(先に行ってるから)
次の日、先輩は学校を休んだ。昼の当番に姿を見せなかったのだ。
ぼくはその日一日中、窓の外を眺めていた。昨日と同じように、それはとてもよく晴れた、空のきれいな日のことだった。
放課後になってから仕事を終えて、ぼくは屋上にのぼってみた。屋上には昨日と同じように誰もいなくて、その真ん中に彼女が一人だけぽつんと立っていた。どこかの無人島にとり残された、自由な漂流者のように。
彼女は制服を着て、顔には所々に絆創膏をはったりガーゼを当てたりしている。ぼくはいつだったか、先輩が階段から落ちたといって腕に包帯を巻いていたことを思い出した。
「どうして来たの?」
彼女はぼくのほうを向いて、けれどあまり不思議そうではなく訊いた。
「……何となく、です」
ぼくは簡単にそれだけを言った。
しばらくして、ぼくは逆に訊いてみた。
「先輩こそ、どうして待ってたんですか?」
「……何となく、かな」
彼女も簡単にそれだけを言った。
屋上のまわりには相変わらずの青空が広がっていた。空はやっぱり、青いのだ――
「わたしね、帰ることにしたの」
しばらくしてから、彼女は言った。
「帰る?」
「そう、自分の本当の家に」
「…………」
ぼくはしばらく黙っていた。
「……厳しい魔女の掟があるんじゃなかったんですか?」
「うん――」
先輩はほんの少しの間、考えていた。
「でもまあ、これ以上は耐えられそうにないから、仕方ないよ」
「――そうですか」
ぼくは特に、質問しようとはしなかった。
それからしばらくの間、彼女は空を見上げたり、大きく息をすったり、のびをしたりした。そうすれば少しでも体が軽くなる、とでもいうように。
「……ねえ先輩、本当の名前を教えてくれませんか?」
ぼくは訊いてみた。
「だめ」
「どうしてですか?」
「だって仕方ないじゃない」
彼女は透明に笑って言った。それは何だか、ひどく明るい感じの笑顔だった。
「〝本当の名前〟なんて、どこにもないんだからさ」
「……そっか」
そう言って、ぼくは小さくうなずいた。「そうですよね」
彼女はもう一度だけ大きく息をすうと、言った。
「じゃあ、わたしそろそろ行くから」
ぼくは止めなかった。
彼女は屋上のはしに行って、柵をよじのぼった。スカートをきれいに翻してそこから飛び降りると、彼女は柵の向こうに立っていた。
屋上のへりの先には何もない。ただ街の景色と空だけが続いている。風が吹いて彼女の髪とスカートを揺らした。その前に広がる空は、どこまでも青かった。
彼女は最後に一度だけ、こちらを向いた。
「……バイバイ、先に行ってるから」
そう言って、彼女は屋上から姿を消した。
一瞬後に、ぐしゃっという、何かの潰れるひどく即物的な音が、下のほうで小さく聞こえた。
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