A/E; アウターオプス
CitruS
序章
プロローグ
「う、ぇ……」
黒という概念。そこに墨汁を垂らしたかの様な色に少年の視界は塞がれていた。それはゆらゆらと波の様に揺らめき、空を這って進み周囲を呑み込んで行く。
津波ほどの破砕力も業火のような燃焼力も持たない。一切の破壊力を持たぬ闇は、触れたもの全てを飲み込み変質させ無に帰す。
平地であったはずの空間にはすでに足場という概念すら存在していなかった。
少年の視界を舐めるそれは、凄惨とも奇々怪々ともあるいは荘厳とも取れる言うなれば『曖昧』な光景。
少年にとってその光景は恐怖を憶えさせる以外の何物でもない。ただ無意識的にその場に伏せ、可能な限り地に身を低く構える。
無機物とも有機物とも説明のつかない、ただ明らかに生物ではない得体の知れない存在から身を隠そうとしていた。
目の前には蓮の花を模した、しかしどこまでも無機質的な銀色の帯状の物体が浮遊している。液体なのか個体なのかも不明確な存在だ。
全身の痛みに耐え抜きながらただ足場のない空間を移動する。
どうやって自身が進んでいるのか。そもそも肉体が存在しているのか。それすら解らない。少年は闇雲に進み続ける。ひたすらに漆黒に染まる暗闇の中で銀のそれは一筋の光芒のようにも思えたのである。
漆黒の濁流に呑まれそれでも蓮は朽ちることを知らない。
すぐ隣には、機体をひしゃげさせた二脚のヒトガタ戦車が浮遊している。頭部装甲は陥没し、そこからあたかも出血しているかのように無尽蔵な燃料が溢れだしている。
欠損した四肢装甲の欠落部から火の手が上がっているようにも思えた。炎上しては濁流に飲み込まれ、炎もガソリン特有の不快臭すら分散して消えた。
「うっ……しぐ、れ……?」
今にも消え入りそうなかすれた声。少女の声だ。
「……っ、!?」
聞き慣れた少女のかすれ声に少年は思わず大声を出して駆け寄ろうとした。
だが自身の声は喉から放たれず、代わりに血潮が喉の奥から吐き出された。そして彼女がどこにいるのかすら解らない。
視界に映るものは、変わらぬ
「しぐれ……生き、てる?」
視覚も嗅覚も触覚も。聴覚以外の五感は一切少女の存在を認知しようとしない。少年はなぜか感覚的に確信していた。確かに少女は近くにいる。
彼はがむしゃらに上半身を持ち上げ、全身に走り抜けた激痛に顔面から倒れ伏す。地はない。だがべっとりとした熱い感触が額に触れた。
額を濡らす生ぬるいそれを手のひらで拭い、そこでようやく肉体がきちんと存在していることを知覚したが、少年はその事実すら意に介せぬほどに狼狽する。
戦慄が胸の奥で蠕動する。指先から手のひらにまでベッタリと付着したそれは赤い。
これは俺の血潮だ。今額を打ち付け切れたのだ。少年はそう思い込もうとしたが額に新たな痛覚が生まれてはいない。
悪寒が心臓を直に指でなぞるような寒気が額から頬を流れ落ちる。
「大丈夫、なの、か?」
焼けるように痛む喉に鞭打って、少年は足場もなく空に転がったまま視線を動かして彼女を探す。やはり誰の姿も視認できない。
返事はないが確かにいる。何かに導かれるように少年はひたすらに肉体を動かし手探りで少女を探す。
やがて指先がしっとりと湿った絹のような感触の何かに触れる頃には、少女の血のにじんだ頬が視界に収まっていた。
触れた感触は血濡れた長い髪。元の
少年の目を射抜く大きな双眸からは光が失われてはいない。紫がかったその瞳にはその本意を読み取れぬ感情が渦を巻いていた。
「よかった…お互い、五体満足だね」
「血反吐はいて、よく言えるな」
唇から一筋の赤い汁を垂らしながら、少女は横たわる少年の頬に手のひらを重ねる。触った感触はざらついていた。互いの肉体が少しずつ崩壊し始めているのだ。
「嘘……まさか、そうなの?」
何かに気が付いたように少女は大きく目を見開く。そして唇をわなわなと震わせ
「まさか、時雨、あなただったなんて」
少年を少女は覆いかぶさる形で抱きしめる。上半身を抱きすくめられ、少年は少女の早鐘のように脈を打つ鼓動を感じていた。それと共に小刻みな震えも。
「こんなの、絶対、許さない……っ」
吐き出された言葉は、到底この少女の口から出たものとは思えない怒気を孕んだ物で。だがそれと同時に酷く哀愁に満ちていた。
彼女が何を考えているのは解らなかったが、それでも少年はその悲哀を見過ごせない。
「色々、抱えてたんだな」
「もう、どうしようもないの。ここに閉ざされちゃったら、きっともう、どうしようも……」
少女の声は徐々に震え始めていた。現実を噛み締めることを恐れ、それは無慈悲に彼女の目の前に突きつけられて。
「安心しろ。俺がいる」
「何も解ってないくせに……強がらなくて、いいの」
少年の目は更に霞み始めていたが、至近距離で少女が優しくはにかむのは解った。
それを耳にして熱い感触が目頭に染み渡る。命、そして感情の熱。新しい熱が少年の頬に弾ける。少女の感情だ。
「私のこと、助けて」
「言われるまでもない。こんな場所、直ぐに抜け出して」
「ううん、今回じゃ、ないの」
「何――?」
「今回は、私が時雨を助ける。私の全て、あなたに、託す」
「だから、何言って」
少年の全身の神経が、悪寒が逆撫でられるような感覚。
「どんな形で再会できるかは解らないけど、でも、どんな私でも、私だから。次あったとき、ちゃんと、私の名前、呼んで」
何か決意を決めたように。少年の目には見えた。
「私が、全部、終わらせるから」
少女が見据えているのは不気味に揺らめく蓮の花。それはあたかも少年たちを呑み込もうとせんばかりに、大きな花弁を広げていた。
業火の中で神々しく……どこか猟奇的に。そして少年は彼女の真意を知る。直感的に理解する。
少女は何かの代わりになろうとしている。
懐かしい香りが少年の鼻腔をくすぐっていた。向日葵の、そしてどこか冷たい試験薬の匂い。
遠い昔、こんなにも世界が廃れてしまう前の記憶。幸せだったといえる安寧の日々。
いや本当にそうか? 思い返せば、少年の人生にはこれまで一度として安寧なんて言葉は存在していなかった。
歩む道はすべてが策謀と計略に彩られた無機質な一本道。脇道にそれることもなく決められた路線の上を歩む。
この嫌味なほどに規則正しい『必然』に終わりはないのか。そんな疑問に答えるように、規則性はちょっとした弾みで瓦解する。
どんなに精巧に取り繕っていても虚実で塗り固めていても、いずれその虚が綻びとなる。
綻びは偶然にして必然的に生じた。
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