其の二

 ザカールの漁港、魚市場のほど近くにある白い壁塗りの小さな飲食店。これがウィルの店である。小さな店だてらに、店主の人柄を表すかのように清潔。しかし、市場で働く男衆が一人でも多く席に着けるようにとこれでもかと並べたテーブルが雑多な印象を与え、少なくともセレブリティが訪れるような店ではないことが第一印象でわかることだろう。


 しかし本日、この店の前には奇妙な馬車が止まっていた。その大きさや装飾はまさに無縁の筈のセレブリティが所持するそれである。そして貸し切り状態の店内で鎮座ましますは、食道楽で有名な上院議員ロヴィーゾであった。


 店主のウィルとその妻ミアン、縁のある漁師グレッグが見守る中、給仕に扮したカーヤが客に料理を差し出す。それは、薄切りにした生魚にソースとサラダ菜を添えたもの。実にありふれた見た目の一皿だった。


「何だねこれは?こんなありきたりなものを食わせるためにこの多忙な私を呼びつけたというのかね?」

「料理人は口では多く語りません。まずは一口、そうすれば私の言いたいこともわかることでしょう。」


 お偉いさんの苛立ちを含んだ言葉にも、ウィルは恐れることなく返す。その毅然とした態度を前にさしものロヴィーゾも従わざるを得ない。言われた通り、まずは一口。フォークで薄造りの身を掬い上げ、口に入れた。固めの魚なのか、咀嚼する顎の動きがはっきりと確認できる。


 しかし次の瞬間、顎が止まった。


 いや顎だけではない。まるで時が止まったかのようにロヴィーゾの全身が硬直してしまったではないか。しかし、程なくして時は動き出す。解き放たれた男は取り憑かれたかのように目の前の料理に食いつく。フォークで掬い、口に入れ、咀嚼し、飲み込む。ただその4つの動作を繰り返すのみ。一分を待たずして、皿の上の料理は平らげられた。


「いかがでしたか、ロヴィーゾ上院議員殿?」

「ふう…なるほど多忙な私に足を運ばせるだけの価値はあったようだな。いやむしろ、本来ならこちらが時間を縫って頼み込むべきものだ、この味ならば。」

「多分なお褒めの言葉、ありがとうございます。」


 余程に未知の味だったのだろうか、ロヴィーゾは驚き賛辞を贈る。その言葉に、ウィルは場末の食堂店主らしからぬ、さまになった平服を見せた。


「して、この魚は何だ?いやしくも食通を名乗る自分だが、これほどのカルパッチョはついぞ食べた覚えが無い。となればこのまま知らずに帰るのもプライドに関わる。どうか教えてはくれんか?」

「ええ、元より私も秘密にする気はございませんよ。しかし、正解はさほど面白いものではありません。何せ食通の議員殿には見慣れたものでしょうから。」


 すると厨房から再び給仕のカーヤが、今度は木箱を手に現れた。テーブルに置いたその中には、冷水に浸した一匹の魚。首をくの字に折られ〆められているが、その特徴的な赤と黄のラインを見間違えるはずが無い。それは確かにロヴィーゾも大好物のデトックフィッシュであった。


「おいおい、異なことを申すな。デトックフィッシュは私の大好物、冬の度に何度も食っておる。だからこそ言える、こんな澄んだ白身がデトックフィッシュであってなるものか。あれの身はもっとどす黒く…」

「普通に手当てしたものならそうでしょう。しかし不思議なことに、釣り上げて間髪入れずに首を折り血を抜いたデトックフィッシュは、かような色と味を持ち、何よりも無毒となるのです。」

「なんと…」


 ウィルは説明をしながら箱からデトックフィッシュを取り出し、その場で捌き始めた。皮を引き、三枚におろすとそこには先程の一皿で見た美しいまでに澄んだ身肉。その美しさと、見慣れたデトックフィッシュがそのような簡単な手順でここまで変わることに、ロヴィーゾは驚嘆の溜息を洩らした。


切り身を一切れ貰い口に入れれば、先程の一皿の感動が蘇る。味の濃さはいつもの毒を湛えた身のほうが上かもしれないが、歯ざわりは断然こちらの方が上だ。どちらかと言えばねちょっとした食感に対し、歯を押し返すようなこのプリプリの弾力はどうだ。この味を知らずして墓に入ったのなら食通の名折れになるところだった、心の底からそう思えるものだった。


「して、何が望みだ?これほどの新発見と料理、よもや慈善事業じみて私に味あわせてくれたわけでもあるまい?」


 ひとしきり感動の味を楽しんだロヴィーゾだったが、すぐさま州議会議員としての顔に戻った。当然と言えば当然の話かもしれないが、ウィルが設けたこの席に何やら裏の糸があることを嗅ぎ取っていた。


「議員殿に隠し事はできませんね。では単刀直入に申し上げます。この度の毒無しデトックフィッシュの発見とそのレシピ、その他諸々をひっくるめて後見人になっていただきたい。」


 ウィルは頭を下げロヴィーゾに頼み込んだ。その低頭ぶりはやはり「らしくない」品格が見えるものだった。


「試行錯誤の末、九分九厘は完全に解毒が完了できたと自負しております。しかし人々にとっては未だ食えば死ぬ毒魚のイメージがつきまとっていますし、何より今のままでは法的にも問題がある。そこで議員殿にはこの調理法の認可とPRをお願いしたく。」

「そういうことか。しかしいくら私が食いしん坊と言っても、美味いものを食わせてもらっただけで言うことを聞くとは思っておるまいな?」

「暫くは当店のみの限定となりますが、ゆくゆくはこのレシピ、他店にも広く伝授する腹積もりです。そしてザカールの新名物として他所の州からの観光客を呼べれば、後援者としての実入りは馬鹿にできないものになるかと。」


 ウィルの言葉に周りで見ていた者たちがざわめいた。彼の持ちだした取引の内容はさほど驚くことではない。それよりも、あの謙虚なウィルがこういう口三味線を持ち出したことに驚いたのだ。妻のミアンですら、見たことの無い夫の顔に戸惑いを隠せない。そんな周囲のざわめきをよそに、交渉の場の二人の間には緊張感が走っていた。しばしの沈黙の後、ロヴィーゾが口を開く。


「なるほど、王都中央ホテルの料理長まで上り詰めるとなると、腕だけでなくそれなりに口も回るということか。」


 ロヴィーゾの発言は更に周囲を驚かせた。王都中央ホテルとはこの大ラグナント王国最大の高級宿泊施設。そこの料理長となれば相当の腕と地位の持ち主ということだ。以前より実しやかに囁かれていたウィルの前職の噂、その答えがこのような場で判明するとは誰も思っても見なかったことだろう。


「…その王都中央ホテルに認められた私なればこそ、議員殿にも信用していただけることと思います。」

「確かにな。ならばウィル元料理長の顔を立てる意味でも、先の提案、前向きに検討させていただこう。では。」


 そう言い残し、ロヴィーゾは店を出てそのまま馬車に乗り込んだ。一同も外に出て見送る中、御者が手綱を振り上げ馬を走らせる。狭い道に見合わぬ大きな車が小さく見えるまで眺めていると、ようやく緊張の糸が切れ、皆が一様に「ふう~」とため息をついた。




「あの男も善処すると言っておったし、ひとまず第一の関は越えたと言ったところかのう。」

「しかしだウィル坊よ、あの議員さんの言ってたことは本当なのか?」

「あなた…」


 しかし彼らの目下の興味は、事の成否よりもウィルの過去の事でいっぱいだった。国内最高峰の厨房で長になった男が、今は場末の定食屋。確かに何があったのか疑問に思わざるを得ない転職だ。しかも妻ですら知らなかった様子となれば猶の事何があったのかと思うことだろう。


「…やっぱりあのレベルの食道楽にはバレちゃうか。確かにロヴィーゾ議員の言う通り、私は昔王都中央ホテルで働いていたよ。」

「なら何で黙っていたの?まさか思い出したくない過去があって辞めさせられたんじゃ…」

「そんなんじゃないさ。辞めたのは自分の意思。少数のお偉いさんに褒めそやされるよりも、もっと沢山の人に自分の料理を食べてもらいたい、そんな月並みな衝動さ。」


 ミアンはその過去に何かあったのではと心配したが、夫の答えは思いの外からっとしたものだった。料理人の最高峰に上り詰めたものの、そこに待っていたのは変わり映えのしない賓客を相手にするのみ。その閉塞感に耐え兼ね、辞表を叩きつけ、海の幸溢れるこのザカールへ裸一貫でやってきた、ということだった。


「前職の肩書きなんて自分にもお客さんにも重荷さ。下手に公言しても意識して溝ができるだけ。だからこそ黙っていた、君にさえね。でも今になって思う、それは甘い考えだったって。」

「?」

「私にも守るべき大切なものができた。君とそのお腹の子、この地で授かった宝物を護り幸せにするためなら、その重荷すら武器にするぐらいの気位じゃなきゃいけなかったんだ。ロヴィーゾ議員の信頼を得てこの調理法の認可を貰うために、この前職の肩書き、存分に利用しなきゃいけなかったんだって。」


「こんなまだまだ未熟な私だけど、ついて来てくれるかい?」

「ええ、当たり前じゃないの…」


 夫の想いの強さを再確認した妻は、彼にぴったりと寄り添う。あるいは夫婦の信用に関わるような重篤な隠し事ではあったが、それはむしろ絆を強めたようだ。そのお熱い惚気ように、グレッグはにやけながら冷やかし、カーヤは顔を真っ赤にするのだった。






「さて、ということなのだがお二人はどのような意見をお持ちかな?」


 帰りの馬車の中、ロヴィーゾは対面に座る男たちに問いかけていた。港の細道には狭いほどの馬車に、一人で乗って来たというわけではなかったようだ。彼らは、ロヴィーゾがウィルの店で無毒のデトックフィッシュに舌鼓を打っている間も、馬車の中にとどまり聞き耳を立てていた。


「しかし流石は最年少で王都中央ホテルの料理長となった男だ。まさかデトックフィッシュの無毒な調理法を発見するとはな。なんとも才気溢れる男ではないか。」

「……」

「このままいくと、『セイレーンの潮騒』を贔屓にするのも今年で最後になるかもしれん。なぁ、クルテス料理長殿?」


 ロヴィーゾが男のひとりにわざとらしく話しかけた。返す言葉なく黙りこくるがその中年男のこめかみには青筋が走り、並々ならぬ負の感情が見て取れる。そして、寒さゆえに外套を羽織っているが、首元からは料理人が身に着けるチーフタイを覗かせていた。


 クルテス料理長。ザカールでも指折りの会員制個室レストラン「セイレーンの潮騒」、その長である。そしてその前歴は王都中央ホテルの料理長、奇しくもウィルの前任者であった。ウィルの昇格に伴い職場を辞めた彼は、地元に戻り名声とコネを駆使し今の店を築く。自分を追いやることとなった後任もまた同じ街に来たということは風の噂で聞いてはいたが、やっていることは大衆食堂を聞き今まで特に気にかけることは無かった。


 しかし、そこにきて今しがたのウィルのプレゼンテーションである。一度自分から地位を奪った男が、その才能を以て再び自分の地位を脅かしに来た。一度は忘れた筈の憎悪と嫉妬が彼の心の中で渦巻く炎となりて燃え盛る。わざとらしいロヴィーゾの煽りもまた、その感情に薪をくべるようなものであった。


「それに、魔法の力も必要無くなるということは、貴殿との関係もこれまでかもなぁ。」


 続けてロヴィーゾは、隣のローブ姿の男にもわざとらしい口調で話しかけた。国家公認魔導士ハルパス。なるほど無毒のデトックフィッシュが出回れば、解毒魔法を飯の種にする彼もまたお払い箱となろう。しかし、憎悪に歯を食いしばるクルテスとは真逆に、ハルパスは実に涼しげな顔で答えた。


「またまた御冗談を。私どもの関係がただの料理の解毒係だけでないことは、議員殿がご存知の筈ではありませんか。」


 その言葉にロヴィーゾは、ふっ、と鼻で笑った。瞳にこれまで見せた事が無いようなどす黒さを湛えつつ。


「クルテス殿もあまり心配めさるな。議員殿と我々は一蓮托生、そうそう縁をお切りになるはずが無い。冗談をあまり真に受けるものじゃありませんよ。」

「そ、そうか…?」

「ああ勿論だとも。さて帰るまで時間はたっぷりとあるんだ、じっくり話し合おうじゃないか。」



「―――我ら三方、どうすれば丸く収まるかを。」



 夕暮れが訪れる頃、馬車はようやくその巨体に見合った道幅へと差し掛かっていた。






「それじゃあ、行ってくるよ。」


 それから三日後のある日、ウィルはロヴィーゾに件の事で話したいと呼び出された。会談場所はレストラン「セイレーンの潮騒」。海鮮を名物とする店だけあり海には程近いので、これまた港の近くのウィルの店からは歩いて向かえる距離だ。身重の妻が見送る中、彼は出立した。徒歩で30分ほどすればもうその門前だ。自分の店とはまるで違う荘厳な店の作りにウィルが目を白黒させていると、オーナーシェフが自ら彼を出迎えた。


「久しぶりだな、ウィル。」

「あっ、クルテス先輩!お久しぶりです!同じ街に店を出されていたことは知っていたのですが、中々ご挨拶に行けず申し訳ありませんでした。」

「何、気にずるな。さあ、議員殿がお待ちだ。」


 ウィルにとってクルテスは中央ホテル時代の大先輩である。しかし奇しくも同じ街に店を構えながらも、交流は一度も無かった。高級店と大衆店という格の違い、前の職場で半ば地位を追いやってしまったという引け目、それらの諸事情からウィルはクルテスの前に顔を出さなかったのだ。そんなばつの悪い思いをしているウィルを、クルテスは優しく迎え入れ案内した。


「やや、よく来たな。まあ座ってくれ。」


 クルテスに通されて入った一室、その中央で食前酒をくゆらせながらロヴィーゾはテーブルに腰掛けていた。埃ひとつ落ちていない清浄な一室には高そうな調度品が並び、なるほどこの店の中でも最上級の部屋だということが見て取れる。その威容に圧倒されながら、ウィルはおそるおそる椅子に座った。クルテスも残り彼の後ろに立つ。


「それで、先日のデトックフィッシュの件だがな…」

「はい。」

「少し面倒なことになってきたので、君の思うようにはいかんかもしれんのだ。」


 対面のウィルに酒を差し出しながら、ロヴィーゾは苦い顔をした。皮算用とはいえうまく行くと思い込んでいたウィルは、その含みのある言葉に食いつく。


「ど、どういうことですか?!」

「いや何だ。この店、『セイレーンの潮騒』は私が懇意にしているレストランだ。そして毒入りとはいえデトックフィッシュがここの冬の名物。となると毒無しのデトックフィッシュが市井に出回ってしまうよう真似を許すのは少々不義理なことになるのでな。」

「そ、そんな…」


 ウィルは思わず後ろに立つ先輩の顔を見やった。クルテスはあえて目を合わせず明後日のほうを見つめている。


「君が考えるほど、世の中のしがらみというものは単純なものではなくてなぁ。特にこの店を裏切るわけにはいかんのだよ。」

「し、しかし!いずれはレシピを公表するとも言いました!そうなれば先輩の店にも不利益は出ない筈!」

「いやいや、だからそんな単純な話ではないと言っているではないか。なあクルテス料理長?」



「ええ。」



 あまりにも無感情なクルテスの返事。と同時にウィルの脇腹に突き刺さる一本の包丁。



「こうやって、政敵を消す密室としても利用している手前、裏切ればこちらの立場も危うくてなぁ。」

「まったく憎らしい奴だ。俺から料理長の座を奪っただけでは飽き足らず、名物料理まで奪おうとしやがるなんて。だが思い通りにはならねえぞ、ざまあみろクソガキが。」


 血が、命がどくどくと流れゆき遠のく意識、そんなおぼろげなウィルの視界に入ったのは、下卑た笑みを浮かべるロヴィーゾと憤怒に燃えるクルテスの顔。


「確か釣りたての首を折って血を抜けばいいんだよな。くくく、ウィルよ、お前の見つけた調理法は俺が有り難く受け継いでやるよ。まあ、お人好しのお前のように貧乏人に出す気は無いがな。」


 死地に向かうウィルに追い打ちをかけるかのように、クルテスは耳元で囁いた。先輩がこれほどの憎悪を自分に抱いていたことは知らなかったし、自身の行動の無神経さを反省するところもある。しかしいくら憎まれようがここまでされる謂れは無い。ウィルは力と意識を振り絞りクルテスに食って掛かろうとする。


 すると、そこにローブ姿の男が割って入った。


「そうそう。無毒のデトックフィッシュが出回ると困る者がもう一人いるんだ。解毒を担当される公認魔導士の方だ。」


 ローブの男ハルパスはウィルの肩に手を置いた。そして何やらぶつぶつと唱えている。しかし、意識の消えつつあるウィルにそれが何であるか、何を言っているのかを解することはできなかった。


「こちらの方も私と深い繋がりがあってだね。始末した死体の処理を毎度お願いしているんだ。こんなふうにね。」



「ブレイズコフィン!」



 詠唱の終了と共に、ウィルの身体が炎に包まれた。その熱は神経が鈍化した今の彼にもしっかりと火傷の苦痛を感じさせる。床に倒れ、水揚げされた魚のようにのたうちまわるウィル。しかし程なくしてその動きは止まった。いや、その姿さえも消し去った。火が消えた後残ったのは、かつてウィルであった真黒な灰だけであった。しかしその無残な姿を目の当たりにしても、三人の共犯者の表情に変化は無い。まるで見慣れた光景を見るが如くに。




「さて、これで三方丸く収まったな。関係は依然変わらぬまま。加えてあの美味は私だけが味わえるものとなった。」

「俺も新しいレシピが労せずして手に入り万々歳です。いやあ、気に食わない後輩だと思っていたが、最後に孝行してくれましたよ。」

「ん?こうなると私一人だけ得が無いようですが?」

「なあに、何時もより仕事料を多く包んでおくわい。」


 ははは、とロヴィーゾは高笑いをした。人肉が焦げる異臭の中でも、彼らが語らうは己の利益のことだけであった。既に多くの命を謀り事で奪った彼らだ、場末の食堂の店主のそれなど最早歯牙にもかけないのだろう。


「おっとそういえば、レシピの独占というにはまだ気が早いかもしれんぞクルテス料理長。」

「どういうことで?」

「ウィルの関係者の存在を忘れておったわい。奴の妻、そして協力者のドワーフのジジイとクオータービーストのガキ、そいつらが件の調理法を知っているとなると後々厄介なことになるかもしれん。」

「なるほど。ではハルパス殿、魔導の力を今一度お借りしたく思うのですが…」

「貰えるものさえ貰えれば何なりと。」


 ハルパスがそう答えると、美しい光景に似つかわしくない下卑た含み笑いが再び部屋の中に響いた。






 時は夕刻を回り、既に日は西に沈みつつあった。今日は乾物屋の手伝いで港に来ていたカーヤは、一仕事終えたついでに近くということでウィルの店の様子を伺いに向かった。確かこの日は例の議員との会談があったと聞いている。良い話が聞けると期待し足取り軽く進むカーヤだが、店の前に差し掛かると小首をかしげた。身重のミアンがその身体を押して玄関に立ち、何やら心配そうな表情を浮かべていたのだ。


「おう、どうしたミアン?寝ておらんと胎教に悪いぞ。」

「あ、カーヤちゃん。いや、それがね…あの人がまだ帰ってこないのよ。」

「確かかの議員の下へ向かったとは聞いておるが。それでもまだ帰って来ぬとは奇妙な話じゃな。身重の妻を放っておいてどこをほっつき歩いとんじゃ。」


 こういう時、お人好しのカーヤの取る行動はひとつである。ひとしきり肉体労働して疲れた体を押し、無償でウィルを探しに出て行くのだった。




「とりあえず件の会合場所でも訪ねるか。高級レストランにこの恰好で臨むのはいささか気乗りせぬが。」


 汚れた服装を自嘲しながら、カーヤは「セイレーンの潮騒」へと足を向けた。ウィルの店から30分ほどの距離。まだこの辺りは小綺麗さから無縁の港の雑踏、件の店のある整備された区域はまだまだだなと思いながら歩いて行く。


 ふと、カーヤの大きな狐の耳がその雑踏の中から、がたがたっ、という音を捉えた。作業中に木箱をひっくり返した、という感じでもない。明らかにもっとせわしない音だ。耳をすませば足音や荒い息遣いも聞こえる。まるで何かに追われているといった様子だ。


(いや、気にはなるがこっちにも先用が…)


 好奇心に駆られる自分を抑えながらウィルの捜索を優先しようとするカーヤであったが、ついつい首が音のする方に向いてしまった。狭く汚い裏道のT字路、偶然にもそこを横切る何か。カーヤの瞳は確かにそれを見た。


「グレッグ!?」


 必死の形相で何者かから逃げる老ドワーフ、そしてそれは知った顔。となれば優先順位も変わるというもの。ダッっと駆け出し、狭い裏路地へと入って行く。




「逃げろ嬢ちゃん!!こいつの狙いはお前もだ!!」


 裏路地の人気の無い突き当りでカーヤが目撃したものは、ローブ姿の男に追い詰められたグレッグの姿であった。何やら物騒なことを叫んでいるが、混乱するカーヤの頭で理解が追い付く筈も無い。そして更にわけのわからぬ事態へと発展していく。ローブの男がグレッグに触れた瞬間、巨大な火柱が老ドワーフを包み、十数秒もかからぬうちにそこに誰かが存在していたという事実を消し去ったのだ。


 ローブの男は踵を返し、グレッグの警告の通り、次の獲物だとばかりにカーヤへ襲い掛かった。見知った者の突然の消滅、精神的ショックは少なくない。しかし幸か不幸か、この娘はかような修羅場は最早慣れっこであった。すぐさまに自分に降りかかる危機を察し、気持ちを切り替え逃走に入った。


 ローブの男も無論これを追う。しかし歩幅な小さな娘、すぐ追いつけると高を括っていた彼の目論見は甘いと言わざるを得なかった。狭く汚い裏道を走るという行為において、カーヤの経験値は並ならぬものがあるのだ。加えて言えば、魔導士に追いかけられるという点においては二度目。小さな体躯を駆使した軽快な足取りで、ばすばすと大きな足音を立てながら差を開き、やがて一軒の廃屋へと逃げ込んだ。


 所詮子供の浅知恵、とローブの男はしめしめと思った。自分を撒いて隠れたつもりだろうが、その様子は自分もしっかり目撃している。むしろ逃げ場のない袋小路に自分から入って行った、あとは追い詰めて始末すればいい。息を整え、忍び足で近づき、戸を開けて中へと入る。


ぐるりっ


 彼が廃屋に足を踏み入れた瞬間、天井から何かが降って来た。罠で仕掛けた材木や土嚢の類ではない。なぜならばその「何か」は彼に触れるや否や、その腕を取り逆関節に捻り上げたのだ。明らかな意思を持つ何者か。あのクオータービーストの娘の仕業かとも思ったが、その剛力はどう考えても童女のそれではない。


「まったく、世話の焼けるクソガキだなお前はよ。」

「いやはや、危ないところをすまぬ。」


 ローブの男を組み伏せたのは、カーヤのWORKMANとしての仲間ギリィ・ジョー。丁度この辺りに頼まれていた指輪の納入に来ていた。そのことを知っていたカーヤも、逃げながら大きな音を立てて自分の危機を伝えた。不自然なまでの足音はWORKMANの暗号だ。そして連絡通りこの場で落ち合い、追跡者を捉えることに成功したのだ。


「さて、よくわかんねーけど何でこのクソガキ追っかけてたのか、洗いざらい吐いてもらおうか。」

「ぶっ、無礼者!この私は国家公認魔導士だぞ!この手を離せ!」


 男はようやく口を開いた。高圧的な態度で胸元を見るように示す。確かにそこには大ラグナント王国魔導研究所の紋。そのワッペンは偽造されぬよう精緻な技術で織り上げられていると聞く。となれば間違いなく国の重役であることに間違いは無い。普通なら無礼を詫びて手を離すところだろうが、悲しいかな、今彼を拘束するギリィ・ジョーは反骨の男であった。


「そのお偉いさんが、何でこんな小汚えガキを必死になって追い回してるのか聞いてんだよ。どう考えても不自然だろうが。」


 ギリィは更に腕を絞り上げた。激痛と予想だにせぬ反論に男は追い詰められていく。不味い、こいつらは法の埒外で生きる連中だ。自分も半ばそちら側の身、その危険性は承知している。ならばまずは命あっての物種、ローブの男―ハルパスはそう決断した。


ぼきり


 深閑とした廃屋に生々しい音が響いた。骨の外れる脱臼の音。ハルパスは自ら折り曲げられている方向に力を加え、自分で自分の肩の骨を外したのだ。国家公認魔導士を自称する男の、らしからぬなりふり構わぬ行動。その意外性に、思わずギリィの剛力も緩む。


 そのままハルパスはギリィを振りほどき外へ飛び出す。そして同時に光に身を包み、夕焼け空へと飛翔していった。転移魔法だ。かくして彼はまんまとWORKMANの手から逃げおおすのだった。


「何だったんだよ一体。お前また妙なことに首突っ込んだのか?」

「儂にもよくわからぬ。しかし、既に人ひとりの命が奪われた…」

「何…!?」


 空には既に月が顔を出している。しかし薄雲に包まれおぼろげにしか輝きを放てぬそれは、先行きの見えぬ気味の悪い前途を示しているかのようだった。



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