第83話
またこの場所に来てしまった。
目の前には分厚いガラスの壁が聳えている。自分からその向こう側の空間を遮断するかのように。
無数に陳列している物は培養液然としたもので満たされている培養槽だ。紲はそれらの中で、いちばん近い位置に鎮座している物に意識を注ぐ。
見慣れた細身の少年の姿。半身が鈍色に変色し右肩から先には何もない。
「智也……」
ガラスに指先を重ね静かに弟の姿を見つめる。
文化祭以前に訪れた時はまだ右肩口までは存在していたのに。今はもう右鎖骨あたりまで崩壊現象が進行している。
ノヴァウィルスの感染による体内浸食。明らかに普通とは思えない慢性的なその崩壊現象に苛まされる智也。一見して生ける屍、としか言い表せないような凄惨な様子に見えた。
智也が発症し感染者になってしまってから、ちょうど今日で一か月だ。当然彼は目を覚ますことはなかった。これまでも、そしてきっとこれからも。
「ねえ、どうしてこうなったんだろうね……智也」
どれだけ語りかけてもこの声が彼に届くことはない。それでも紲は冷たいガラスから指先を離せない。
今自分が意識の拠り所にできるモノはもはや智也だけだったから。その智也もおそらく余命はそう長くない。
「意識も何も奪われて植物人間みたいになっちゃって……ひどいよ、どうして智也がこんな目に」
原因は判明している。あれだけマスメディアで報道されていればどんな環境にいたとしても知るよしとなる。
ノヴァウィルスをレジスタンスが人為的に用いているという。災害的に突如地球上に出現したノヴァ。それをどう用いているのかは想像できる範疇を越えていたが。
これだけノヴァの関わる事件にレジスタンスが関わってきた事実を鑑みれば。すべての諸悪の根源がレジスタンスであることは明白だった。
だからこそ紲は彼らを恨み憎んできた。これからなすすべなく死にゆく智也。結果的に智也の命を奪うのは彼らだ。それに加え自分から父親すら奪い、紲は事実上孤独になった。
それでもなんとか精神を保ててきたのは、紲が築いてきた環境が存在してきたからだ。学院の友人や織寧重工嫡女という肩書気ゆえの接点であったが、理事であるシエナとも親近的に接することができていた。
そしてレジスタンスに、自分の大切な人たちの命を奪った者たちに復讐をしようとしていた時雨。紲は彼に全面的な信頼と期待を寄せてきた。彼に疎ましがられてもおかしくないほどに。
何も疑わず自分たちが防衛省の人間であるとそう言った彼の言葉を信じて。
「だけど……もう全部なくなっちゃったよ、智也」
それなのにその心の拠り所もあっけなく剥奪されてしまった。時雨自身の手によって。
「ああそうだよ。智也くんを死に追いやったのは……俺たちだ」
「それだけじゃない。織寧社長を死なせてしまったのも紲をこんな状況にまで追い込んだのも……全部俺たちだ」
彼の言葉が脳内に反芻する。彼の口から事実を告げられ、ようやく自分がどれだけ彼らに固執していたのかを理解した。
それはすべてを理解してしまった今であっても、彼らを信じようと心が揺らいでしまいそうなほどに。
「理由や過程なんて関係ない。智也くんと織寧社長を死なせてしまったのは、俺たちレジスタンスだ。何も偽りなんかじゃない」
意味のない無駄なことだとわかっていても彼の言葉は止まない。それはある種の呪縛のように紲の頭の中にべっとりとこびりついていた。
彼の言葉を思い返すたびに心臓をかきむしられるような感情が噴出してくる。
「でもね智也、私はそんな烏川くんのことで、ここまで悩んでいるんじゃないの」
彼の言葉は確かに紲の崩壊しかけていた精神にとどめを刺したが、何より今の紲の心をむしばんでいる物は全くその事実とは別種なのである。
紲が真に悩まされていること心を掻き毟られる事実は、それではないのだ。
「でも……そんなこと、言ってられないよね」
紲は様々な感情を無理やり押し殺して立ち上がる。自分がどう感じどう彼らに接しようと考えていても事実は消えることがない。
「もう、どうしようもないんだもん」
裏切られた事実は変わらない。
「私から全部奪っていったのは、だって烏川くんたちなんだよ」
紲は自分に言い聞かせるようにガラスに重ねた手をきつく握りしめた。
何をするかなんて決めていないけれど。もはや頼ることことができる相手がいなくなってしまった以上、動けるのは自分だけなのだ。
それならば自分がやらなければなにも始まらない。
「待っててね、智也……私がすべて終わらせるから」
まともな心理状況でないのは自覚している。理性なんて、すでに消え去っていることも。
それでもいいと思った。もう失うものなんてないから。もうこの衝動に身を任せて、何もかもこの手で白紙に戻してしまってもいいではないか。
「きゃっ……!?」
静寂に満ちていた隔離病棟に、耐えられないほどの衝撃が襲い来た。足場が激しく振動し紲は立っていることもままならずその場に倒れこむ。
最大級の震動。天井の一部が陥落し瓦礫が床に雷雨のように降り注ぐ。
その瓦礫の雪崩の中、誰かが施設内部に転がり飛ばされてきた。
「ぐぁ……ッ!」
「烏川くん……ッ!?」
その姿は紛れもない烏川時雨本人。彼は雪崩れる瓦礫に追い打ちをかけられるように、全身を殴打しながら通路を突き飛ばされてくる。
そうして紲から数メートルほど離れた場所でガラスに叩き付けられた。
「クソ……っ、がはっ……!」
全身ボロボロになりながら立ち上がった彼はその場に再び鎮み込んだ。陥落した地点から吹き飛んできた瓦礫に胸部を叩き付けられたのである。
血反吐を撒き散らす彼の背後、亀裂の走ったガラスにはべっとりと赤い模様が浮き上がっていた。
「だ、大丈夫っ? 烏川――――きゃっ!?」
先ほどまでの彼に対する怒りなど消し飛び彼のもとへと駆け寄ろうとした紲。
だがその時雨に無数の何かが襲いかかる。弾丸だ。弾雨が彼めがけて降り注ぐ。雨となって降りかかってくる無数の鉛玉を時雨は間一髪で回避した。
弾丸が際限なくめり込んだ分厚いガラスが、耳を覆いたくなるような衝撃音とともにはじけ飛ぶ。
「ネイッ! すぐに――――がッ!」
いくつものガラスの破片が吹き散らされる中、床に着地した時雨に何かが襲いかかった。
巨大な金属のマシン――――A.A.だ。武装を展開させたA.A.が時雨の全身を殴打する。装甲車両すらも叩き潰す破壊力のアームで突き飛ばす。
時雨は鮮血をまき散らしながら、割れたガラスの向こう側へと吹き飛ばされていった。
◇
無数のガラス片とともに、風に吹かれた枯れ葉のように吹き飛ばされた。全身からの出血が激しく即座に対処できなかったのである。
吹き抜けになった無菌隔離室に突っ込み、そのまま二階層分の高さから落下した。派手に全身を殴打しながら冷たい床を転がり跳ねる。全身の節々が悲鳴を上げていた。
「時雨様、急いで止血を、そのままでは出血多量になりかねません」
「止血といっても、」
「バカですか、リジェネレート・ドラッグがあるでしょう」
培養槽に叩き付けられ動きを止めた時雨は、ネイに指示されるがままインジェクターを取り出した。
首筋に突き立て注入する。全身に冷たい液体が流れ込んでくる気持ち悪さとともに、激痛がわずかに引いたのがわかる。
「心拍、血行ともに安定してきています……が、それよりも早く隠れてください」
はっとして視線を上げる。先ほど突き飛ばされた一階層分上階の割れたガラス。そこから聳えるほどに巨大なマシンが降下する。ここまで追い込んできたA.A.である。
「クソ、しつこいやつだ」
立ち上がり先ほど衝突した培養槽の影に身を潜める。
すでに全身の怪我の止血はなされた。それでも体が崩れてしまいそうな疲労感は消えない。
逸る鼓動を無理やり抑え込みながらゆっくりと息をつく。
「時雨様、無理にでも落ち着いてください。心拍の異常数値で位置を特定されてしまいます」
「無茶言うなよ……くそ」
アナライザーを抜銃し空になったシリンダーから薬莢を排出する。スピードローダーを装填してアナライザーを上腕に構えた。
「ネイ、この場所はどれくらいで特定される?」
「A.A.は基本遠隔操作ではなく、人工知能によって行動を制御されています。現状プログラムされているコマンドはデルタモード。観測されている中で最も索敵に特化したモードですね」
具体的な詳細がないことにはこの状況の打破には繋がらない。
説明を急かす視線を感じてかネイはそのまま矢継ぎ早に解説を継ぐ。
「赤外線レーダーを投射し一定範囲内の対象物をスキャンします。またサーモグラフィを用いているので視覚内に熱源反応を観測できます。重ねて、ノヴァ対策としてナノマシンを認識する機能もありますね。体内にナノマシン抗体因子を取り込んでいる時雨様は、その点でも丸見えなわけです」
「どこかに隠れても意味がないということか」
「サーモグラフィの前では……ああ、なくはないですね」
否定しようとしてしかしネイは言い淀んだ。
「A.A.の装甲なら熱伝導が生じないので、サーモグラフィ対策にもなりますね」
「どういうことだ?」
「A.A.は、グラナニウムという絶縁金属で作られていますので。サーモグラフィでは透視できません。基本的にA.A.は無人機ですが人が搭乗して扱うこともできます。その際、サーモグラフィモードでA.A.同士が対面した時、誤射してしまうのを防ぐためですね」
なるほど。
「ついでに、セキュリティレーザーによる透視も阻みます。つまり、あそこにいるA.A.の内側になら隠れられます」
「内側? いや無理だろ」
「はい、無理ですね。あくまでも可能性の話です」
隠れていても無駄ということか。
「いえ一概にはそうとも言い切れません。不幸中の幸いといったところでしょうか……ここは隔離医療施設ですので」
その言葉の意味を測りかね眉根を寄せる。周囲を見渡すことによって真意をつかむことができた。
「ここには、時雨様以外にも、A.A.の観測を阻害する熱源反応がいくつも存在していますからね」
「感染者、か」
培養槽の内部に収められている人間たち。それらはすべてナノマシンに感染した者たちだ。
彼らは全身をナノマシンに浸食され発症している。崩壊現象によって部位欠損などを起こしてはいるが、あくまでも生ある人間なのだ。時雨と同じで体温も保たれている。
「さらに、発症の条件は体内にナノマシンが取り込まれていること。時雨様と条件が同じなわけです。これはA.A.に対するこの上ない目くらまし効果だと言えるでしょう」
「生きてる人間を保険に使うのは忍びないが……そんなこと言っていられる状況じゃないしな」
アナライザーのシリンダーに装填されているマイクロ特殊弾は二発のみ。持ち合わせの弾丸はすでにこれしかないのである。
「まさか、あそこまでレッドシェルターの防衛網が過密だとは想像できなかったしな」
結果から言って潜入作戦は失敗に終わった。それも高周波レーザーウォールにたどり着く以前に。A.A.の壁を突破することすらできず立ち往生を食らったのだ。
「まさかあそこまでオートの対人戦性能が優れているとは思っていませんでした。新型兵器まで搭載していたとは」
「これまではA.A.の後ろから高周波レーザーウォールの内側から見る側だったからな……実際に防衛省の敷いている軍事力を目の当たりにされたわけだ」
「せめてユニティ・ディスターバーさえ使える環境にあれば……」
たしかにあれがあればユニティ・コアを動力源に用いているA.A.は無力化できる。
しかしあの万能ツールはレジスタンスの最重要格納庫に厳重に保管されているのだ。あれを持ち出してくる余裕などはなかった。
「マイクロ特殊弾も無駄使いしてしまいましたしね」
「こんなところで時間食ってる猶予もない」
ビジュアライザーで時刻を確認する。すでに七時を回りタイムリミットは残り三時間にまで差し迫っていた。
それまでに潜入できなければ唯奈が殺されてしまうというのに。
「このままでは埒があきませんしね……とはいえ、ここから出れば蜂の巣です。死なずにこの施設にまで逃げてこられたのも奇跡に等しいでしょう」
「おまけに、人工じゃない知能まで来た」
目視では確認していないが人の声が聞こえる。時雨を探すように指示しているのを聞いても複数人はいるだろう。
半数ほどが自衛隊局員、もう半分ほどはU.I.F.の兵士である。
この感染者たちという目くらましの中、A.A.だけであったならば対処のしようもあったものだが……局員まで参戦されては更に動きづらくなってしまった。
「どうすればいい」
「ここから出ては袋叩き。とはいえここに隠れていてもいずれ炙り出されることでしょう」
退路がない以上、U.I.F.を始めとした敵勢力をどうにかしないといけない。どうしたものか。
「幸い、今敵部隊は目視による探索をせざるを得ない状態にいます。感染者とはいえ民間人がいるこの場所で、大規模な破壊工作もできないでしょう。その状況だけが時雨様に残された退路といえるでしょうね」
培養槽の影から局員たちの様子をうかがう。いずれ炙り出されるとしても僅かな時間的猶予はあるわけだ。このすきに何か打開策を見出さなければいけない。
「彼らは一体、何を……」
「どうした?」
「いえあれは……ッ!? まさかっ」
驚嘆に見開かれたネイの双眸。その見据える先に意識を送ろうとしたとき、隔離エリア内部に鋭い銃声が響いた。
薄暗い室内にはじけるマズルフラッシュ。一瞬遅れて炸裂した破砕音。ガラスが盛大に割られそして何やら電子回路がショートしたようなノイズ音。
視界の中には信じられない光景が浮かんでいた。離れた位置にある培養槽のうちの一つ、それに向けられたサブマシンガンの銃口。
「撃ちやがった……!」
培養槽には穴が穿たれ弾丸はその内部に収まっていた人間に着弾していた。
半身が鈍色に変色していた男性の左胸部に弾痕。間を空くことなくそこから血潮が噴出した。
「これは想定外の事態ですね。まさか感染者の殺害すら厭わないとは」
「なんてことを……人道も何もないのか」
戦慄が走った。防衛省はそこまでして時雨のことを殺害しようとしているのか?
たかが蜂起軍一人の殲滅のために。連中は罪なき、それも自らが巻き込み感染させた者たちから命すら奪おうというのか。
「この者たちは感染者だ。ノヴァウィルスを体内に取り込んだ化け物たちだ。もはや人間であることすら捨てた、な。躊躇することはない。どうせ先行き長くない命だ。ノヴァの殲滅のためにもすべて殺して構わん」
「クソ野郎が……」
司令塔と思しき男の指示。感染者たちを感染者にさせたのは防衛省の陰謀であるというのに。この者たちは更に罪を重ねるというのか。
「まずいですね。すべての感染者を殺戮されては、熱源反応による目くらましも効かなくなります」
「もうそんな話じゃないだろ。感染者たちが殺されるんだぞ」
「心中お察ししますが、とはいえ私にとって最も優先度の高い命は時雨様の命です。他の誰の物でもない時雨様の」
「そんなこと言っても」
言いよどみ飛び出しかけていた足もすくむ。その隙を狙ったように躊躇のない殺戮が始まった。
やまない銃声。それによって粉砕されていく培養槽。次々と感染者たちの命が奪われていく。瞬く間に培養槽の大半が破壊され隔離エリアは鮮血に染まった。
U.I.F.に留まらず、局員にすぎない者たちもまた何の躊躇すら見せずに殺戮に興じている。到底まともな精神ではできようはずもない。
「くそ……っ、耐えられるわけがない」
「堪えてください。感染者たちの命を奪っているのは時雨様ではありません。局員たちです。それに時雨様が飛び出したところで状況が好転するとも思えませんしね」
「そんなことを言ったとして、何もしないで見ているなんて無理に決まってるだろ」
それでもここから飛び出す勇気がなかった。
時雨がこの場所に来てしまったせいで感染者たちの罪なき命が奪われている。ここに隠れているせいでその犠牲は増え続けている。
それなのに飛び出すことができない。その選択は自らの死に直結していることを理解していたから。あの数の局員、そしてA.A.に対面して生還できるとは到底思えない。自分の情けなさに虫唾が走った。
唯奈を助けるためならばリスクなんて厭わない。そんなことを豪語しておきながら実際に死の間際に直面し足が竦んでしまったのだ。
でも仕方ないだろう。ここから飛び出したって何も変わらないのだから。
「それでいいんですよ時雨様」
「…………」
「自己犠牲を演じる必要などないのです。時には、臆病な方がいい時もあるのです。臆病であることは恥ではないのですよ」
ネイの言葉を耳に挟みながらU.I.F.たちの殺戮をただ傍観していることしかできない。
やがて培養槽の半分ほどが破壊された時点で、U.I.F.の一人が近寄っていく培養槽に不意に気を取られた。
「あの培養槽、確か……」
脳髄をゆすぶられるような感覚。あの培養槽は確か紲の弟の物だ。
そうだ、ここには織寧智也の培養槽もあるのだ。紲に残された唯一の肉親。
「智也くんが、あそこに……」
このままでは彼も殺害されてしまう。紲は彼を本当の意味で失ってしまったらどうなってしまうのだろう。考えるだけでも胸の中がざわついてやまない。
時雨が原因で今度は真に智也を殺してしまったのならば……、
「駄目だ、殺させられない」
「……考えていることはわかります。ですがだめです。諦めてください」
「諦めるなんて無理に決まってるだろ」
「どうしてですか?」
紲の弟だからだ。
「時雨様、申し上げますが、いまさら何を正義感ぶっているのですか?」
「ッ」
「事実上、時雨様の行動によって、これまで沢山の命が奪われてきました。無数の命が時雨様の選択によってです。それはレジスタンスに所属する時点で分かっていたことです。犠牲を出すこと、自らの選択いかんで無実の民の命が奪われることに対する覚悟はできていたはずです。時雨様はもはや一個人ではない。レジスタンスとして人民を等しく守る立場にいるのです……それだのに時雨様は、なぜその命の重さに大小をつけ選り好みしているのですか?」
いつも通りの声音で。だけれどもそれに何も返せない。ネイのその言葉にはモノを言わせぬ迫力があったのだ。
「時雨様は生きなければならないのです。それは時雨様自身のためではありません。人民のために、リミテッドのために。その安寧のために。時雨様はこんな場所で死ぬわけにはいきません。そうではありませんか?」
「そうだが……」
彼女の言葉、それに感化されたわけではない。それでももはやここから飛び出す覚悟を失っていた。
そうなのかもしれない。無数の命を奪ってきた時雨には、もはや他の誰かからの自分に対する印象など意識する権利すらないのだ。
紲にどれほど恨まれようと自業自得だ。彼女のことを裏切り続けた事実は変わらない。ましてや赦してもらおうと考えるだなんて。
人に恨まれる生き方を自分の意志で選択したのだ。目的の完遂のために。リミテッドを防衛省の手から解放するために。
それまではこんな場所で死ぬわけにはいかなかったのだ。
「それはあくまでも、かませ犬の考え方ですけれど」
またお前はそうやって焚き付けるのか。
「そんなのは甘えですよね。自らの目的完遂のためならば犠牲など厭わない? そんなのただの逃げです」
「…………」
「命の選り好み? 別にしたっていいじゃないですか。命の重さ? そんなの当然あるに決まっています。人の命に大小はない。それは事実ですが、ただし個々人にとっての価値観はそれぞれ違います。大切な人物のその大切な人物。それを助けたいと考えて何がいけないのですか」
先ほどまでの発言とは全くの矛盾を孕んだ怒涛のような強襲。
「まあですが、逃げてもいいと思います。何と言っても時雨様はかませ犬ですから」
「……ネイ、お前結構えげつない性格してるよな」
「私は超ハイテク人工知能ですので。所有者の要望に応じいくらでも性格なんて変えられます。時雨様の場合は、まあ罵倒されたりいじめられたりするのが好きなようですので、この性格になっているだけですよ。鉄は叩けば叩くほど強くなるといいますし。時雨様は苛められれば苛められるだけ強くなる」
「人のことをマゾフィストみたいに言うんじゃない……はぁ」
豹変したネイの様子に肩の荷が下りたような気分だった。まったく本当にこの人工知能には調子を狂わされる。
「前も言ったな、ネイ」
「なんでしょうか」
「かませ犬でもいい。どれだけ噛まれようと噛み返し抗うことが出来る」
「ドMの反抗期ですね、何と恐ろしい」
「いろいろ吹っ切れた、ビビっているのがアホらしい」
「ふふっ……私は肝っ玉の小さい時雨様も、それはそれで好きですよ」
アナライザーを構え深呼吸をする。ネイの言うとおりである。使命なんて関係ない。これ以上紲を悲しませたくないのだ。
彼女にはつらい環境を強い続けてきた。嘘をつき騙し利用してきた。
ここで織寧智也を助けたとして紲が許してくれるだなんて思っているわけではない。
それでも出来ることはやりたいのだ。彼女のために。これ以上紲を傷つけないために。
「インターフィア」
「準備は完了しています」
三つ空いているシリンダーに通常弾を装填した。
「よし、行くぞ……3、2、1」
「突撃開始」
その場から飛び出した。織寧智也の培養槽。その前でサブマシンガンをリロードしていたU.I.F.に猛攻を仕掛けた。
気づかれていない。このタイミングならばまだ間に合う――――!
「ぁッ!?」
「な……!?」
突然目の前に少女が飛び出してくる。全力で駈け出していたため勢いを緩めることができない。
「からすが、きゃっ!」
「紲……ッ!?」
彼女が紲であることに気が付いたころには遅く、彼女を跳ね飛ばしていた。同時に自身も足を掬われその場に派手に横転する。
おそらくは、弟の命が奪われそうになっていたため飛び出してきたのだろう。このイレギュラーな状況は想定していなかった。
「目標を発見!」
「掃討開始」
「伏せてろッ!」
上体を起こそうとしていた紲を抑え込んで反射的にアナライザーのトリガーを振り絞る。幸か不幸か、吐き出された通常弾は智也の培養槽の前でこちらに銃口を向けていたU.I.F.に着弾した。
ヘルメットを貫通することはなかったが、マグナム弾直撃によるインパクトでU.I.F.はその場に背中から横転する。この距離からの着弾だ。意識はない。
「目標を観測した! 逃すな!」
「きゃッ!?」
立ち上がりかけていた紲を前方に突き飛ばす。そうして自分はU.I.F.たちに応戦しようとグレネードを掴みとる。
「時雨様、後ろです!」
「っ、が……ッ!」
回避が間に合わない。急接近してきていたA.A.の鉄骨のようなアームで再び叩き飛ばされた。
反射的にセイフティピンを抜いていたフラッシュバンが手のひらから吹き飛んでいく。ぶっ飛ばされながら視界が真っ白にクラッシュした。
全身の筋肉や骨が引きちぎられるような激痛。肋骨が肺に突き刺さる感覚に苛まされながら、紲のそばにあった培養槽に叩き付けられる。背中から衝突しガラスが割れ弾けた。
「烏川くん!? 大丈夫!?」
破片が体内に深く突き刺さっているのが解る。止血したばかりであるのに、再び急激に大量の血液があふれ出し始めていた。
「まずいです……本当に出血死してしまいます」
立ち上がろうとして思わずその場にくずおれた。血が足りず意識が朦朧とし始めていたのだ。すでに痛覚すらほとんど失われている。
「しっかりして! 烏川くん!」
視界の中で紲が目の前に屈んでいるのが解った。すぐに肩を担がれ引きずられていく。そうして培養槽の反対側に身を潜めた。
「烏川くん! 烏川くん!」
紲の呼びかけに応じることができない。揺すぶられているのだろうが、それが悪影響してさらに視界は赤く滲んでいく。
「フラッシュバンの範囲内に奴はいるはずだ! 探せ!」
「索敵開始」
U.I.F.たちが時雨を探しているのが解る。どうやらさっきの閃光弾で位置を見失わせることに成功はしていたようだ。
とはいえ最悪の状況は変わらない。とにかくこのままでは万事休すだ。
「時雨様、早くリジェネレート・ドラッグを」
「っ……」
言うことを効かない手を持ち上げインジェクターを引っ張り出した。それを首筋に突き立てようとするものの手の中から落下する。すでに指から感覚が失せていた。
まずい、このままでは本当に死んでしまう。
「どうして……どうして止まらないの……っ?」
時雨の腹部に開いた傷跡。血液がとめどなく噴出するその患部を紲が必死に抑え込んでいた。
自身の手がどす赤い色に汚れていくことに一切の躊躇すら見せず、彼女は必死に止血を試みる。止血などできようはずもないのに。
時雨の傷を治せるのはリジェネレート・ドラッグだけなのだ。
「っ、……ッ!?」
それを伝えようとして声が出ないことに気が付いた。声帯が潰されている。血反吐だけが撒き散らされた。
「紲様っ! そこにあるインジェクターを時雨様の首に突き刺してくださいっ」
「どうして、どうして止まらないのっ! おねがい止まってよっ!」
「ああ、もうッ!」
無理だ。紲にはネイの姿を見ることも声を聞くこともできない。
「最悪です、本当にこんな場所で死ぬ気ですかッ」
焦ったようなネイの声。普段罵声ばかりの彼女だが命くらいは案じてくれるのか。それももはや意味をなさない。この状況では生還は不可能だった。
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