天国の在処

 ヤガミはおばさんに、「一体何の為に生まれてきたんだ?」と訴えていた。「何が楽しくて生きてたんだ?」とも。

 俺はおばさんのプライベートなんて何一つ知らなかったけれども、彼女の人生に、本当に何も無かったとは思わない。


 ソラ君のことが、真っ先に思い浮かぶ。あの子は、いつまで経ってもあどけない顔をした、天使みたいに奔放な子だった。おばさんそっくりの青白い顔色で、それこそ身体さえなければ、どこまでも、どこまでも、どこまでも心だけで世界を突き進んでいってしまうような、そんな少年だった。


 気が付くと、いつも何かに熱中していた。挑戦しているといった方が的確だったかも。彼の白熱ぶりたるや、文字通り熱を出すほどで、ヤガミはしょっちゅう、持ち前の迷惑顔をさらに迷惑そうに(…………とても嬉しそうに)顰めていたものだった。


 何かに夢中になるということ。それは俺の永遠の憧れでもあった。もちろん、赤ん坊のそれと大人のそれとが違うってことはちゃんとわかってはいたけれども、それでも俺は、あの子の熱に中てられると、羨ましく思ってしまった。熱を帯びた風は決まって、俺の空洞を軽やかに吹き抜けて、後には何も残さないが。


 俺は、おばさんは、そんなソラ君と、それを見守るヤガミと一緒にいる時間…………仕事に追われて、とても短い時間ではあったろうけど…………を、生きがいにしていたんだと信じている。彼らに会うために生まれてきたんだと、それぐらいは本気で考えていたと、真剣に思っている。たとえ自分には何もなくとも、彼らがいる。彼らには明日がある。それだけで嬉しかったんじゃないか。


 俺にヤガミのことを頼むおばさんの瞳には、それだけの力がこもっていた。ソラ君を抱く時のおばさんの横顔は、地上に降りた女神のように優しげだった。俺の心にも、そして多分、ヤガミの心にも無かった確かな火を、彼女は灯していた。


 …………心を照らす灯。命を焦がす情熱。そんなものは幻想だと、ひねくれた大人は言うだろう。でも俺は、たとえそれが幻だったとしても、大切に守っていかなければならないと強く思う。むしろ幻だからこそ、真に尊いのだ。


 いずれ、どこかへ向かって踏み出さなければならない。生きるというのは、結局そこに落ち着く。中学生の俺は自習室の片隅で、黙々と英単語帳をめくりながら、そんなことを歌う古い流行歌を延々とリピートしていた。「お前は、何がしたいんだ?」父さんの言葉が、寄せては返す波の如く俺に飛沫を浴びせていた。折悪しく面接対策なんていうものも始まっていた時期で、半ばノイローゼ状態だった。


「父親の仕事に憧れていて、将来は海外で働きたいと考えています。そのためには、語学力が必要だと思い、英語教育に力を入れている貴校を…………」


 別にまるっきり嘘を捲し立てているわけでも無かった。だが、本心でないのはよくよくわかりきっていた。「海外」って、具体的にどこ? そこへ行って、何するつもりなの? 地酒でも飲みに行くの? 仮に言語が喋れたところで、俺には話したいことなんて何一つない。…………俺がこの目で、耳で、舌で味わう、どんな「詩」も、内側へ内側へ染み込んでいくばかりで、外へは流れていかないのだ。


 俺は、夢や情熱なんて馬鹿馬鹿しいと、早く切り捨てた方がかえって楽になれると思い始めていた。いつかヤガミに問われた「死んだら、どうなるんだろうな?」に対する自分の答えが、悪性の癌みたいに身体中に転移していっていた。天国なんて、生まれ変わりなんて、初めから諦めておいた方が、無駄に苦しまないで済む、と。


 それは無論、世間知らずの浅知恵の産物だ。ちっぽけな自分を守るしか能がない、ズルい子供の、精一杯の抵抗だった。

 俺は自ら灯を探しに行く努力を放棄する言い訳を、尤もらしく繕い続けた。「一体何の為に生まれてきたんだ?」生まれたから生きている。「お前は、何がしたいんだ?」特にこれといってしたいことは無いけど、やれることやって、だましだまし生きていくんだ。それが大人になる、ってことなんだろう? …………


 …………それで一生食べていけるぐらい、甘っちょろいのだったら、そもそも天国も地獄も、生まれ変わりも、必要無いって言うのに。

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