第81話 凍てつく川の旅路。俺が金色の下で想うこと。

 ――――…………気付くと、俺は暗い川の中にいた。


 一応意識はあるものの、やけにぼうっとして頭が回らなかった。何を考えても堂々巡りで、しまいには、自分が何を考えていたかすらわからなくなってしまう。

 恐怖さえ感じない、異様に漠然とした気持ちのまま、俺は何度も自らに問いかけていた。


 ――――ええと…………俺は…………


 俺は?


「――――貴様はミナセ・コウだ。「水無瀬孝」」


 どこからかツーちゃんの声が聞こえてきた。わぁん、と、どこまでも反響して広がっていくような、奇妙な聞こえ方だった。


 俺はその答えに、


(そっか。俺は、ミナセ・コウか)


 と、不思議なぐらいあっさりと納得した。

 もう一度、喉の奥で繰り返してみる。

 「ミナセ・コウ」。

 そう、俺は「ミナセ・コウ」だった。


 俺は暗く美しい川を、川上へと向かって泳いでいった。水面には金色の織物が、優雅に、どこまでも果てしなくたゆたっていた。

 俺はなぜか、魚みたいに綺麗に泳げた。


「おい、お前は魚じゃない。竜だ」

(竜? どうして?)

「因果だ。深い意味は無い」

「ふぅん」


 俺はするすると川を上っていった。段々と川の水が冷たく、さらに澄んでいく。水面を覆う金色の織物は、どことなく懐かしい匂いを漂わせていた。

 すごく愛おしいのに、木枯らしのように素っ気ない冷たい香り。


 でも、触れようとは思わなかった。繊細な金色の繊維の、たった一本にでも触れれば、たちまち全て泡になって消えてしまうんじゃないかと、不安で仕方なかった。


 そう、俺は見守るだけでいいんだ。


「なぜだ?」

(だって)


 俺は、空っぽだから。

 ただ何となく生まれて、ここに在るだけの生き物で、ああいう綺麗なものには、手を伸ばしても届かない定めだから。


「…………それでいいのか?」

(いいも、何も)


 そういうものだろう?


 そう言い切ってしまうと、己の声がわぁん、と水中を渡っていった。あっという間に、届かないほど遠くまで言葉が逃げてしまって、何だかすごく悲しくなった。


「…………コウ。そのまま、川を辿れ」

(うん)


 俺はツーちゃんに言われるがまま、川を遡った。


 流れが徐々に急になってくるにつれて、なぜ川下に向かわなかったんだろうと後悔し始めたが、かといって、引き返す気にもなれなかった。


 冷たくて苦しくて、でも、綺麗に透き通っていて。

 いずれ行き詰まるって、わかっていて。

 それでも俺は、淡々と泳ぎ続けた。


 俺は小石を置いていくように呟いた。


(俺…………臆病で、根性無しで、ひとりきりじゃ、息すらできなくて)

(それなのに、なぜか無性に川が恋しくなる。それも、すごく流れの速い、凍るように冷たい、命を拒むような川が。…………その中で、いつまでも泳いでいたくなる)

(…………わかる? ツーちゃん)


 ツーちゃんは答えあぐねているようだった。言葉にならない呻き声が、微かに俺の耳に響いた。


 俺は川をグイグイと泳いでいった。半透明な小さな魚が、傍らを風のように抜き去っていった。


(あっ…………あいつ、魚じゃないよ!)

「! では、何だ?」

(俺の)

「俺の?」

(…………おとう、と?)

「弟」


 ツーちゃんは重々しく繰り返すと、また岩のごとく黙り込んだ。

 俺は泳ぎに集中した。もうそろそろ、本格的に息が苦しくなってきた。

 その上、さっきまで自分が何の話をしていたんだったか、わからなくなってきてしまった。


 わかるのは、ただ…………。


 滝のように押し寄せてくる、水。

 泡で何も見えない。

 サラサラと波に煽られ、川面の織物が金粉を散らしている。星の雨が流れていくようだった。

 金色の静かな嵐。

 俺の世界と水面の向こうの世界がせめぎ合っている。

 水音が頭一杯に広がっていく。

 俺は凍えた水を思い切り蹴り、尾で打った。


 …………ダメだ。

 もう進めない。


 金色の星屑が火の粉みたいに辺りを舞っている。踊っているのか、狂っているのか、とても美しい。

 俺は笑った。竜だか、魚だかわからないが、なぜか笑い方だけは覚えていた。


 俺は、魂の獣――――――――…………。



「――――――――!!!」


 俺はそこで唐突に目を覚まし、真っ正面に自分の顔がそそり立っているのを目にし、二重に驚いた。


「うわぁぁぁぁっっっ!!!」

「うわぁぁぁぁっっっ!!!」


 俺とタカシは一斉に飛び退き、尻餅をついた。


「な、なんでそんな近くにいるんだよ!? バカタカシ!!」

「お、お前こそ、いきなり起き上がるんじゃねぇよ、バカコウ!!」

「お前、頭の血管はどうした!?」

「欠陥!? お前、喧嘩売ってんのか!? 前にも言ったが、俺の方は健康体だ!!」

「俺の方は!? お前、まだそんな戯言を!!」


 悪態付き合う俺たちを、フレイアが仲裁した。


「コウ様、タカシ様! どうか気持ちをお静めください! 検査は無事に終わりましたので…………あの、今、お茶かお水か、持ってきますから!」


 俺達はフレイアのおろおろする顔を見つめた。久しぶりに見たが、やはりとても可憐だ。緩くカールした睫毛の下の、クルミみたいな形の目が本当に愛らしい。

 フレイアは俺達を交互に見つめ返して、さらに困惑して頬を染め上げた。


「あっ、あの、差し出がましい真似をしてすみません。ですが、その…………」


 俺は俯くフレイアを見て、タカシのことなどすぐにどうでもよくなった。俺は深呼吸して肩を落とし、彼女に謝った。


「ごめん、フレイア。ありがとう」

「そうさ。俺達は仲良しさ」


 タカシもすかさず追従する。


「いえ…………」


 フレイアは難しい顔をしたツーちゃんの方へ顔を向けると、また俺たちの方へと向き直って続けた。


「コウ様、タカシ様。琥珀様からお話がございます」

「うん、わかった」


 俺とタカシはすごすごと寄り集まり、机にいるツーちゃんの元へと馳せ参じた。ツーちゃんは恐ろしく不機嫌な表情で俺たちを睨み渡し、唸った。彼女の傍らでは、目覚めたばかりと思しきリルバラ鼠が、ちょこまかと元気に動き回っていた。


「まぁ、まずは…………この鼠たちの背を見よ」


 言われて、俺たちは鼠を覗き込んだ。彼らの背には、やや歪な、外側へ放散していく渦巻き模様が、黒インクで描かれたみたいにくっきりと浮かび上がっていた。


「どういうこと?」


 俺が顔を上げて尋ねると、ツーちゃんは長い溜息を吐いた。


「…………それは「邪の芽」の印だ」

「!!! そんな、琥珀様!!!」


 突如、フレイアの声が部屋の空気を鋭く震わした。咄嗟に彼女の方を見やると、彼女の瞳はこれまでになく赤く、暗く濁っていた。

 その暗い紅には覚えがあった。闇の底に沈んでいった、あのおぞましい熾火によく似ている…………。


 ――――ああ、はやく蛇の娘が欲しい。はやく…………。


 地を這うような声の記憶がこだまする。

 ツーちゃんはフレイアと俺を交互に見比べ、抑揚無く続けた。


「間違い無い、フレイア。お前の「邪の芽」が、コウに伝染した。それに、さらに深刻なことも判明した。予測の外れていることを願っていたのだが…………。

 …………コウ、タカシ。落ち着いて聞け。

 オースタンは…………貴様らの生まれ故郷は、すでに崩壊している」


 俺はすぐには言葉が飲み込めず、しばらくは呆然としていた。

 それから急に、溜まった時が爆発したかのように、凄まじい衝撃が頭に走った。



 …………オースタン、地球が、壊れた?



 え…………?

 えぇ……………………?

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