第108話
冷たい風に煽られ
「霧隠月瑠……っ!? 貴様、何故ここに……っ」
「何でって特に理由はないですけど」
「理由もなしにこんな場所に来るとは思えないがな」
警戒しつつ状況の把握に努める。泉澄の肩を掴んで下がらせアナライザーのシリンダーに通常弾が装填されていることを確かめる。
「なんですかセンパイ、ちょっと冷たいですよぅ」
「冷たいも何も、敵を前にして警戒が必要以上ということはないだろ」
「敵……はぁ、そうですよね。あたしたち、敵同士だったんですよね」
彼女はそこでようやく思い出したように冷静に小さく頷いて返してくる。
緊張感も何もない彼女の挙動に対しても警戒を解くことはしない。その柔軟さが油断を誘う演技の可能性が十二分にあったからだ。
彼女の手には以前見た
「そんなことよりセンパイ、一緒におむすび食べましょう」
「……は?」
「ちょうど今日、作りすぎちゃっててですね。どうしようか悩んでたんです……そんな目で見ないでくださいよ。別に騙そうなんて考えてないっすから」
少し困ったように述べる彼女に狼狽してしまう。
何を言っているのか。敵対勢力同士である時雨たちと対面して戦闘に発展しないなどということがあり得るのか。
あまつさえおむすびを食べようだなんて。これもすべて作戦のうちなのか……?
「時雨様、食べましょう」
「は? いやネイお前、」
「少なくとも現状、月瑠様には時雨様を殺そうなどという意志は無いように思います。以前感じたナノマシンの反応が一切ありませんので」
「あ、ホログラフィさん、相変わらずナイスフォロー、超アテンシブっす」
「時雨様の攻略の幅を可能な限り拡張するのが、物語のアシスト役たる私の役割ですから。時雨様の攻略できるキャラクターに月瑠様がいないなんてことは、あってはなりませんからね」
「相変わらずの、きれっきれなメタ発言ですね」
ネイもまた敵を前にしているとは思えない軽快なジョークを並べ立てる。
まったく何を考えているのだこの二人は。月瑠は防衛省の人間なのだ。それもTRINITYという幹部級の。
「センパ~イ、早くしてくださいよっ」
「……時雨様」
目線で注意を促す泉澄に小さく応じた。
月瑠の目的は不明瞭だが、ここで撤退すれば彼女のたくらみを暴けず問題に発展する可能性がある。
復興したばかりの学院で再び不祥事が起こりえれば、もはやこの第三統合学院に未来はない。今は危険を冒してでも月瑠の出方を見るのが先決だろう。
泉澄に下から見張ってもらいながら循環制御機に上る。そうして今度は時雨が月瑠を警戒し泉澄に上がらせる。
月瑠は特におかしな挙動に及ぶことはしなかった。何やら以前見た記憶のある風呂敷を解き始める。
「まあ仕方ないとは思うですけど、そんな親のかたきを見るような目で見ないでくださいよぅ」
「そう言われてもな……」
「本当にセンパイと一戦交えるために来たんじゃないんですから」
距離を保ったまま警戒する時雨を月瑠は呆れたように一瞥する。その表情や声音は確かに騙そうとしているようでもない。
「まあ確かに、そこまで神経を張りつめさせる必要はないかと」
「何故お前はそんな楽観的なんだ」
「考えても見てください。あの月瑠様が時雨様を騙すようなことが出来ると思いますか? あの月瑠様が。相手を騙す前に自分のことを騙しそうなもんですよ。あの月瑠様なのですから」
「ちょっとホログラフィさん、合間にアホっていう言葉が入りそうなニュアンスだったんですけど」
「さすがの洞察力ですね、アホの月瑠様」
「ひっど~い!」
月瑠とネイのそんな会話を聞いていると不思議と警戒心が薄れかけてしまう。泉澄と顔を見合わせるが彼女も困ったように肩をすくめて見せた。
「泉澄センパイもどうですか? なんか泉澄センパイはジャパニーズって感じがするので、気が合うような気がするんですけど」
「…………」
警戒しつつも近寄ると月瑠は泉澄にも催促し始める。泉澄は無言のまま見定めるように月瑠を睨んでいた。
「ノリが悪いですねえ、仕方ないっす、泉澄センパイの分のおむすびはここにおいておきます。あ、こっちも
「寒いですよ月瑠様」
「受けると思ったんですけど……まあいいです、はい、これがセンパイの分」
少し距離を置いて腰掛けた時雨に月瑠は包み紙を手渡してくる。一瞬爆弾か何かなのではと勘繰るが手に持った感じ普通の米の感触だ。
念のためにインターフィアで構造物質の解析を行うものの栄養素以外に読み取れた情報はない。
まさか本当にただここで食事をしようというのか。
「なんか久しぶりですね、この感覚」
「……そうだな」
「実は、毎日ここに通っていたのは、この場所からならセンパイのゼミの教室が一望できるからなんですよ。ターゲットのうちの一人だった泉澄センパイを監視してたんです」
そう言えば確かに月瑠はいつもここから時雨たちが講義を受ける教室を眺めていた。
「まあもう一人のターゲットが、その教室じゃなくて、いっつも隣にいたなんて気が付かなかったんですけど。でもですね。あたしがここに通っていたのは別の理由もあったんです」
「別?」
「はい。この場所から眺める景色が好きでした」
そうぽつりと言った月瑠は下界に視線を落としている。教室ではない。リミテッドの全貌を
時雨もまたつられるようにその光景に目を落とした。すでに暗闇に浸食され始めている巨大なパノラマ。
台場の工業発展区域が立ち並び、その奥には人類の生存領域が広がっている。
ここからでもレッドシェルターが見える。防衛省の生み出したディストピアで、仮初の安寧の中に生きる市民たち。そんな事実など覆い隠してしまうような美しい光景だ。
「そう言えば初めて会った時も一緒にこの光景見ましたよね。あの時は凛音センパイもいましたけど」
「ちなみに、もっと明るかったですけどね」
「センパイはここから見える光景、どう思います?」
時雨を見やるわけでもなく月瑠は問うてくる。最近同じような質問を受けた記憶がある。
「変わらないな。ずっと」
「本当にそうですか? まったく変わらないように思えます?」
「……どういう意味だ」
「あたしにはずいぶん変わったように思えます。センパイたちがこの世界を変えようと奮闘すると、比例してるみたいに、この光景もちょっとずつ変わっていくんです」
形容のできないような表情を月瑠は浮かべていた。
レジスタンスがもたらす変革。月瑠はそれを妨害する立場にいる。その変革をどうにも彼女は疎んでいるようには思えない。
「霧隠は……それをいいことだと思うのか?」
「さぁ、あたしには解んないですよ。でもあたしにとって、エンプロイヤーの意志がすべてなんです。エンプロイヤーがその状況をいいものと認識してるなら、きっといいことなんです。あたしにとっては」
呟いた月瑠の印象はひどくあやふやだ。それでいて危なっかしい。その考えのどこに月瑠の意志はあるのだろう。
「どうして防衛省にいる?」
気が付けば半分無意識的にそう問うていた。
普通ならば敵対関係にある相手に聞くような質問ではない。それでも聞かずにはいられなかった。
「エンプロイヤーがそこにいるからです」
やっぱりあやふやだった。
彼女に渡されていた包み紙を解く。その中には不格好な形状に丸められた米の塊が鎮座していた。
「時雨様、それを口にするのは……」
「安心していい。毒は入っていない」
何故そう思ったのかは自分でも解らなかった。だが直感的に確信したのである。月瑠は本当に食事をするだけのつもりで呼んだのだ。
見下ろした米塊の表面はでこぼこで。覚束ない手つきで必死に握ったのが解る。その覚束なさがどこか今の月瑠の心情を表しているように思えた。
「……いびつだ」
「センパイ、確かにあたし料理へたくそですけど、でも言葉にしないのが礼儀ってもんじゃありません?」
「いやそうじゃなく、俺たちの関係がいびつだと思ったんだ」
「どういう意味です?」
「言葉にするのは
不安定なのは時雨自身の立場かも知れないが。一瞬躊躇するもののためらいを振り払うように白米を口に含んだ。
「……塩の味が全くしないなこれ」
「うるさいですね。黙って食べてくださいよ。昔のジャパニーズでは塩は貴重だったんです。ですので基本的に塩はナシだったんですから」
窘めてくる月瑠。言われた通り黙って食べることにする。次に口に含むと歯が何か固いものに当たる。続いてばりっという裂傷音が響いた。
「……相変わらず渋いチョイスだな」
「渋いとはなんですか渋いとは。心がピュアなら、どんな痛みも苦しみも感じないって教えた、ジャパニーズニンジャの起源の人っすよ。文句ばっかり言ってると、失礼じゃないっすか」
「前も訂正した記憶がありますが、それは臨済宗の僧、
「関係ありません。ジャパンの偉人ならだれでも超リスペクト、ウェルカムです」
「相変わらず話が脱線しまくるな」
「だけどあれですね、やっぱり凛音センパイがいないと、このたくあんの味も引き立ちません。今度は凛音センパイも一緒に食べられたらいいですね」
少し呆れながらも彼女手製のたくあんおむすびを
「あのころに戻りたいですね。いがみ合ったりしていなかった退屈な日々に」
考えずにはいられない。脳裏にフラッシュバックするのはこの場所で過ごした他愛のない時間。
「レジスタンスに来ればいい」
「え……?」
気が付けばそんなことを言っていた。
「な、何言ってんですかセンパイ、あたしたち敵同士なんですよ」
「
「そんなの……そう決まっているからですよ」
「決められた運命なんてない。霧隠は何のために防衛省にいる。ラグノス計画に本当に加担したいと考えているのか? ただ誰かの命令でやりたくないことをやらされていて、それでいいのか」
思考よりも先に言葉が機関銃の弾丸のように吐き出される。月瑠は当惑したように、口をつけていない米の塊を持ったまま固まっていた。
「命を張ってお前と戦いたくなんてない。和解できるなら和解したい」
「やめて、くださいよ」
「お前の意志をまだ聞いていない。これでいいのか。流されるまま他人の決定に乗せられて。そこにお前の意志はあるのか」
「いいから、やめてください」
声音は変わらなかったが。月瑠のその言葉に何も返せない。威圧されたわけでもないのに彼女の声には物言わせぬ雰囲気があったのだ。
何も言えぬまま彼女のことを見つめる。月瑠はただ無言で手に持っているおむすびに口をつけていた。
「しょっぱいじゃないですか」
「え?」
「このおむすび、超しょっぱいです。塩効きすぎです。センパイ、よくこんなもの食べられますね」
「いや何言って……ンぐっ!?」
「貴様っ、何を――」
気が付けば、彼女が食べていたはずのそれが時雨の口に押し込まれていた。むせ返る時雨の前で彼女が立ち上がる気配。
「もしセンパイと別の出合い方をしていたら……あたし、デイダラボッチじゃなかったかも知れないですね」
「きり――――」
「あたし、センパイのそういう不器用な率直さ嫌いじゃないですよ」
咳き込んで見開いた視界の中に。すでに彼女の姿はなかった。
「時雨様、大丈夫ですかっ?」
「……ああ、大丈夫だ」
駆け寄ってくる泉澄を制してその場から立ち上がる。見渡しても彼女の姿はどこにもない。ただその痕跡は足元に残されていた。
置き去りにされていた風呂敷。くしゃくしゃに丸められた包装紙には
「……不器用なのは、どっちの方だか」
『時雨センパイの分』『凛音センパイの分』『あたしの分』――
「霧隠月瑠は、時雨様たちに会いに来ていたのでしょうか」
泉澄が計りかねた表情で問うてくる。
「……さあな」
答えは明白だったが曖昧に流した。
「月瑠様がボッチである要因は、やはり明確でしたね」
難のあるボッチであるようだ。
「さて、月瑠様の香りの余韻に浸るのもいいですが、そろそろ真那様を探しに行かれた方がよろしいかと」
「俺をあの山本一成と一緒にするな」
「某アダム様の貫録には程遠いですよ。アダムの称号に固執するならば、せめて数百キロ離れた地点からでも、女性の香りを嗅ぎ分けられませんと」
「そんな称号いらないし、そんな奴が存在したら、もはや人間というより血に飢えたサメだ」
確かにネイの言うとおりだ。空は既に暗雲に飲まれ、今にも泣きだしそうな光景に包まれている。
「冬が差し迫っているこの時期は、夜も早いですからね……」
早く真那を見つけ出さないと夜になってしまう。
「時雨様、失念していたのですが、無線で居場所を確認されればよろしいのではないでしょうか」
「……忘れていたな」
「はぁ、これですからニワトリ脳の時雨様はダメなのです。二歩進めば三歩分の情報を忘れる。若年性認知症ですか。老人ホーム行きます?」
そういう自称ハイテク人工知能様も忘れていたようだが。
「違います。シナプスが繋がらなかっただけです」
「それは同じ意味合いなのでは……」
「とにかく連絡をつけるか。風間、霧隠に遭遇したことを皆に伝えに行ってくれないか」
「解りました。それでは時雨様、お気をつけて」
まだ凛音たちが校門付近にいるのを確認して泉澄に頼む。彼女は手早く了承し屋上から姿を消した。
無線はしばらく繋がらなかったがようやくして真那が応答する。
「時雨」
「真那か、今どこにいるんだ?」
「織寧重工跡地にいるわ」
どうやら全く見当違いな場所を模索していたらしい。
「解った。すぐに行く、そこで待っててくれ」
「解ったわ」
端的に会話を終了させ彼女のいる織寧重工跡地にまで向かう。
高架モノレールを待つのが億劫だったため徒歩で台場公園から出る。
ターミナルにてモノレールに乗り込むと陸続きでない別のフロートにモノレールは向かい始めた。
リミテッド最大の工業地帯。すぐに陥落した巨大な重工工場が見え始める。その施設の前、立ち入り禁止のプレートの前に人影が佇んでいるのが見える。
「そんな格好してたら風邪ひくぞ」
「時雨……?」
私服姿のままコートも着ないでいる彼女に自分が着ているコートを着せる。その際に触れた彼女の素肌はひどく冷え切っていた。
「時雨はいいの?」
「正直寒い。だから早く帰るぞ」
コートの袖越しに彼女の手首を引いて織寧重工跡地を後にする。何が目的でここにいたのかはわからないが真那は素直についてきた。
時刻も時刻なため流石にコートなしではかなり寒い。そういう理由もあって高架モノレールに乗るまで殆ど彼女と言葉を交わさなかった。
機内に入るとちょうどいい温度に設定された暖気に包まれる。
「生き返るな」
「私にコートを貸さなければよかったのに」
「どうしてそんな薄着なんだ」
「早めに帰るつもりだったから……」
真那は寒がるように露出している手のひらを擦りあわせている。長時間外気に触れていれば当然そうなるだろう。
さすがに凛音にしたようにその手を握り温めることはできないが。
「何が目的で、あんな場所にいた?」
「特別理由があったわけではないのだけど……レジスタンスの活動の結果、変わってしまったものを見て回りたくて」
「ああ、だから今日、率先して事前にキャンパスに向かっていたのか」
「レジスタンスの目的はリミテッドに変革をもたらすこと。人類の平和のために。でもその過程で結果的に沢山の命が失われているわ」
「必要な犠牲とは言わないが、この犠牲はきっと仕方ないことだ」
それは今日キャンパスに出向いて何度も実感したことだ。
レジスタンスが改革することはつまり今ある均衡が歪むということ。人的被害や要素の欠落は副次的に生じてしまうのである。
「目を瞑ってその被害を見なかったことにする……皮肉なことながら、我々にはその選択が強いられてしまうのです」
「致し方ないことなのかしら」
致し方ないことなのだ。レジスタンスには目的以外のものに目を背けている余裕などないのだから。
しばらくはそのまま無言で車窓を流れゆく光景に身を任せていた。
対面側の窓の奥にある光景は東京23区。世界がノヴァに侵略されている現代で、おかしなほどに発展が進んだ空間。
ラグノス計画の脚本通りに展開された偽りのディストピア。
「私たち、どうして戦ってるのかな」
しばらくして、同様に車窓越しに世界を俯瞰していた真那が呟く。
「防衛省の手から平穏を解放するためだ」
「でも、どうして私たちなのかしら。どうして私たちでなければダメだったのかな」
「…………」
「いつ死んでしまうか解らないそんな絶望と隣り合わせで、私たちは戦い続けている。でも時折思うわ。どうして私たちだったんだろうって。私たちが戦って目的を達成させたとして、ノヴァは本当に消えるのかもわからない」
真那にしては弱気な発言だった。
自分に与えられた任務には疑問など抱かない。平和のために努力を惜しまない。そんな少女であったはずの真那の心が今は揺れている。
「戦い続けることに意味って必要なのか」
「…………」
「抗うために戦っているんわけじゃない。生存するために戦っている。確かに死んでしまうかもしれない。その役目が俺たちに与えられたのは、確かに俺たちからしたら理不尽極まりないな。だが今俺たちは生きてる」
「今……?」
どこか不安げな瞳のまま真那は時雨を見返してくる。
「今俺たちは戦って、そして確かに目標に近づいてきている。いつかは死ぬ。だが先読みのしすぎなんて意味のないことはやめた方がいい。未来はずっと先だ。今日も俺たちは生き残った。それが大事なことなんじゃないか?」
「支離滅裂ですね」
「自覚はしているさ」
「ですが、確かに時雨様の発言は的を射ています。行動しなければ何も変わらない。嘆いて泣き言を言っても、状況は変わらないのです」
「……私たちは生きてる」
その言葉を噛みしめるように真那は復唱する。
「そうね……時雨の言うとおりだわ。でも私たちがそういう環境に足を踏み入れてしまったことに、原因はあると思うのよ」
「原因?」
「ええ。私たちは救済自衛寮の人間だった。時雨は孤児で私は院長の娘だったけれど。それだけで防衛省に関わってしまう原因としては十分かもしれない。でも私の記憶には欠落があるの」
「それは俺に関する記憶か?」
「それもあるけれどそれだけじゃない。私が防衛省に入るきっかけとなった時の記憶……それが私にはないから」
「なんだと?」
その話は初耳だった。防衛省に入った時の記憶がないだと? それではまるで時雨と同じではないか。
「何も覚えてないのか?」
「ええ。気が付いたら、防衛省ナノゲノミクス——科学開発班に所属していたから」
「
「山本一成が補佐のな」
そして今佐伯・j・ロバートソンが局長を務めているナノテク開発に携わる部門だ。
きな臭い。何か見落としていることがあるような気がする。
「記憶の欠落の具体的な時期は?」
「明確ではないけれど、2052年の年末から翌年の年始にかけて。一か月くらいの記憶がないわ」
「……同じだ」
「時雨様が記憶を失っていた時期に一致しますね。これはいよいよ胡散臭くなってきました」
「それだけじゃない。確か、真那の父親が亡くなった時期は2053年だったな」
「ええ。死亡推定日時は一月下旬あたりだったわ」
以前真那に聞かされた彼女の父親の話。救済自衛寮の院長であった聖玄真は、二年前の三月上旬遺体になって発見されたという。
「それも時期が重なる。事件の証拠がないということで捜査を取りやめられたわけだが、殺人の可能性が強いんだよな」
「ええ。毒性薬物の摂取が死因だったから。私がレジスタンスに所属したのもその事実を究明するためだったわ」
「聖玄真の殺害の時期が、時雨様と真那様の記憶が失われている期間に、だいたい一致している事実。ここから推測するに、真那様と時雨様の記憶の欠落には第三者の手が介入している可能性がありますね」
「俺たちの記憶に? どういうことだ?」
「つまり聖玄真の殺害を試みた加害者が、何らかの理由で時雨様と真那様の記憶を改ざんした。可能性としては、聖玄真の殺害現場に居合わせたからなどでしょうか」
「だが真那の父親が殺されたのは一月下旬だ。どうしてそれ以前の記憶を抹消する?」
「さあ?」
根拠はないらしい。
「そもそも記憶を人為的に操作することなんて、可能なの?」
「脳科学的に言えば不可能ではないでしょう。記憶に関係する海馬を酷いショック体験をさせることで縮小させれば、記憶を消せるかもしれませんし。とあるベトナム帰還兵の脳から臨床した不確実な情報ですが」
嫌な予感がする。とてつもなく嫌な予感だ。
「もしくは、インヴァースな可能性もあり得ます」
「インヴァース?」
「逆の意味ということですよ。聖玄真の殺害に居合わせた時雨様たちの記憶を抹消されたのではなく。時雨様たちの記憶の末梢に居合わせた聖玄真が、口封じで殺害された……時期的には、聖玄真の死が記憶のない間の後であることから、あっているかと」
確かに有力な説かも知れない。しかし殺害してまで口封じさせる理由はなんなのか。聖玄真が知ってしまった時雨たちの失われた記憶とは何なのか。
「確かめる手段は、無いのか?」
「手っ取り早い方法は、記憶を奪い聖玄真を殺害した人物を尋問することです。同一犯である根拠はないですが」
「その人物が解らないわけだ」
「……救済自衛寮になら何か情報があるんじゃないかしら」
真那の閃き。確かに状況から鑑みて、この一連の事件には救済自衛寮が大きくからんでいる気がする。
「だが真那、確か救済自衛寮は廃止になってるんじゃなかったか」
「ええ。お父さんの死亡が発覚した時点で潰れてしまったわ」
「当時入所していた孤児たちはどうなったのですか?」
「
おそらくはそうだろう。もとよりまともなことをしていなかった救済自衛寮だ。廃止になったとしても、そこで養成された孤児たちを野放しにする理由はない。
救済自衛寮の実態を
「危険な外来種の種を咥えた鳥を、外に放つわけはないですね」
「手がかりはなしか……」
藁の中から針を一本探り当てるような状況だ。冷静になれば、おのずと答えが見つかるような気もする。
「救済自衛寮に行ってみてはいかがですか?」
「廃止されているんだろ」
「廃止されていても、何も手がかりがないと決めつけるのはよくありません」
真那と目を見合わせる。彼女はどこか戸惑うように見返してきた。
心のどこかで何かを恐れているかのように。記憶の奥底に閉ざされた何かを解明することに底なしの恐怖を抱いているように。
「時雨……ネイの言うとおりかも」
「確かに何かあるかもな」
「私は記憶にないけれど、私と時雨の始まりがそこなら私もそれを実感したい。実際に時雨と一緒に行けば、何かを思い出せるかもしれない」
「……無理に思い出さなくてもいい」
「時雨は私に今のままでいて欲しいと言ってくれたわ。そう言ってくれるのは嬉しかった。でも自分の欠落した部分を失ったままにしておくのは気分が悪いわ」
確かな覚悟を瞳に携えて。真那は時雨の目をその視線を以って射ぬいていた。
「……原点回帰か」
何が起きるかはわからない。何も起きないかもしれない。
だが立ち止まっていても状況は何も変わらないのだ。
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