第150話 翠の海原と王の「核」。俺が古の王都に立つこと(前半)

 大いなる力を持つ魂獣には、具象も抽象も無いとシスイは言っていたけれど。


 俺は突如として目の前に開けたエメラルドグリーンの大海を見つめて、呆然とせざるを得なかった。

 レヴィの巨大な背に心許無く縋りながら、俺は戦々恐々と辺りを見渡していた。


 何とも不思議な光景が広がっている。

 モヤモヤとした大小の光が、そこかしこに浮かんでいた。光は歌うように気ままに震えながら、ぶつかり合って小さな粒に砕けたり、溶け合って大きな玉に成長したりを繰り返していた。


 遥か天空から注いでくる白い日差しを浴びて、光は真珠じみた優しい虹色に輝く。無数の光が海の中をゆったりとなだらかに流れていく様は、まるで妖精の舞踏会でも見ているかのようだった。

 魔力を探ってみても、どこまでも綿飴のような味がするばかり。


 俺はしばらくそんな景色に圧倒されていたが、ふいに我に返ってレヴィに問いかけた。


「レヴィ。ナタリーはどこにいるんだ?」


 レヴィはぐんと身体を傾けると、雄大な尾びれを一つ大きく打ち下ろして勢い良く潜り始めた。

 水流に煽られ、光の粒達がブワッと彼方へ飛んでいく。

 レヴィは全身にキラキラとした泡の渦を纏いながら、ぐんぐんと海の深みへと俺を連れて行った。


「こ…………こっちなのか?」


 俺は急激に暗さと冷たさを増していく海に怯え、尋ねた。

 動作は緩慢に見えても、物凄い潜行速度である。少しひれを動かすだけで、あっという間に日の光が遠ざかっていく。

 俺はザラザラとしたレヴィの胴体に必死で掴まっていた。

 視界の端ではクラゲのような動きをする光が「クッ、クッ」と変な音を立てて昇っていっていた。

 かと思えば、リュウグウノツカイじみたひょろ長い光が、羽衣のような優雅さで俺の背を掠めていく。

 小さな瓜に似た形の光が、チラチラと虹色に輝きながらどこかへ流れていった。


 レヴィは構わず潜っていき、海はますます暗くなっていく。

 擦れ違う光も生き物も、段々少なくなってきた。

 俺は不安に耐え兼ね、もう一度尋ねた。


「こ、こっちでいいんだな? 本当に?」


 レヴィの、「しつこい」と言わんばかりのくぐもった鳴き声が海原に長く響く。

 俺は仕方なく口を噤み、レヴィを掴む力を強くした。


 何となく頭上を見上げてみると、巨大な水の質量が一挙に感じられて胸が潰れそうになった。

 一方で下を見れば、未だ底の知れない真っ暗闇が大口を開けている。

 俺は自分の小ささを思い知り、背筋を凍らせた。


「…………」


 だが、この奥にはナタリーがいる。

 今更引き返すわけにはいかない。

 皆、戦っているんだ。


 俺は唾を飲み込み、言った。


「よし…………行こう!」


 勇ましいレヴィの声が重なって響いた。



 ――――――――…………。

 やがて、周囲がすっかり闇に包まれ、行き交う光もほとんど絶えた頃。

 眼下に慎ましい翠色の輝きが見えてきた。

 弱々しいが、電球のようにクッキリとした異質な灯。


 さらに近付いていってみると、何かが光を抱いてうずくまっているのがわかった。

 俺は目を凝らし、その正体を窺った。

 あれは…………。


「ナタリー!」


 俺は思わず身を乗り出し、叫んだ。


 ナタリーは光を抱いてぐったりと力無く萎れ、目を瞑っていた。

 小さく浅い、いたいけな呼吸が、離れていても手に取るように伝わってくる。いつもは健康的な肌がじっとりと汗ばみ、血を抜かれた後みたいに蒼白く沈んでいた。

 服があちこち破けて、引き締まった両足や白々とした胸元が無惨にさらけ出されている。腕の刺青だけが場違いに美しく、妖艶に暗闇に浮かび上がっていた。


 レヴィは彼女にゆっくり寄り添うと、深く悲しく鳴いた。


「ナタリー…………」


 俺は彼女に手を伸ばし、触れようとした。

 だがその途端、翠色の光が激しく瞬き、俺の手に強い電流を走らせた。


「――――ッ! なっ、何だ!?」


 俺は痺れた手を振り、レヴィの方を向いた。


「レヴィ。彼女、どうしちゃったんだ? っていうか、あの光は何だ?」


 俺の問いに、レヴィは身体を丸めて苦悶の声を上げた。


 ――――Uuuu-u-n…………

 ――――Wwww-w-n…………

 ――――Uuuu-w-n-n…………


 聞いているだけで胸の締め付けられる声だった。

 俺は彼の言葉にじっと耳を澄ませ、どうにか意味を汲み取ろうとした。


「…………何だい? もう一度、お願い」


 ――――Uuuu-u-n…………

 ――――Wwww-w-n…………

 ――――Uuuu-w-n…………


「…………」


 ――――Uuuu-u-n…………

 ――――Wwww-w-n…………

 ――――Uuuu-w-n…………


「…………」


 …………わかった!

 とはならないのが、つらいところだった。


 如何せん、さっきようやく名前を呼び合った程度の間柄である。きちんと意志疎通を図るには、まだまだ時間が必要なようだった。

 俺はもう3回ぐらいレヴィに同じ話(?)を繰り返してもらった後、当てずっぽうで話してみた。


「わかった。…………あの光が、流転の王の「核」だ」


 ――――Oooo-w-n…………!


「当たりか?」


 ――――Oooo-n…………!


 少しだけ声が明るくなった。当たりということにしよう。

 俺は次いで、ナタリーのことについて話した。


「で、ナタリーは核を壊そうとして…………ああなった」


 ――――Www-m-n…………


 反応が渋い。

 俺は首を捻り、次の案を捻り出した。


「違うのか? じゃあ…………ナタリーは、あの核を抑え込んでいる。身を挺して」


 ――――M-m-mmm…………


 レヴィがもどかしげに身体を左右に揺らす。

「おしい」といった所だろう。

 俺はさらに知恵を絞った。


 とにかく、ナタリーの様子を観察しよう。

 いとも大事そうに光を抱え、まるで慈しむかのように頬を寄せ、身を重ねるように黙って蹲る、彼女の様子を…………。


「…………もしかして…………守っている?」


 あまりに突飛な発想。

 しかしレヴィは、良く通る声で鳴いた。


 ――――O-ooo-n…………!!!


 大正解。まさにラッパの鳴るような調子である。


 ただ一方で俺は、さらに悩むこととなった。

 自分で言ってよくわからない。

「守っている」? なぜ?

 それなら、どうして彼女はこんなに傷ついている?

 この光の色は、どうしてこんな色に染まっている? どうして俺を拒む?


「…………核って、何だ?」


 俺の呟きに、レヴィが甲高く鳴き返した。

 天まで、そして地の底までも届くような、悲痛とも言える声だった。

「そうだ。それが問題だ」。哲学のような問いをするクジラだ。


 俺はレヴィを撫で、考えた。

 …………というより、今、目の前にあることを少しでも事細かに感じるために、意識を改めて据え直した。

 何でもいいから、糸口となる何かを掴まなくては。


 俺は深く息を吸い込み、吐いた。

 目は瞑らない。

 ここはすでに、魔術のど真ん中だから。



 ――――――――…………。

 幾重にも緊張の網を張り巡らせていく。

 極限まで息を潜めると、軋むような痛みが肺に走った。


 ここはどこで、自分は誰なのか。

 何をしているのか。

 何のために、進むのか。


 普段なら深入りしないに越したことがない問いだが、今はそうも言っていられない。

 俺は自分を見失わぬよう、一つ一つ律義に答えた。


「――――ここは、魂獣たゆたう翠の海原…………。

 ――――俺は、扉の力を持つ者…………「勇者」、ミナセ・コウ。

 ――――古の巫女、「水先人」を探している。

 ――――…………かけがえのない友達を、探している」


 翠の光が、突風に煽られたカーテンのように爆発的に揺らいだ。

 嵐の前触れによく似た、不穏な乱流が俺達を巻いて流れていく。

 ヒラヒラと忙しなくめくれるナタリーの破れた服の裾が、言い知れぬ不安を掻き立てた。

 彼女の明るい茶色の髪がわっと広がって、刹那の間、顔を覆い隠す。


 慌てたレヴィが彼女へすり寄ろうともがいた。

 俺は大きく彼の頬を撫で、ゆっくりと伝えた。


「落ち着いて、レヴィ。まだ話しかけただけ。まだ何も起こらない、はず。…………波が静まるまで、辛抱だ」


 間もなく、海は元の静けさを取り戻した。翠色の核が放つ光も大分穏やかになっている。核の光はいつしか、ほのかな乳白色を帯びていた。

 ナタリーの顔色と呼吸が少し安らいだように見える。

 俺は彼女に触れたい気持ちを抑え、続けて集中の糸を深くへ垂らしていった。

 そうだ、もう一息だ。



 ――――――――…………。

 翠の光の奥を、一心に見つめてみる。

 太陽を見つめるのと同じ禁忌を犯している気分だった。

 たちまち俺が浸食されて、真っ白に染まっていく。


 あまりにも強い光は、危険だ。

 この世には、きっと太陽以外にも直接見てはならないものがたくさん存在する。

 この核は間違いなく、その一つだった。


 目を焼かれるか。

 心を焼かれるか。

 自分がマズイことをしているのが、ビリビリと焼け爛れていく肌で嫌でも感じられた。


 ――――Oooo-n…………

 ――――Oooo-o-n…………


 レヴィの切実な呼び声が聞こえてくる。

 俺は彼を宥めつつ、なおも光に魅入った。

 心配してくれるのは嬉しいけれど、俺はこれ以外のやり方を知らない。

 もう俺の目の前には、白しかなかった。



 ――――――――…………。

 そのうちに、どこかの国の風景がぼんやりと頭に浮かんできた。

 風光明媚な大河の水辺に、丸い屋根の大きな宮殿がそびえている。

 乳と蜜の入り混じった、甘く切ない香りが漂ってくる。

 菫に似た色の可愛らしい小さな花が、壮麗な道や庭のあちこちに咲き乱れていた。


 俺は…………宮殿へと続く大通りの真ん中にポツンと立ちつくしていた。

 夜明け前のひんやりと湿った空気が辺りに満ちている。

 褐色の肌をした屈強な兵士が、そんな俺の傍らを悠々と通り過ぎていった。思わず見惚れる程の偉丈夫で、使い込まれた甲冑と漆黒のマントとがその身によく馴染んでいた。

 腰にはどこかで見たような武骨な曲刀が二振り、下がっている。


 俺は周囲を見回した。

 どこだかわからないが、サンラインの街でないのは明らかだった。

 ここには獣人もいなければ、パステルカラーの屋根が映える家々も、「裁きの主」を祀る白亜の教会もない。織物や酒を売る賑やかな屋台もなく、砂っぽくて、誰も外に洗濯物を干していない。


 あれこれ考えているうちに、スルスルと夜が明けていく。

 手の込んだ絵本みたいに、俺を置いて背景だけが変わっていった。

 ポツポツと道を行き交い始めた人々の顔立ちは、どちらかと言えば東洋的だった。


 彼らの目線はそれぞれの生活にだけ、一心に注がれていた。

 俺はまるで幽霊になって、世界に迷い込んでしまったような心地だった。

 燦々と降り注ぐ陽光の下、街はどんどんと活気づいていく。

 誰も彼も、俺のことなど一切気に掛けずに。


 俺は口を開けて、眼前に高々と建つ宮殿を仰いでいた。

 目の覚めるような鮮やかな細工の施された、荘厳な建物である。白い石の壁が、群青の空に素晴らしく目立つ。

 よく見れば、柱には大きな真珠がたっぷりと散りばめられていた。日の光を浴びて、きらやかな虹の輝きが祝福の如く宮殿から溢れ出る。


 建物の最も高い所には、一際彩り豊かな大旗が翻っていた。真っ赤な、神々しい鳥の刺繍がとりわけ目を引いた。

 黙って俺が突っ立っていると、急に背後から女性の声がした。


「…………「扉の魔導師」様、ですね?」


 驚いて振り返ると、そこには見るからに上等なドレスを身に付けた、美しい女性が立っていた。

 薄いベールで顔を覆っているため表情はいまいち読めなかったが、そのたっぷりと豊かな薄茶色の髪や瑞々しく澄んだ翠色の瞳が、小麦色の血色良い肌とも相まって、ナタリーを彷彿とさせた。


 彼女はしっとりとした眼差しをさらに潤ませ、どこか親しげに俺を見つめていた。


「お、俺が…………見えるの?」


 俺が自らを指差して問うと、彼女は悲しそうに首を振った。


「残念ながら、お姿までは見えません。けれど、貴方の存在は確かに感じます。

 …………とても初々しいお方。遥か彼方の時空からいらしたのね?」


 俺は何と答えていいかわからず、ただ彼女を見つめ返していた。

 ナタリーが思いっきり上品に着飾ったら、きっとこんな感じだろうか。

 ゆったりとした服のせいで体型は概ね隠されてはいるものの、それでもナタリーそっくりの健康的な膨らみが透けて見える。

 相手の女性は何を察したのか、少し眉を顰めた。


「あの…………そのように見つめられては、戸惑ってしまいます。私の身と心はすでに、我が愛しき王と、母なる女神様へ捧げしもの。

 …………それより、貴方はもしや、この時空の「核」を探しにやって来たのではありませんか?」


 俺は目を大きくして息を飲んだ。

 何でそのことを知っている?

 というより、この人は何者だ?


 女性は全て悟っているかの如く、リーザロットみたいに優雅に話していった。


「そう…………わかりました。

 それにしても、貴方はまだ…………。ああ、なんて珍しいことでしょう。こんなこと、一生に一度あり得ただけでも到底信じ難く思います。なれど、全ては因果のうち。謹んでご案内させていただきます。

 申し遅れましたが、私は「水先人」のジェンナ・ル・リウールと申します。短い旅とはなりましょうが、貴方と私に良き縁の結ばれることを祈ります。

 …………では、「扉の魔導師」様。どうぞ我が手をお取りください。貴方の求めるものの下へと誘いましょう」


 女性が傷一つない滑らかな手を差し出す。腕に付けていた色とりどりのアクセサリーがシャランと気持ちの良い音を立てた。

 薄いベール越しに見える頬が、ほんのりと赤く染まっている。

 俺は戸惑いの中で、尋ねた。


「けど…………いいのかい? 「核」を壊したら…………ああ、俺、ぶっちゃけその「核」とやらを壊すつもりで来たんだけど…………君は、っていうか、この世界は壊れちゃったりしないのか?」


 女性は手を引くことなく、答えた。


「ええ、確かにこの夢は壊れるでしょう。ですが、夢は夢です。何はなくとも、いつか露と消えゆくもの。この夢が貴方の時空と繋がり、見過ごせぬ影響を及ぼしているのでしたら、貴方のいかなる行いも責めることはできません。何より、女神様は何も禁止などしていないのですから」

「…………これ、夢なのか? …………誰の夢なんだ?」

「それは私には不可知です。今の私は、本の登場人物が読み手の姿を知らぬまま、台詞を投げ掛けているようなものです。本自体がどのような世界の創造物なのかは、私には知り得ません。

 むしろ、読み手である貴方の方が、その答えの近くにいらっしゃるのではないでしょうか?」


 俺は首を捻り、俯いた。


「難しいなぁ。その例えで言うなら、この本の作者は多分、「流転の王」だ。そして俺はその王を倒したくて、ここまで潜ってきた」

「…………私には過ぎた知識ですが、貴方がそう仰ったことは覚えておきましょう。

 ですが、それでしたらどうかお気をつけください。書物は書き手の描いた世界をそのまま読み手へ伝えるわけではありません。ここはあくまでも、貴方が王様の本から導き出した、貴方の世界、貴方の夢です。

 何を壊すべきか、よくよくご考慮ください」


 何を壊すべきか。要は、何が本物の「核」かを見極めろということだろうか。

 何だか入り組んだ話だが、まぁいつも通りと言えなくもない。一つ間違えば何が壊れるかわからない中を、いつだって手探りで進んできた。導き手がいる分、今回はマシとすら言えよう。

 俺はジェンナの手を握った。


「わかった。頼むよ」


 ジェンナは優しく微笑み、俺の知らない言葉の詠唱と共に、俺を翠色の光で包み込んだ。

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