックされた。

 続いた声に、私はハッと飛び起きた。


「あーちゃん、起きてる? 俺だけど」


 兄だ。

 帰ってきたんだ。


「今、いい?」


 私は部屋の明かりを灯し、おずおず答えた。


「…………いいけど。…………何?」


 真っ先に「おかえり」の一言が出てこないあたり、冷たい妹だなと自分でも思う。

「無事でよかった」だなんて、口が裂けても言えそうにない。

 兄はつっけんどんな私の口調に気圧されたのか、しどろもどろに言葉を続けた。


「あぁ、ありがとう。ちょっと話がしたくて…………。あと、グラーゼイ…………さんから、預かりものがあって」

「グラーゼイさんから?」


 今夜はあまり長くは話したくないと伝えたかったが、そんな用事があるとなるとちょっと断りにくい。

 どうせ兄だしと、キャミソールだけ頭から被って扉を開けると、なんとヤガミさんと鉢合わせした。


「わっ、きゃあ!!!!」


 変な声が出た。

 慌てて扉を閉め、大急ぎでまともな服を身に纏う。

 外から、兄とヤガミさんの会話が聞こえてきた。


「あれ。俺、もしかして嫌われてる?」

「どうだろう。単純にビックリしただけじゃないか? いるって思わなかったとか」

「そんなに驚くべき風貌をしているのか、俺は?」

「お前…………もしかしてブサイクって言われたこと気にしてんの?」

「…………お前はドラゴンの時のがイケメンだった」

「お、嫉妬か?」

「うぜぇ」


 何の話をしているやら…………。

 改めて出迎えると、特段何を気にするでもない佇まいの兄達が並んで立っていた。

 見た所、どちらもちゃんと人間で、大きな怪我もないようだった。


「あ、あの…………すみません。兄だけだと思っていて…………」


 気まずさに耐えかねて謝る私に、ヤガミさんは軽やかに応じた。


「謝らなくていい。むしろ、遅くに悪かった」


 砕けた口調と、この世界の服のこなれた着こなしに、何だか別人のような印象を受けた。

 向こうで出会った時はあんなに王子様みたいだったのに、何でか今は普通の親しみやすいお兄さんみたいに見える。

 何とも言えない懐かしさがこみ上げてきて、切ないような、温かいような、不思議な気持ちになった。


「…………アカネちゃん? 大丈夫か?」

「あっ! いえ…………ごめんなさい! 何でも無いです! 大丈夫です!」


 いけない。ついじっと見入ってしまった。

 雰囲気は変わっても、ヤガミさんの瞳には相変わらず引き込まれてしまう。ぼんやりしていると吸い込まれてしまうような、危うい灰みの青。霧の湖のよう。


 兄の方へ顔を向けると、こちらは本当に相変わらずだった。

 島から一歩も出たことがないような呑気な眼差しに、チラッと灯る無邪気な好奇心。敵意どころか闘争心の欠片すら伺えない平熱そのものの面構えが、まさに我が家のような安心感を与えた。


「ただいま、あーちゃん」


 兄が目元を優しく綻ばせて笑う。

 目がじんわりと熱くなる気がして、私は小さく呟いた。


「…………おかえり」


 兄が嬉しそうにはにかむ。

 その顔を見て、私は急いで目を擦った。


 …………あぁ、もう、嫌になる。

 兄なんていてもいなくても変わらないのに、どうしてどうしてどうして、こんな風になっちゃうんだろう。


 寂しくなんてなかった。

 なかったもん。

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