第213話 サンラインの夏の朝。私が描く曇り空と、まだ見ぬ青空のこと。

 マヌーのシチューは、思っていたよりもずっと美味しかった。

 兄の言っていた通りビーフシチューそっくりの料理だったが、考えてみればそもそもビーフシチュー自体、そんなに食べた経験が無い。


 それなので、どんなところが具体的に違っていたかと言われると謎なのだが、いずれにせよあんな感じでホロホロに煮込まれたお肉と、どうやってできるものなのか皆目見当がつかないが、舌触りの良いコクのあるスープと香ばしい野菜が共に味わえるのなら、私はもう同じものと見做すし、それで世界にとって何の不都合も無いと思う。

 とにかく美味しかった。大分機嫌が良くなった。


 食後のお茶は例の青茶ではなく、紅茶風の普通のお茶だった。そしてこれもまた、非常に満足のいくクオリティだった。

 こんな風に上から目線で語っていると何様だと思われそうだが、その答えは簡単。


 私は、「勇者」様。


 その気になったら簡単に世界を壊して、いつでも好きなように創り変えられる。でたらめ過ぎるサンラインの救世主。

 最早ヤバ過ぎて、何もしないで欲しいと皆に切に切に切に望まれている、核爆弾。


 私は夕食を終えてお湯を浴びた後(シャワーなんて勿論あるわけない。桶から汲んで頭からかぶるスタイル)、部屋で休むことにした。


 色々気になることはあるものの、もう精神的に限界だ。

 兄からリリシスの伝承の内容を記したメモを受け取るという用事が残っていたけれど、後で部屋に行くねとか言っていたくせに全然来ないし(どうせフレイアさんとイチャイチャしているんだろう)、もうどうでもいいや。急いでも良いこと一つもないし。


 幸い、というか、この国では最高の国賓待遇なんだろうけど、あてがわれた部屋は清潔で香りも良く、そこそこ広さもあって、快適極まりなかった。泊ったことないけど、まるで五つ星ホテルのよう。調度も甘過ぎない雰囲気で可愛らしい。ベッドはちょっと固い感じがするけれど、この程度のことなら愚痴にもならない。


 ただ、着替えとして渡されたワンピースを着たら、どうにも落ち着かなくなった。

 袖を通した瞬間に、地球から着てきた服の方が明らかに質が悪いことがわかったからだった。


 何だろう。やけにツルツルしている。柔らかくて着心地は抜群で、デザインも上品で素敵だ。でも…………ソワソワする。少し私には大人っぽ過ぎる…………セクシー過ぎるから…………かもしれない。

 リーザロットさんなら、何の苦も無く着こなすんだろうけど…………。


 全身鏡に映った自分をまじまじと眺めてみる。

 こんなにストレスフルな日々を過ごしているのに、むしろちょっと太ったような気がする。

 …………胸以外。


 いじけてベッドの上で寝転がっていたら、誰かがドアをノックした。

 こんなに奇々怪々な館なのに、どうして皆はちゃんと思う場所に辿り着けるのだろう。色々説明されたが、魔術ってちっともわからない。

 私は起き上がり、返事した。


「はーい」


 どうせ兄だろう。

 あのヤロウめ、ようやく思い出しやがったか。


「っていうか…………もう眠いんだけど!」


 迎えざまに怒りを表明した私は、かえって自分が呆気にとられた。

 私は目の前の人物を見て、思わずのけぞった。


「あっ…………グ、グラーゼイさん? ごっ、ごめんなさい…………!」

「いいえ、夜分遅くに失礼致します」


 相変わらず鎧をカッチリと身に着けたグラーゼイさんは、だらけきった私の姿を目の当たりにして一瞬だけ顔を顰めたかに見えたが、すぐに真顔に戻って丁寧に応じた。


「ミナセ殿から書類をお届けするよう仰せつかって参りました」

「へ…………? 何で? 自分で来ればいいじゃない」

「「勇者」殿のお部屋は館の中でも、特に警備の厳重な区画に用意されております。ミナセ殿が独力で辿り着くのは不可能と判断し、私が参上いたしました」

「アイツ、何様のつもりなの…………?」

「…………」


 グラーゼイさんが黙って伝承についてのメモを差し出す。

 私は大仰に届けられた紙ペラを受け取り、お礼を言った。


「えっと…………ありがとう、ございます」

「いえ。…………それでは、失礼致します」

「はい…………」


 一礼してから去るグラーゼイさんの背を少し見送ってから、私はドアを閉めた。


 部屋の中で、どうして隊長さん自ら来たのだろうと考える。

 そんなに手の空いている人がいなかったのだろうか?

 まぁ、正直、一番適任と見做されるであろうフレイアさんとはあんまり顔を合わせたくない所だし、丁度良かった気もする。



 翌朝、私は朝食に呼ばれた。

 迎えに来てくれたのは例によってグラーゼイさんで、爽やかでよく晴れた日ながら、肩の凝る堅苦しい朝を迎えた。


 服は昨晩リーザロットさんに言われた通り、クローゼットに入っているものの中から好きに選んだ。

 普段は基本的に学校の制服しか着ないので、何だかやっぱりソワソワした。控えめにレースのあしらわれたクリーム色の半袖シャツに、知らない綺麗な花の刺繍された、涼しげな紺色のラップスカート。ちょっとヒールの高い、柔らかい皮の靴。我ながら案外似合っているような気がするんだけど…………どうだろう?


 隣を歩くグラーゼイさんの顔をチラと見上げてみる。

 もちろん、服なんかに反応するような人ではないのはわかっている。ただ、万が一変な格好をしていたらと心配になったのだ。

 彼は私の視線に気づくと、表情を変えることなく尋ねてきた。


「何かご用でしょうか?」


 私は「いえ」と首を振り、廊下から見える庭の景色へと目をやった。

 夏めいた日差しがたっぷりと木立に降りかかり、ちろちろと流れる小川を真珠のネックレスみたいにきらめかせている。


 …………うん。まぁ、この反応からするに、おかしな格好はしていない、はずだ。

 それから私達は特に会話を交わすことなく、黙々と歩いていった。

 これ以上しょうもない悩みに囚われないようにと、私はずっと庭を眺めていた。



 朝食の席では、なぜかさらにどんよりとした空気に晒されることとなった。

 兄、ヤガミさん、リーザロットさん、フレイアさん、クラウスさん、グラーゼイさんといった面々が同じ食卓に着いていたのだが、一体私のいない隙に何があったというのか。

 生真面目な面を崩さないグラーゼイさんと、穏やかなポーカーフェイスのヤガミさんを除いて、誰も彼もが陰々鬱々とした面持ちで食事を進めていた。


 まず、兄。物凄く珍しいことに、始終目を伏せたきりで、ほとんど口を利かなかった。

 あからさまに悲嘆に暮れているという風でこそないものの、その変化に乏しい静かな様子が、かえって不安を掻き立てた。

 何を考え込んでいるのだろう。

 勘弁してほしい。塞ぎ込みたいのは私の方なのに。


 リーザロットさんは、一見する分には昨日と全く変わらなかった。

 私の服を見て「可愛い!」と心から嬉しそうに話しかけてくれたし、皆に振る会話の内容も、ごく自然に和やかな雰囲気を醸し出すものばかりだった。

 ただ、時折視線を逸らした際に覗く表情が何とも言えず切なそうで、見ているこっちの胸まで痛んだ。


 フレイアさんは…………この人のことは、私にはよくわからない。

 でも、何だか今朝は見るからにションボリとして、いつもの無邪気な、奔放なとも言える元気さが、すっかり感じられなかった。

 何より気になるのは、決して自分からは兄の方を見ようとしないこと。

 まさか喧嘩でもしたの…………?


 で、最後のクラウスさんだが、彼は最もわかりやすく不機嫌だった。

 私と目が合うと、女子なら誰でもクラッとくるような甘い微笑を浮かべてお茶を濁してしまうのだけれど、その他の時には露骨にご機嫌斜めだった。


 ヤガミさんとは会った時からそりが合わない(単なる警戒心以上のものを私は感じる)ようであったのが、今日にいたってはギスギス感が5割増しぐらいになっている。


 ヤガミさんの方を見やると、こちらからもまた王子様のような笑みが返ってくる。

 彼の灰青色の不思議な色の瞳にぶつかると、こんな魔法の国でなお、決して抜け出せない魔法にかかってしまいそうな動揺を覚える。


「アカネさんは、昨晩はよく眠れましたか?」


 話しかけられて、私は頬張っていたパンを危うく喉に詰まらせかけた。

 どうにか飲み込み、今さっきまで見惚れていたことをおくびにも出さずに(出てないよね?)私は答えた。


「は、はい。…………もっと緊張して眠れないかと思ったんですけど…………案外、大丈夫でした」

「それは羨ましいな。僕は、あんまり寝付けませんでした。妙な夢を見て」

「夢、ですか?」

「普段は滅多に見ないんですけどね。環境が変わったせいでしょうか。やけにリアルな夢で、かなり気分の悪いものでした」

「…………どんなの?」


 兄がポツリと呟く。

 ヤガミさんはわずかに首を傾げ、悩ましげに話した。


「人を殺す夢。男の人を、2人。見たことも無い真っ暗な国の、お城の中で。…………あのエメラルド色の瞳の女の子が、また見えた」

「ナタリーのことか?」


 兄の問いに、ヤガミさんが頷く。

 クラウスさんは相変わらずヤガミさんから目を逸らしていたが、それでも耳は傾けている証拠に、リーザロットさんに向かってこう尋ねた。


「彼らの感覚が同調していると見ていいと思われますか?」


 リーザロットさんは優雅に食器を置き、こくんと小さな頭を傾かせた。


「ええ。ジューダムの王とセイ君の距離が近付けば、それは自然なことでしょう」


 …………セイ君。

 ヤガミさんの下の名前。

 クラウスさんはあくまでも冷静な表情を保ちつつ(きっと本人はそのつもりだろう)、話を続けた。


「元々、肉体と霊体は強く呼び合うものです。…………この同調がどこまで深くなるのか、よくよく注意なさるべきかと存じます」


 兄が困り果てた顔でクラウスさんを見る。クラウスさんはツンとすましている。

 リーザロットさんは上品に眉を下げ、肩を竦めた。


「…………そうですね、クラウス。ですが、それは必ずしも危険を意味するとは限りませんよ。考えようによっては、ジューダム王にこちらの話を通じさせる糸口ともなります」

「ご都合の良過ぎるお考えですね」


 少々ぶっきらぼうが過ぎる部下を、グラーゼイさんが諫めた。


「クラウス。そこまでだ」


 クラウスさんが小さく頭を下げ、口を噤む。

 ヤガミさんを見やると、彼は苦笑気味に私に言った。


「まだまだ大変そうということです」

「はい…………」


 別に私にはそんな面倒があるわけではないのだが、何となく相槌を打った。


 兄は元気が無いなりに綺麗に食事を平らげつつ、成り行きを見守っていた。

 フレイアさんを見つめる彼の眼差しは、結局最後まで彼女の深紅の瞳に届くことは無かった。



 食事の後はしばらくの間、自由時間となった。

 何でもリーザロットさんに外せない公務があるとかで、それが終わるまでは、各自身体を休めようという話になった。


 私は昨晩もたっぷり休んだおかげで、やや手持ち無沙汰だった。


 それにしても、気が晴れない。空はこの上もなく晴れて澄み渡っているというのに、私の心はいつまでも薄曇りの週の真ん中水曜日という感じだった。

 どっぷりがっつり自分の殻に引きこもっても構わない時に限って、真っ直ぐにはそういう気分にならないのだから、ままならない。


 …………何でだろうなぁ。

「勇者」の力のことを聞いて、物凄いショックだったのに。

 何をどう感じていいんだか、自分でもよくわからなくなってきて、かえって何に対しても無気力になってしまった。


 将来の夢を考える時と似ている。

 漠然とした未来を、どう描いていいやら、ちっともわからない。

 思うがままに描いていい? 君には、何でもできるのだから?


 でもさ、描きたいものと描けるものの違いは、私には難しいよ。

「描ける」中で、せいぜい「描いてもいい」は見つけられる。けど、それを「描きたい」と呼ぶのは、ちょっと違うんじゃないか。


 …………「描いてもいい」程度の未来のために、一つの国…………ううん、それどころか世界丸ごとを懸けるなんて、馬鹿げている。


 だが、この場にいる以上、いずれ運命の時はやって来る。

 私はどうしたらいい?

 ただ見ているだけって、どういうこと?


 私の気持ちはモヤモヤと青空に拡散して、もったりと薄暗い雲を広げていく。

 気晴らしにお茶でも淹れるかと用意しかけた時、ふと今朝見た庭のことが頭によぎった。


 …………そうだ。

 部屋の中に置いたままじゃ、この湿った心は乾きやしない。

 散歩に出掛けよう。

 風を浴びて、溜まった洗濯物を片付けてしまおう。


 そう決めた私は、部屋にある魔法のベルを使って、早速御用聞きのくるみ割り人形を呼びつけた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る