第192話

 視界が開けた瞬間、自分が現実世界にいるわけではないことに気がついた。

 現実世界で感じられる感覚よりも強烈な太陽の日射と、それに照らされギラギラときらめく下界の小さな太陽たち。それらは今が冬であることなど記憶の端からすら弾いてしまうような、そんな生暖かい風に吹かれて小首を傾げた。

 だいぶ久しぶりな気がする。レジスタンスに所属してからというもの何度か体験した明晰夢。しばらくぶりに夢のなかで記憶の中にいた。


「夢という現象は、それまでの記憶の整理が海馬で具象化したものと学説的に言われていますからね。夢のなかで記憶の一部に対面したとしても、何ら不思議なことではないでしょう」


 救済自衛寮の外周にそびえ立ち異彩を放つ巨大な塀の包囲網。その内側に犇めく向日葵の監獄。見慣れたいつもどおりの風景の中に唯一違和感と表現しうる存在が時雨の脇にあった。

 普段は極小のホログラムであるネイは、どうしたことか一般的な人間の等身大で自衛寮の錆びついた庇の下で足を投げ出している。

 普段と違っているのは身長の差異に関することや、実体かそうでないかの相違だけではなかった。どういうことか記憶の中の真那が着ている衣装をその身に纏っている。特徴的な折り返しのある純白のワンピースだ。


「悪趣味なファッションセンスだな」

「それは真那様のファッションセンスを侮辱していることと同義ですが」

「その服を着ていることが悪趣味だと言っているんだ。真那がそれを着て似合っていないわけがないだろ」


 憤りなどがあったわけではなかったが何となく癪に障ったために指摘した。ネイはやれやれと言わんばかりに肩をすくめてみせたが、衣装を変えるつもりはないらしい。

 実体と化した生身の二の腕を物珍しそうに手のひらでさすり、不敵な笑みを浮かべては強烈な悪戯心を表情に顕す。何を考えているのか解ったものではない。


「それで人の夢に何の用だ。家宅侵入罪で訴えるぞ」

「普段からビジュアライザーというライフラインに常駐し、時雨様のプライベートを覗き見しまくっている私に言うことですか」

「で、どうしてここにいるんだ」


 記憶が正しければこの夢の中には基本的に真那しか現れない。

 最後に救済自衛寮の夢を見た時、一番会いたくない薔薇人間にあってしまった嫌な記憶はあるが、まああれは例外だ。人間の深層心理にまで悪影響を及ぼす有害因子だったに過ぎない。


「ビジュアライザーにインストールした不法アクセスツールで、時雨様の脳内インプラントから海馬に侵入しているだけですがなにか」

「脳障害残しかねないからやめろ」

「障害起こしてもドラッグ打てばいいだけじゃないですか。まあインプラントチップの修復は無理でしょうが」

「……さっさと俺の夢の中から出て行け」

「せっかくの真那様との邂逅の場ですからね。私としても時雨様と妄想真那様の乳繰り合いに水を差すつもりはありませんが……残念ながら、その妄想の住人は絶賛ご不在中のようですよ」


 ネイに言われるまでもなく、彼女がここにいないことは何となく気がついていた。この地点にいないというだけではない。人の気配が一切しない。

 あの真那のことだ。もし再びここに来ると判っていれば、この場所の認識をするよりも早く時雨を出迎えるはずだ。

 

「ううん、出来るよ。だって私がいなくても時雨の人生は色づく。私がいなくても時雨は幸せになれるから」

「でもいいんだよ、時雨。だって、これは私が望んだことだもの」

「寂しいけど、これは私の描いたシナリオ通りなのよ」

「……だって言ったでしょ?」

「私は時雨が幸せなら幸せなんだもん」


 最後にこの場所で真那が発した言葉が脳裏に反芻する。哀愁を漂わせ背を向けた彼女はどんな心境でそう語ったのだろう。

 何度かその言葉の意味を考えてみたことはある。何度考えても行き着く結論は同じだったが。


「真那はもうここにはいないんだな」


 実際にこの場所に舞い戻ってきて改めて痛感させられる。

 この夢はあくまでも夢であり、妄想が生み出した過去の投影であると言われればそこまでだ。それでもこの場所で彼女が話した言葉や一挙手一投足が瞼の裏に焼き付いてはなれない。現実で彼女と接した記憶よりも鮮明でリアルに記憶に居座るのだ。

 逆に言えば救済自衛寮で過ごした十年弱。その間に真那と交わした日々はどこか色あせていて、それ自体が妄想なんじゃないかと思えてくる始末。この孤児院に収監され精神崩壊に至らなかったのは、ひとえに彼女の寄り添いがあったからだというのに。

 どうしてかその記憶は残留因子となって、記憶の片隅から少しずつ廃れていく。真那との記憶が失われていく。


「そう……あなたにとって私はもう記憶に過ぎないの。記憶の中で廃れていく過去の産物」

「……もう否定しきれないな」


 思わず自虐が頬に現れた。卑屈に吊り上がる口元を抑えられない。

 あれだけ記憶の中の真那の言葉を否定したというのに、真那の発言のままの思考を展開させてしまっている。

 

「後悔しているのですか?」


 理由もなく自身の手のひらを俯瞰して自嘲していた時雨を、ネイはこちらを一瞥することもなく不安定に浮遊するモンシロチョウを目で追いながら訪ねてくる。

 全く好奇心の感じない質問だったために返事をしないという選択肢もあったが、何となく心中の葛藤を言葉にしたくなった。


「後悔も何もない。こうして記憶の配置が入れ替わっているのは、俺の行動に起因する何かが原因じゃないからな」


 人間に対する好意や興味、関心といったものは偶発的に変貌するものだ。

 長い間時雨の知っている真那と会うことが出来ず、その中途で違う人格の真那に遭遇し同じソサイエティで生活することを選んだ。

 結果、記憶の中の真那にレジスタンスの真那を重ねるようになり。日常的に後者の人格に触れていれば、その人格が本物と錯覚するようになる。

 時雨の中における真那という人間の人格が、気が付かぬうちに入れ替わってしまったのは仕方のない事と言えよう。


「本当にそう思っているのですか?」

「違うというのか?」

「別に全面的に否定するつもりはありませんがね。ただ、それはあまりにも薄情ではないかと思いましてね」

「生憎、生まれつき情が薄い性格なんだ」

「そうやって話しの観点を変換させないでください。いいですか時雨様、思い出してください。時雨様はこの場所で今時雨様が思考した理論を記憶の中の本当の真那様に説かれた時、どのような印象を抱かれましたか」


 激しい衝動的な反抗心だ。優先順位が変わったなどと言われ、そんなこと肯定できるはずもなく真那に食って掛かったのである。

 レジスタンスの真那も聖真那として一個たる人間として接しているが、記憶の人格もまた自分にとっての真那だと。


「時雨様は今、その確固たる解釈すら否定しようとしている」

「……俺は存在まで否定しようとしているわけじゃない」

「同じことですよ。時雨様はずっと信じてきたはずです。レジスタンスに拉致された際に初めて出会った人格ではなく、それまで時雨様の記憶の中にいた人格こそが本当の真那様なのだと。記憶の中に、それはもう大切に仕舞っていた人格ではございませんか。それだのに時雨様はどうして、そんな簡単に大切な人格に別の人格を重ねようとしているのですか」


 情緒というものを持たない人工知能に諭されているのに、返す言葉を持たない。そんなこと解っている。自分は逃げているだけなのだ。

 元の真那の人格に思いを馳せるたび傷つく人間がいる。己の人格が偽物だと自分自身の存在性すら否定しかねない人間がいる。

 だから記憶の器に蓋をした。あんな憂愁の影漂う顔を見たくなかったからだ。それにその人間の存在が今の時雨にとって最も──。


「やっぱり薄情ですよ、時雨様は」

「……そうかもな」

「ですが、それくらい割りきってくれた方がこの場合はいいのかもしれません」


 意味深な言葉を残してネイはその場から立ち上がる。そうして救済自衛寮の内部へ歩を進めていく。

 彼女は足取りに迷いを見せることなく一直線にある部屋へと向かっていた。そこまでたどり着くまでもなく行き先に思い当たる。


「いつも思うが、どうしてお前は俺の記憶情報を読み取れるんだ」

「時雨様の脳内インプラントにいつでもアクセスできることをお忘れなく」


 インプラントチップはあくまでも網膜ディスプレイとそれに関節接触しているARコンタクトに干渉し、ホログラムデータを参照するための媒体だ。

 少なくとも人間の脳記憶機能にアクセスすることは出来ない。ニューラルネットワークを簡略化するシステムでも搭載できれば話は別だが。本当にこの人工知能がデータの存在であるのか疑いたくなる。


「で、この部屋で時雨様は同年代の男の娘と衣食住を共有していたわけですか、それはもう綿密に」

「イントネーションに引っかかりを憶えなくはないが、まあ平たく言えばそういうことだ。もう何年も前の話だが」


 ネイが出向いた部屋は、救済自衛寮に入寮してから防衛省に入るまでの間、生活を営むべく聖玄真から割当られていた部屋だ。

 

琴吹波音ことぶきなみねと申しましたか。その男の娘とこの密室で一体どんなプレイングに勤しんでいたのですか。おまけにこんな厳重なセキュリティロックの搭載したフェティシズムンムンな監獄で」


 ネイは部屋の堅牢な扉に触れながら全く言いがかりな発言をする。

 彼女の言うように扉には現代でも殆ど使われないほどに厳重なロック機構が仕込まれている。

 肉眼では判別できないが、部屋の内装を剥がせば内側には頑強な金属の壁が埋もれていることだろう。完全に孤児を隔離するための牢獄部屋だ。


「この部屋も懐かしいな」

「ベッドが一つしかありませんが、これは」

「邪推はやめろ。琴吹が失踪してすぐに撤去されたんだ」


 琴吹が救済自衛寮から姿を消してから、僅か半日ほどで彼の痕跡が全て失われた。衣類や寝具、あまつさえ彼の触れたもの全てが撤去され、新しい物に交換された。

 迅速な対応とその厳重性からして、間違いなく琴吹は救済自衛寮の人間に処分されたのだろう。

 どういった形でかは分からないが。死んでいるか、あるいは隔離施設に拘置され現在進行形で崩壊しているのか。どちらにせよ五体満足の状態でいるとは到底思えない。


「ねえ烏川くん、いつかさ、一緒にここから出ようよ」


 いつかの琴吹の垂れ流した夢空言。何故かそれが脳内に反芻する。

 彼にとっては絵空事などではなかったのだろう。それは灰色に滲んだ瞳に宿る生気と決心を見れば明らかで。琥珀色のなめらかな頭髪を揺らしながら彼は本気で言うのだ。


「あの塀を超えてさ、何にも縛られないそんな世界に繰り出したいんだ。いつまでも受け身でいるつもりはないよ。僕はね、きっとここから出て行くんだ。計画的な作戦を練って誰にも気付かれずにここから逃亡する。行く宛なんて無いしお金だって無い。でも、ここにいるよりはずっとマシだよ、そう思わない? 烏川くん」

「本気でそう思っていたのなら、もう少し綿密かつ現実的な脱出計画を練るべきだったな」


 彼の死に特別な感慨を覚えないわけではない。あの時彼の脱出に賛同していたら、少しでも生存率は挙がったのではないかとそう考えたことがないわけではない。

 だが彼は時雨に声をかけることもなく一人で脱出計画に乗り出し、そして失敗した。

 後悔した所で何が変わるわけでもない。悔いることがあるとすれば、その死を見届けられなかったことくらいだ。


「琴吹、お前はこんな形で救済自衛寮から逃れて結果的にどうだったんだ?」


 生という執着から逃れ確かに救済自衛寮から離れることが出来た。実験体として養育されるなどそんなもの生き地獄だ。それならば最悪の形といえど、死んでしまえてよかったと解釈できないだろうか。

 すべてが終わってしまった後にそんなことを考えても結局は後の祭りだが。



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