其の三

「くっ…ライトヒール!」


 その悪辣さからは考えられぬ柔らかな光がハルパスの左掌から放たれ、彼の右肩を包み込む。それは脱臼の痛みを淡雪のように溶かし、同時に不思議な力で二の腕を徐々に上方に押し上げ関節を再結合した。これぞ神と精霊の奇跡の御業、回復魔法である。ギリィに拘束された彼が、自らの肩関節を外して脱するなどという奇策を躊躇なく実行できたのも、こうやって後で楽に治療できる術を持っていたからに他ならない。しかし、こうやって無事怪我も完治したというのにも関わらず、ハルパスは憮然とした表情を浮かべていた。


「まさかお前ともあろう者が、娘っ子ひとりにしてやられるとはな。」


 その後ろからロヴィーゾが声をかけた。ここは上院議員である彼の大邸宅、その一室だ。国家公認魔導士という立場上、ハルパスはこの邸宅に客分として停泊している。転移魔法で退却するならここしかない。


「ええ、あのような子供にかような手練れの知り合いがいようとは。しかも明らかに堅気ではない、裏稼業の…」

「まあまあよかろう。機密保持とレシピ独占の為に肝心かなめのウィルは始末したのだ。他にも消さねばならんとは言った連中もおるが所詮下民、仮に騒いだ所でいかようにでもねじ伏せられる。焦ることもないわ。」


 ロヴィーゾは楽観的な態度を見せるが、ハルパスの表情は深刻だった。カーヤの背後にいるギリィを恐れたのではない。むしろその逆、屈辱にも似た感情、そしてそれへのリベンジを希求していたのだ。


 国家公認魔導士、それは即ち(非公認の者を除けば)この地で唯一魔導の力を振るえる存在である。厳しい試験の末公認の座を勝ち取った彼らは選ばれた存在を自負し、総じてプライドは高い。同時にその中には、手にした玩具を思い切り振り回したいと望む子供の如く、国家の定めた小事だけでなくもっと派手に使う機会を求める者も少なくは無い。


 そしてそういった希求が高まった者はたいていがこのハルパスのように、裏仕事に没入していくのだ。加えてタチの悪いことにプライドの高さゆえ、「同じく裏事に携わるにしても、国家から認められた自分が世の中のあぶれ者たつ他の連中に負けるはずが無い」と自分を棚に上げて同業を見下しがちである。そこにきてギリィに翻弄され無様に逃げ出さざるを得なかったのだ、その屈辱と憎悪は推して知るべしだろう。


「それはそうと今晩はクルテス殿に我が家まで出張料理をしてもらう予定だ。勿論デトックフィッシュも出す。毒アリと毒ナシの食べ比べ、このような贅沢が出来るのは私だけ…っと涎を垂らしている場合じゃない。つまりハルパス殿にも今晩は例によって相席願いたいのだ。だから今夜は家に居てくれぬか?」


 ロヴィーゾの言いつけが耳に入ったか入らぬかはわからないが、ハルパスにはそれに素直に従う気は無かったことだろう。雪辱はならぬともせめて消すと決めた標的、カーヤとミアンは今夜中に殺す。そう決心していた。


 ところで本日、ロヴィーゾはクルテスを家に呼ばず、「セイレーンの潮騒」に残るべきだったのかもしれない。何故なら清潔で高級な飲食店と大きいとはいえ一般邸宅では、どう考えても前者の方が鼠の入り込む余地が少なかったのだから―――






「なっ!?おぬしも聞いたじゃろ!?とんでもない奴らじゃぞ!!」

「いや、聞いたも何も俺にはチューチューとしか聞こえねえんだけどな…」


 食卓の上にちょこんと乗ったハツカネズミを前に、カーヤはギリィに熱っぽく話しかけた。ギリィのおかげでからがら逃れ家に帰ったカーヤは、息をつく間もなくイエネズミや野良の犬猫に襲撃者の居所を探させた。知った顔が目の前で殺されたどころか自分も危うく死にかけたのだ、報酬の餌代など構ってもいられない。転移魔法で飛んで行った先を、街中の野良を総出でしらみつぶしに探らせた。そして、ロヴィーゾの屋敷にてその悪巧みもろとも突き止めたのだった。カーヤが怒りで発奮するのも無理はない。


 尤も、動物と意思疎通できる能力はカーヤのユニークスキル。場の流れで付き合わされたギリィには、言葉もわからねば背後関係もわからない。当然のことながら、首をかしげるしかなかったのだが。




「なるほどな、そんなことがあったのか。で、俺にどうしろと?」

「いや言わずとも察せぬか?儂を護って連中を返り討ちにしてくれるのではないのか?」


 ようやく事情を理解したギリィの問いに、カーヤは事も無げに答えた。その回答に、ギリィは頭を抱える。


「例によってテメエで首突っ込んだ厄介事じゃねえか。何でそれの尻拭いしてやんなきゃなんねぇんだよ?」

「しかしな、前にも言っておったではないか。裏稼業同士が粉かけて来たなら迎え撃つのが道理じゃと。」

「つっても裏かどうかは微妙な連中だしなぁ。少なくとも俺の一存ではどうにも。神父様に聞いてみるこったな。」

「ぬう…」


 まんじりしない理屈を並べるカーヤだったが、「神父」の名を聞きとうとう言葉に詰まった。常に穏やか表情を崩さず底の見えない彼にカーヤは苦手意識を持っている。感情論で押し通そうにも、正論を優しい言葉で包み真綿の首絞めの如く追い詰めるのではそりゃ嫌にもなろう。さりとて自分の命は惜しい。今度はカーヤが頭を抱えることとなった。




「………その必要はない。今から教会に来て。」




 灯りと言えば蝋燭ひとつの暗い部屋に、微かながらも剃刀のような切れ味を持った声が響いた。ぞくり、と心の臓を射抜かれたかのような衝撃がカーヤを襲ったが、程なくして杞憂であることが分かる。声の主が知った顔だとわかったからだ。窓の外には、常に心の奥底に怜悧な殺意を仕舞い込んだシスターの姿が見えた。






「私ども夫婦は港の近くで飯屋を営んでおりました。小さいながらも活気に溢れ、貧しいながらも充足した日々。しかし腹に子を抱えたとなると呑気なことも言っていられない。夫は売り上げを伸ばすため新しい店のウリとなるメニューを求め、そしてそれは二人の協力者の助けもあって完成しました。新鮮なまま生き締めにした無毒のデトックフィッシュ、その美味しさには私も彼と同じく新たな富を生むことを期待したものです。


『じゃあ、良い知らせを持って帰るから。』それが昼に出かけた夫の最期の言葉でした。新しい調理法の認可をロヴィーゾ上院議員様に貰いに『セイレーンの潮騒』まで出て行った夫、遅くても夕方には帰る筈。しかし待てども待てども帰ってこない。心配になり店の前をうろついていると、店のほうから何かが投げ込まれる音がしました。それは夫に協力してくれた漁師のグレッグさんからの書簡。そこには―――


『ロヴィーゾにウィルが殺された。俺にアンタ、そして嬢ちゃんも狙われている。気を付けろ。』


―――と明らかに彼の筆跡で書かれていました。何かの悪戯だ、そう思おうとしていましたが、程なくして近所でもグレッグさんの姿が消えたとの話が聞こえ、いよいよ気が気でなくなり、噂に縋りここまで足を運んでしまいました。


夫は、そしてグレッグさんは本当にロヴィーゾ議員に殺されたのでしょうか?だとしたら何故殺されねばならなかったのでしょうか?やはりデトックフィッシュのレシピに関係があるのでしょうか?未来への希望そのものであったあのレシピが夫の命を奪う原因だったとしたら、彼も浮かばれないでしょうし、私も到底納得できるものではありません。


真実を暴き、そしてそれが私の考えすぎでなかった時はこの恨み、どうか…


あと差し出がましいかもしれませんが、北の何でも屋のカーヤちゃんがまだご無事で、会うことがございましたら、巻き込んでしまってごめんなさいとお伝えいただければと思います…」




「これが、つい先ほど懺悔室にて聞き及んだ頼みです。」


 暗く冷たい霊安室に集まったWORKMANたちは、神父の口から今回の依頼の内容を聞く。頼み人の悲痛な恨みと願いを耳に叩きつけられるこの時間だけは、年季の入ったWORKMANたちでも未だ慣れるものではない。ましてこの稼業に入って日の浅い、そして当事者でもあるカーヤには堪えたことだろう。


 頼み人はウィルの妻ミアン。良妻を絵に描いたようなかの女性が、かような怨恨に囚われてしまったことは残念でならない。また、彼女は妊婦である。そんな身重の身体を押してこの小高い丘を登って来たということ、それがその恨みの深さを物語っていよう。そして、そんな精神状態にあって尚、無関係(だと思っている)の少女を慮ったのだ。保身という第一の目標は達せそうではあるものの、ミアンの事を想えばカーヤの表情は重苦しかった。


「そしてこの件について、既にカーヤさんのほうで調べがついているとリュキアから聞きました。」

「まあ結果独断専行になってしまったが、おのれの命も危なかったところだでのう…」

「何だよ、お前ェはまたお節介でいらんことに首突っ込んで殺されかけたのか。これで何度目だ?」


 覇気無く答えるカーヤに、マシューは呆れ顔を見せた。当てつけのような言い方、何時もなら言い返す性分の持ち主ではあるが今夜のカーヤはそんな元気も無い。これから愛情と慈しみをもって子を育てていく筈であった娘が、恨みを抱き魔道冥府に堕ちたという事実は、片親で育ったカーヤにとってショックが大きかった。


 だが凹んだままでもいられない。飲み込み切れぬ恨みを晴らすために闇の存在に縋ったのならば、その闇に肩までどっぷりと漬かった自分がするべきことは、せめてその漆黒の願いだけでも叶えてやること。気を取り直さんとカーヤは自らの頬をぴしゃりと叩く。そして、何事かとぎょっとしているマシューを尻目に話し始めた。事の顛末、その裏に潜む陰謀、事件の首謀者、その居場所など己が知ることを全てを。




「―――では参りましょうか。的は、上院議員ロヴィーゾ、料理人クルテス、そして国家公認魔導士ハルパス。くれぐれも仕損じの無きよう。」


 神父が話を纏めると、WORKMANたちは机の上の銅貨をめいめい手に取り霊安室を出て行く。決して大金とは言えぬ頼み料ではあるが、だからと言ってモチベーションが下がることは無い。この恨みが晴らすに値するものであることは、先のカーヤの口ぶりからも十二分に見て取れるものだったのだから。






 その夜、一陣の光が港に舞い降りた。もし目撃者がいれば、すわ流れ星か?と思ったことだろう。しかし実際のところはそんなロマンティックなものでは無かった。転移魔法、失われし魔法の力によって瞬時に目的地へと飛翔する術法である。そして、このようなご時世にここザカール州でその力を行使できるものは限られている。国家公認魔導士のハルパスだ。


 今日は食事会があるから家に残れと釘を刺されたものの、彼の心境はそれどころではなかった。下賎な裏稼業の連中に出し抜かれたという屈辱は彼に焦燥を植え付けていた。自分を拘束した男の居場所はわからない、故に雪辱を晴らすのは無理にしても頼まれた仕事は片付けねば沽券に関わる。ガキ一人と妊婦一人を始末するのに時間はかからぬ、そもそも転移魔法なら数秒でロヴィーゾ邸に戻ることができる、そう胸算用しながら夜の港でカーヤとミアンを探した。


「ちょっとそこのあんた、止まりなさい。」


 焦燥と人気の無い道中はハルパスの警戒心を鈍らせていた。堂々と大通りを行き、なおかつ服装は魔導士のそれ。傍から見れば不審人物、夜回りの州衛士に呼び止められるのも当然であった。


「何用だ?」

「いや、何用も無いでしょ。こんな夜中にこんなところほっつき歩いて。しかもその恰好、完全にご禁制の魔導士じゃないの。ちょっと屯所まで同行願えるかな?」


 軽率だったか、少し冷静になったハルパスは行動を悔いた。しかし自身を省みる殊勝な心掛け以上に、苛立ちのほうが湧き上がる。州衛士風情がため口とは、自分は国家公認魔導士だぞ。先のギリィの身分違いにも臆すことの無い態度も想起され、猶更機嫌が悪くなる。ハルパスは返事を帰さぬまま、ただ胸元のワッペンを誇示した。


「ややっ!これは国家公認魔導士の方でしたか!とんだご無礼を!」

「わかったのならとっとと去れ。」

「しかし、そのようなお方がこんなところで何を…?」

「州衛士如きが公認魔術師を詮索するか?」

「い、いえ!そんなことは!では私めはここで失礼を!!」


 地位を笠にかけた有無を言わさぬ威圧の前に、州衛士は脱兎の如く逃げていった。そうだ、これが正しい姿だ。いやしくも誤った行動をとったあのハーフリングにはいつかその代償を払わせてやる、とハルパスはいくぶんか気分を良くする。しかし軽率な行動であったことはまた事実、今度は無駄な時間を費やさぬよう裏道のほうへと入って行った。




 港町の裏道は臭かった。海水浸しから引き上げられ漁具の生乾きの臭い、捨てられ放置された魚の腐臭、それらが混じり合いおよそ街育ちには耐え難い香りを醸し出す。不幸中の幸いなのは今が腐食の遅い冬だったということだろうか。それでもハルパスには苦痛には違いは無いのだが。先のように監視の目に見つかり余計な手間を取るよりはマシだと自分に言い聞かせながら、ローブを汚し先へと進む。


「ちょっと、そこのアンタ。こんなところで何してんの?」


 しかし、そんなハルパスの苦労を水泡に帰すかのように、再び呼び止める声が聞こえた。振り返ればそこにはやはり夜回りの州衛士。防寒の為にマントを羽織っているが、革鎧を見れば身分は容易にわかる。


「こんな時間にこんな所ほっつき歩いて。しかもその恰好、まるでご禁制の魔導士じゃないの。ちょっとどういうことなのか、屯所で話聞こうか。」


 なんだここの州衛士は?こんな外れの裏道まで巡回ルートなのか?仕事熱心なのはいいことかもしれないが鬱陶しいことこの上ない。マニュアルでもあるのか同じような口ぶりのリピートなのも腹立たしい。ハルパスはやはり無言のままワッペンを指し示した。


「ややっ!これはとんだご無礼を!国家公認魔導士の方でございましたか!」

「……」

「ここザカールには観光か何かで?いいとこでしょう、空気も綺麗で飯も美味い。」

「……」

「あ、お呼びでないようですね。これまた失礼おば。」


 今度の州衛士は嫌に馴れ馴れしかった。人懐っこい態度で眼前まで近づき、お国自慢を始める。しかし気分が悪いことに変わりは無い。徹頭徹尾無視すると、州衛士の男は残念そうに踵を返した。


「ああそうそう、ひとつ言い忘れていました。」


 瞬間、煌めき。背を向けたままの男の脇腹から、マントを突き破り白刃が飛び出した。見たことも無い鋭い刃、少なくとも州衛士支給のブロードソードではない。などと考える間もなく、刃はハルパスの肝臓を確実に刺し貫いた。男はこちらを向いていない。完全ノールックからの背後刺しで的確に急所を抉る神業であった。



「裏仕事で表仕事の看板出して威張っても、クソの役にも立たねェんだぜ…」



 州衛士、マシュー・ベルモンドは即死した国家公認魔導士の様子を一瞥し呟いた。それは、公務を表稼業としながら闇の世界に生きる先輩である彼からのアドバイス。しかしその授業料は命、ハルパスにとってはいささか高い授業料だった。






 その頃、ロヴィーゾ邸での晩餐は既に始まっていた。名店『セイレーンの潮騒』のオーナーシェフ、クルテスが腕を振るうコース料理は前菜、サラダ、スープ、肉料理を経てメインディッシュの魚料理に差し掛かっていた。何故肉料理を差し置いて魚料理がメインになるかと問われれば、それは「デトックフィッシュだから」としか言いようがない。死に至る毒の中に至高の旨味を湛えたザカール冬の味覚、それは肉にも勝る美味だ。


 しかも今のクルテスには、その美味を毒抜きして食す技法もある。


「くふふふふ…」


 皿の上に並べられた水晶の如き切り身を眺めながら、クルテスは笑みを浮かべる。本来なら赤紫の毒々しい身肉を持つデトックフィッシュがこうなろうとは。料理人として、その美しさに見惚れ笑いが止まらなくなる。


 デトックフィッシュを毒化させずに捌く方法、これは彼が殺した料理人ウィルが考えたものだ。釣り上げた瞬間首を折り、血抜きする。口で言うには簡単にも程があるが、これこそウィルの才覚と執念が見つけ出した渾身の調理法だ。しかし、それを知る者は今やロヴィーゾとクルテスのみ。


 他人の、しかも自分を抜き料理長にのし上がった後輩の技法を我が物顔で使用するということに思うところある人もいるだろう。プライドの高い高級レストランのシェフならば、あるいは恥じても良いところ。しかしクルテスの心中には、プライドよりも自分を追いやった後輩を出し抜いてやったという充足感が満ちていた。


「さて、ロヴィーゾ議員は毒ありのものも所望していたか。」


 ひとしきりにやけた後、思い出したように次の一皿に取り掛かる。毒アリのものと毒ナシのものの食べ比べが今回のオーダーだ。首の折れていないデトックフィッシュを取り出し、他に毒が移らないように専用の調理器具を用意する。


 食道楽のロヴィーゾの館である。その厨房は明らかにオーバーサイズ、ちょっとしたレストランぐらいの大きさを持ち合わせている。そして、あらゆる土地から料理人を呼ぶ手前、大陸中のあらゆる調理器具や食器も用意しており、壁際にはそれらを収納する大型の棚がずらりと並んでいた。


―――つまりは、広大で遮蔽物も多いということだ。


 素人のクルテスに、棚の影で気配を殺し隠れる手練れの暗殺者に気が付けというのも土台無理な話であった。包丁を取りに向かった彼の背後をリュキアの黒糸が飛び、燭台の上の火を次々と消す。あっという間に暗闇に包まれる厨房。クルテスも何事かと慌ててあたりを見回した。


 しかし、左右に振る首の動きが突如として止まる。いや、リュキアの黒糸によって止められた。そのか細い糸が奪うのは動きだけではない。声、呼吸もである。助けを呼ぶことも出来ないままじわじわと死に近づき、クルテスの顔色が徐々に青ざめていく。そんな中、暗がりの中で彼の視界に先程用意した包丁が見えた。


 クルテスは慌ててそれを手に取り、その刃で首に巻き付いたものを断とうとした。髪の毛のような糸であることはわかっている。よく手入れされた愛用の包丁ならば容易に断ち切れる。その筈だった。


 リュキアの部族の怨沁み込みし黒糸、それを斬ることができたのは今のところワノクニの剣客、浪岡小源太のみ。達人が尋常ならぬ切れ味の刀剣を以てようやく斬れるものを、毎日研いでいるとはいえ料理人が包丁で切れる道理は無かった。むしろ料理人の命たる包丁が刃こぼれする始末。そしてぼろぼろになった料理人の命が暗示するかのように、嫉妬と怨恨に狂い人を殺めた料理人の命もまた、人知れず尽きるのだった。


 自分の的を始末したリュキアは、闇夜に溶け込むようにその場を後にした。残る一人に最後の的を託して。






「遅い!一体どうなっておる!?」


 既に何も乗っていないステーキ皿を前に、ロヴィーゾは激昂した。コースが予定通りならば次に来る一皿はデトックフィッシュのカルパッチョ。まさに彼の待望の一品なのだが、それが未だに運ばれてこないのだ。いやそれだけではない。解毒を担当する国家公認魔導士も屋敷の中で姿を確認できないという。好物の前でおあずけを食らった彼の怒りはいよいよ頂点に達し、遂に席を立ちその足で厨房へと向かう。


「クルテス料理長!一体どういう…!?」


 厨房に怒鳴り込んだロヴィーゾだったが、瞬間言葉を失った。まず、部屋の中は真っ暗だった。まだメニューは残っているというのに厨房の火が消えているとはどういうことか。よもや逃げ出したのかとも思われたが、程なくしてそれは杞憂と分かった。暗がりの中でロヴィーゾはクルテスを見つける。物言わぬ死体となった彼を。


「クルテス料理長!?料理長!?」


 床に倒れる彼を抱え、必死に呼びかけるが勿論帰ってくる言葉は無い。刃の欠けた包丁を握りしめ、苦悶の表情を浮かべた変死体を前にロヴィーゾの背筋にうすら寒い発想が浮かんだ。


―――殺したウィルが化けて出たか…!?


 ついぞ300年前には魔物が跋扈したこの世界、死者が復讐のため化けて出たという発想に至るに不自然は無い。そして、その発想は半ば当たっていた。流石に本人が冥府より蘇ったわけではないが、残された者の恨みがそれを晴らさんとする存在を突き動かした。今もまた、この暗い厨房の中で最後の復讐を成さんと息をひそめて潜む者が一人。


 ばんっ、と音を立て食器棚が開いた。暗がりの中、幽鬼めいた黒い影が飛び出しロヴィーゾの背に取り憑く。WORKMANギリィ・ジョー。この厨房に置かれた巨大な棚の数々は、彼の小柄な身体を隠すには十分すぎるほどであった。


 左手で口を塞ぎ声を抑え、右手には腕輪が転じた長針が握られる。そして、くるりと指の上で一回転させた後、その脂肪を纏った太い首に突きたてた。脂肪が厚過ぎて針が通らぬ相手も数多く相手取ったギリィ、その度に苦労をしてきたものだが、ロヴィーゾは所詮「人間」の範疇の常識的な肥満体。難なく延髄にその針を刺し込むことに成功した。そして針は意志を持ったかのように髄の中で蠢き、そこを伝い脳に達し、食い破る。一瞬ロヴィーゾの身体がびくんと揺れ、そしてそれからはまるで動かなくなるのだった。


(さて、と…ちょいと工作でもしていくかね。)


 一仕事終え帰るのみとなったギリィの頭に、ひとつの悪巧みが浮かんだ。手にしたのはナイフに変化させた腕輪と、一尾まるまるのデトックフィッシュ。それを軽く上空に放り投げ、落下に合わせてナイフを振るう。びちゃり、と生々しい音を立て骨と頭と皮と内臓が床に落ちた。そして肝心の身肉はといえば、薄造りになりテーブルの上に置いてあった皿に並んでいた。その出来は、見る人が見るでもない限り一流の料理人が捌いたものだと見分けがつかぬほどに精緻だったという。






 夜が明け、ロヴィーゾの死が明るみに出た。通報を聞き州衛士が駆けつけるが、その捜査は異常なほどに早く終わった。死因が早々に結論付けられたからだ。厨房の中には、変死体の食道楽と料理人、そして(ギリィの残した)毒魚の薄造り。そこから連想されるのは「解毒魔法の到着も待てなかった食いしん坊が、料理人の制止も聞かず薙ぎ倒し、毒魚をつまみ食いして死亡」という構図。かくてロヴィーゾの死は、そこにまつわる凶事を覆い隠すかのように、「我慢できなかった食道楽のなれの果て」として長くザカールで笑い話として語り継がれることとなるのだった。


 一方で夫を殺された、外法に頼りその恨みを晴らしたミカルはひっそりと街を出て行った。見送ったカーヤは妊婦の一人旅は危険だと同行を志願したが、彼女はこれを拒んだ。


「あの人が言い残したとおり、私もどんな手を使ってでもこの子を産み育ててみせるわ。」


 別れ際に残したその言葉が何を意味するのかなど、カーヤには考えたくも無かった。






「ねえお姉様、今朝の朝刊読みました?」

「ええ~読みましたとも~。食道楽で有名なロヴィーゾ様のことですよね~。」


 明くる朝、食卓を囲みながらベルモンド家のメイド姉妹は、新聞を話の種に他愛の無い会話を交わす。今朝の一面は先日休止した上院議員ロヴィーゾの死因が発表されたという記事。捏造されたものだとはいざ知らず、人々は彼の間の抜けた死に様について笑い混じりに語らっていた。


「やっぱり、お高い食べ物は体に毒ってことですかね?」

「そうね~フィラちゃん。今回の死因を抜きにしても不摂生なお姿をしていましたし~、やっぱり長生きしたいなら質素な食事が一番ということなんでしょうね~。」


 日が経って固くなったパンとささやかなサラダだけという質素極まる食卓を前に、モリサン姉妹はほほほと高笑いをする。それは主人の薄給で質素な食事しかできない自分たちに、今が一番であると言い聞かせているかようでもあった。


 そんな中、ようやっと起きた主人が腹を抱えてやって来た。


「おはよう二人とも…」

「おはようございます主様…ってどうかなされたんですか?」

「いや、起き抜けから少しお腹の調子が…」

「あら~、じゃあお薬用意しますね~。しかしどうしてこんな急に~?」

「いや、原因は既にわかってるんだよ…」


「どうにも昨晩の焼き魚に当たったみたいでね…」


 姉妹の顔が青ざめた。確か昨日の晩は焼き魚。一山いくらかの雑魚から、日の入り前の半額処分で買ったものをざっと焼いたものだ。少し色は悪かったが焼いてしまえば問題ない、そう思い切って調理した結果が、主人の下痢という事実。冷や汗をかきながら互いを見つめ合う。


「高かろうが安かろうが、体に悪いものは体に悪いんだよ…っと、うおおおっ!!」


 どこで聞いていたのだろうか、姉妹への皮肉を言い残しながら、強烈な便意に襲われたマシューはトイレへと駆けこむのだった。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る