第207話 妖しい実験室のマッド・ラビット。私が混沌の大穴に転がり込んでいくこと。
蒼の主、サンラインのお姫様の一人、リーザロットさんに会って、私は高名な魔導師であるグレンさんから「勇者」の力について聞くこととなった。
お姫様達が「お茶をしながら話しましょう」とどんどん勝手に決めていくので、ついて行けずに何も言わずにいたら、当然ながらそのようになってしまった。
お茶なんて気分じゃないのに…………
私と兄は最初に連れてこられた部屋から、また別の部屋に移動することになった。ウィラックという人を迎えに行くらしい。
今度の部屋は、いかにも魔術師の研究室と言うべき部屋…………いや、もっと率直な感想を述べれば、オカルトにのめり込んだ悪の天才科学者の狂気の実験室と呼ぶにふさわしい空間だった。
厚手のカーテンを張り巡らした仄暗い部屋の中に、黄緑色、浅葱色、蛍光オレンジ、メタリックイエロー、冴え渡るピュアホワイト…………と、およそ自然界由来の色とは到底思えない粘液の詰まった瓶が、所狭しと並んでいた。ペンキにしてはあまりに匂いが生臭く、見間違いでなければ、いくつかは微かに発泡していた。
周囲の棚には、未知の動物の骨や、ピン付けされた巨大な昆虫標本、薬品付けの白目を剥いた爬虫類のようなものがみっちりと敷き詰まっていた。床に積まれた、一見すると乾物屋の店先の籠の中身のようなものも、きっと同じく生き物なのだろう。少なくとも、猫科の動物と確信できるものが一つ、ピンと手足を伸ばして細長く干からびていた。
私は足下の鉄のケージ(明らかに猛獣を飼う用の、入り口が二重になった厳重な造りだ)の中にでーんと鎮座する、目つきの鋭いウシガエルのようなものに気付いてギョッとした。
「…………これ、生きてるの…………?」
こっそりと兄に尋ねてみる。
だが兄は、私の質問に答えないどころか、私が声を掛けたことにすら気付いていない様子だった。
彼は俯いて頭を抱え、ブツブツとうわ言を唱え続けていた。
「…………コワイ…………ウサギサンコワイ…………ウサギサンコワイ…………」
ウサギサンコワイ。
兄はお姫様の部屋を出て以来、ずっと蒼ざめた顔をして、そんな具合だった。
「どうしたの?」と聞いても、ひたすらにノーリアクションを貫いている。わざと無視しているのではない証拠に、誰とも目を合わせようともしない。
私は仕方無く諦め、口を噤んだ。
不気味な実験室の奥に歩み入っていくと、白く長い耳を真っ直ぐに立てた獣人が突き当りにうずくまっているのが見えてきた。ウサギみたいなシルエットに、暗がりの中でもよく映える、雪みたいな毛並み。これまた典型的な、得体の知れない薬品にまみれた白衣を羽織っている。
「ウィラック君」
グレンさんが呼びかけると、その獣人がくるりとこちらへ顔を向けた。
真っ赤な2つの目が、闇の中でギラリと光る。
「ヒィィィィィィ――――――――――――ッッッ!!!」
途端に、兄の絶叫が部屋を震わした。突如として大きく飛び退いた彼は書棚にぶつかり、バラバラと降ってきた本と埃にまみれ、ガタガタと凄まじく身を震わし始めた。
私はドン引きして目を大きくし、兄に尋ねた。
「な、何!? どうしたの、いきなり!?」
「ウサギサン!!! ウサギサンコワイィィィ――――――――――――!!!」
「はぁぁ!?」
本の山に埋もれて縮込まる兄は、控えめに言っても無様だった。
彼の様子を、グラーゼイさんが至極冷ややかに見下ろしている。(でも今までとは違って、金色の目にはほんの少しだけ同情の色が混ざっているような…………?)
私が見ていることを知ると、白銀のオオカミはスッと兄から目を逸らして、ウサギの獣人に話しかけた。
「ウィラック。ミナセ殿に何をした?」
ウサギが良く響く機械的なトーンで、いかにも悪の科学者然として答えた。
「魔力場構築における臨床試験、を、少々お手伝い頂いた」
「…………同意の上か?」
「当然ですとも」
「ならば良い」
いいの!?
私が驚き呆れている間に、グレンさんと悪のウサギ…………ウィラックさんが、話し始めた。
「ウィラック君。「勇者」君の検査の準備は順調に進んでいるのかね?」
「本体が元に無いことには、限度はあるがね。…………そのお嬢さんなのかい?」
「そうだ」
「ふむ」
ウィラックさんの、一点の曇りもない赤い目が私を映す。瞬き一つしない、ガラス玉のように爛々と光る目に見つめられると、たちまち全身に鳥肌が立った。
同じ赤い眼でも、フレイアさんのとは全然違う。ほとんど警告灯じみている。
一見すると不思議の国のアリスに出てくる白ウサギのようにユニークな姿だが、よくよく見れば、よりハッキリと尖った狂気のオーラがこんこんと全毛穴から噴き出していた。
この人、マジでヤバイんじゃ…………。
「ウ、ウゥ…………アゥ…………」
兄が苦し気な呻き声を上げる。
ぶるぶると肩を震わしながら、彼はまわらぬ舌で何かブツブツと呟いた後、辛うじて聞き取れる声で言った。
「…………る、な…………」
私達の視線を浴びて、兄は本の山の中から急に大声を出した。
「あっ、あーちゃんに!!! さっ、さささ、触るな!!!」
…………どうやら一応は私を守ってくれるつもりらしい。
埃まみれになって怯えて隠れながらなので、正直ちっとも格好良くないのだが。
彼はなおも叫んだ。
「あーちゃんに…………あっ、あのへっ、変な、にっににに虹色の薬をう、打ったら…………、おっ、俺はっ、しっ、ししし、承知しないぞ!!! …………おっ、おこっ、怒っちゃうぞ!!! おっ、怒らせたら、なっ、なななな何をするか、わっ、わかんないぞ!!! ゆゆゆ許さないんだぞ!!!」
幼稚な台詞を捲し立てつつ、彼は甲羅の中に潜む亀のように深く、より深く本の山の中に身を沈めていく。
次いで彼は何か凄まじい早口で捲し立てたが、恐らくは誰にも聞き取れなかった。
どうしていいやらと全員が呆気に取られているうちに、部屋の扉が大きな爆発音を立てて唐突に開かれた。
衝撃で激しく埃が舞う。部屋を覆うカーテンがフワリと持ち上がり、眩い光が中に差し込んできた。
同時に、ブロンドヘアを荒々しく乱したクラウスさんが素早く転がり込んでくる。その手には、抜かれた刃がスラリと冷たく光っていた。
スカイブルーの青い瞳が、いつになく眩く輝いている。
「――――フレイア! 冗談になっていないぞ!!」
もうもうと埃立つ中を抜けて、扉の向こうからフレイアさんが入ってくる。
彼女の手にも、抜き身のレイピアが握られていた。炎の蛇こそいないが、それでも少しでも触れたら大火傷しかねない気迫が、ビリビリと見ている私の肌を痺れさせた。
「…………冗談で済まないのは、クラウス様の方です。貴方の剣では、私には敵いません」
彼女の紅玉色の眼差しもまた、煌々と燃え盛っていた。
どうやら、マジでマジな感じだ。
何? 何これ? 何がどうなってんの?
少しは気を休めさせてよ…………!
フレイアさんの言葉に、クラウスさんが冷たく返した。
「…………試してみるか?」
「構いません」
刹那、弾かれるように飛び出した2人の剣が、火花を散り輝かせてぶつかり合った。
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