其の三
愛娘を失い、それでも泣き寝入りせざるを得なくなったファイエットが懺悔室の戸を叩くのに、さほど時間はかからなかった。
そしてこの夜、WORKMANたちは霊安室に集まった。ファイエットの頼みの裏を取るためだ。今回は足を使う必要はない。少女が自ら命を絶つその直前の光景、それを見れば彼女を弄んだ外道の正体もわかるのだから。
中央に安置された机の上には真新しい骸骨。これがついぞ数日前まで先生先生と子犬のように寄って来た少女とは、ギリィには思えなかった。いやあるいは、その死を認めたくなかっただけなのかもしれない。神父は、そんなギリィの動揺を察しながらも儀式を進めた。机の四隅に置かれた蝋燭に火を灯し、怪しげな呪文を唱える。そして右手を骸骨の上に置くと、WORKMANたちは差し出された神父の空の左手に触れた。瞬間、瞼を閉じた筈の視界には、林の中で自身を取り囲む三人の若者の姿。
『うるせえ!騒ぐんじゃねえ!』
『痛ってえ!噛みやがった!』
『口押さえろ口!』
凄惨な光景、そしてその渦中にある少女の心理をWORKMANたちは追体験する。それは、女性であるリュキアやカーヤはもとより、マシューでさえ目を逸らしたくなるような非道。しかしレイナはそれでも屈するものかと己を凌辱した男たちの姿を見据えていた。そんな彼女の勇気の甲斐もあり、犯人の素性はいとも簡単に割り出すことができたのだった。
「第一近衛師団団員エラルドの息子ブルズ、上院議員ゼニスの息子レイジア、そしてキャラハン商会の長男坊ドロネ、か。州衛士のほうでも有名な御曹司仲良し三人組だァな。」
「有名とは、どういうことじゃ?」
「説明するまでもねェだろ、察しろ。しかしとうとう婦女暴行するまでになっちまうたァな。」
ブルズ、レイジア、ドロネ、その名と顔は州衛士でもあるマシューには馴染みのあるものだった。それぞれが国防の要、政治家、豪商の息子であり、その立場をかさにかけて市中でやりたい放題、重篤な問題ともなればそれぞれの親がしゃしゃり出て州衛士隊に圧力、とそんなやり取りが向こう一・二年は続いていたのだ。マシューのような木っ端の立場でも否が応に名と顔を覚えてしまうのも当然の事だった。
「成程、頼み人の見立ても間違っていなかったということですか。」
同時に、WORKMANに「仕事」を依頼したファイエットにも、パーティーの出席者の中から娘を辱めた犯人は凡そ予想はついていたようだ。それ程の悪名高い三人組、今の今まで「仕事」の依頼が来なかったことが不思議なくらいである。
「………ということは、今回の的は三人とその親で六人?」
不愉快な気分もそこそこに、リュキアは神父に尋ねる。普通に考えれば恨みの矛先はレイナに暴行を加えた三人と、それを権力でもみ消そうとした父親三人。それ以上の人数を相手取ったことは多々あるがそれでも六人は大仕事だ。気を入れて挑む必要もあると構えるが、神父は少し悲しそうな顔でこの問いに答えた。
「いえ、『仕事』にかけるのはブルズ、レイジア、ドロネの三名で結構です。これは頼み人からのたっての願い。」
「………どういう事?」
「子を理不尽に失う気持ちを、かの親たちにも味あわせてやりたいとの判断です…」
苛烈な頼みであった。WORKMANは死を以て誅するを旨とする。生き地獄を味あわせるという仕置は基本的には専門外だ。だというのにこのような頼みを持ち込んだファイエットの恨みの深さ、そして神父が同情しあえて承諾したその悲しみの深さを思うとやるかたない気分にもなる。霊安室に、重い空気が流れた。
「まあ何だ、的が三人なら楽でいいじゃねェか。しかも親の脛齧りのクソガキ三人、全員で出張る必要もねェや。俺一人で殺ってやってもいいか?」
沈黙を破り声を上げたのはマシューであった。目立つことは避けたい裏稼業、殺す人数が減ればリスクは減る、それに越したことはないというのもまた事実である。しかし減ったとはいえ自分が全員やるとはどうにも穏やかではない。がめついマシューの事、リュキアは以前の経験から頼み料を一人でせしめる気ではないかと疑ったが、彼の視線の先にあるものを知り、そのような助平心で言ったのではないことを察した。
「少なくとも、動揺して手先が狂うってんなら手前ェには降りてもらうぜ、色男。」
一転して鋭い目つきで、視線の先の男に釘を刺すマシュー。当の色男ギリィの表情からは、明らかに動揺が見て取れた。それは「愛弟子の死」という事象そのものに心揺らいでいるというわけではない。そんなものは第一報を受け取った地点で大方吹っ切っていた。しかし、事ここに至りてレイナの今際の心境を追体験し、「何故彼女が自殺に至ったのか」を知ってしまったことで、彼は思い悩むことになったのだ。
出会ったころの世を儚み斜に構えていたレイナならば、かかる理不尽に対し死という選択を取るのも不自然では無かっただろう。しかし彼女はギリィの腕を気に入り、嘘とはいえ彼の指し示した道を選び、この薄汚い世の中で生きていく決心をしたはずである。そう決めた筈なのに、自分から死を選ぶとはどういうことか。男の勝手な理屈かもしれないが、操を失った事くらい犬に嚙まれたと思って忘れてしまえばいいじゃないか、とすらギリィは思っていた。
しかし、それは本当に勝手な思い違いでしかなかった。彼女はギリィに師事して猶死を選んだのではない。むしろギリィに師事していたからこそ死を選んだという事実。レイナを死に至らしめたのは、ギリィ・ジョーという男の存在だった。逆転した因果を突きつけられたギリィの心が乱れるのも当然の話だ。
その事実を知るのはギリィだけではない。ここにいるWORKMAN全員が体感し、知っている。マシューが今回の「仕事」を降りるよう提案したのは取り分の問題ではなかった。心の整理を付けさせようとする親切心、そしてそれ以上に、動揺の末「仕事」をしくじることへの懸念。最悪の場合、一人のミスで五人全員の素ッ首が磔刑台に並ぶ可能性すらあるのがWORKMANという稼業、神経質になるのも已む無しであろう。
霊安室は再び長い沈黙に支配された。
「それで、どうなさいますかギリィさん?」
「決まってんだろ、殺るに。そりゃ万全とは言えないかもしれねえが、世の中舐めたクソガキ一匹『仕事』にかけるくらい訳ねえよ。」
「仕事」決行の時が差し迫る中、神父は最後の判断を問う。ギリィの答えは「乗り」であった。この沈黙の間に覚悟を決めたのか、その声に迷いは見られない。
(そう…俺は天国のアイツに教えてやらなきゃならねえんだ。俺の本性、そして悪徳溢れるこの世界で俺が選んだ生き方を…)
彼の心に去来するのは、嘘ばかりを教えられたまま死んでしまった少女への自責の念。あるいは彼の真実を知れば天国のレイナは失望し、軽蔑するかもしれない。だがそれでもいい、むしろ望むところだ。ギリィは神父から取り分を受け取ると、誰に目を合わせることも無く真っ先に夜の闇へと出陣して行った。
夜は更け色町は盛りの時を迎えていた。夏の暑さも峠を越えたことで客足も増え合はじめ、日中の本通りもかくやの人でごった返す。そんな人波の中にはブルズ、レイジア、ドロネの姿もあった。実は色町は下限18歳の年齢制限があり、ブルズたちは15・6歳の少年。本来なら立ち入ることはできぬ立場であるはずなのだが、道行く者は誰一人として咎めようとしない。これもまた彼らの親の権威故、その庇護の元彼らは大人の町を闊歩していた。
「あー、どっかにいい女いねえかなー。目の覚めるような極上の女はー。」
先頭を歩くブルズは大声を上げながら通りの真ん中を行軍していた。見た目まだ少年にも関わらずこのような台詞を恥も外聞も無く叫ぶのだ、流石に傍目から見てもどうかと思う光景だ。しかし彼らのタチの悪さを知る者たちは、見て見ぬふりしかできないでいた。
「おいおいブルよ。随分とサカってんなぁ。」
「そうだよ。ついこの前のパーティーで小生意気な女で楽しんだばかりじゃないか。」
連れの二人はブルズの性欲に呆れ返っていた。三人の中では一つ年下のドロネが言うところの「小生意気な娘」とは、勿論レイナのことであろう。半ば己の犯罪を天下の往来で吹聴しているようなものなのだが、彼らがその事に気が付いているのかいないのか、ブルズはさも自然に言葉を返した。
「おいおい、あんなもん楽しんだうちに入らねえぜ?いやむしろ…」
「むしろ?」
「あれは教育だな!」
「折角俺達が誘ってやったってのにあの女が断るもんだから。金貸しの娘風情がお高く留まりやがって。だから身分の違いってやつを体で教えてやっただけだぜ。まあ、流石に死なれるとは思ってもみなかったけどな!」
ゲラゲラと大声で笑いながらブルズは事も無げに言った。年端もゆかぬ娘に乱暴し自殺に追い込んでこの言い草である。良識のある人間ならば品性を疑い眉をしかめるところだろうが、これを聞いたレイジアとドロネはさも当然のように頷き同調していた。上位の権力の庇護の元育った少年たちは、奇しくも生前のレイナが自虐した輝世暦前の魔物と同様の存在、いやそれ以上の存在へと成長していたようだ。
そんな高笑いする三人の魔物たちを、妙な違和感が襲った。足元に濡れるような感覚。ここ数日は雨も降らないので水たまりに足を踏み入れた、ということもない。しかも妙な温もりも感じられる。頭によぎるのは生理的嫌悪と嫌な予感。三人は、そっと足元に目を移した。
―――そこではまさに、三匹の野良犬が彼らの足元に小便を引っ掛けているところだった。
「―――――――ッ!!!!」
三人はそれぞれ声にならない怒号を上げた。自分より身分の低い者を見下し、問答無用で身勝手な制裁を下す連中である。同族の人間ですらそれで暴行に及ぶというのに、畜生にこう舐められたとあってはその憤怒はいかほどとなろうか。危険を察し三方に逃げ出した野良犬を追い、彼らもまた散りじりに人込みの中へとかき入っていくのだった。
一連の行動を遠目から見ていた者の中には、ざまあみろと思うものも少なくなかった。これまであの御曹司三人組にさんざん煮え湯を飲まされてきたのだろう。天網恢恢疎にして漏らさず、これもひとつの天罰だと納得し溜飲を下げていた。
尤も、この後本当の罰が下ることを予測したものは一人もいなかったが。しかも天の手によるものでなく、同じ地上に生きる民の手によって。
ブチ柄の犬を追うのはドロネ。彼の追走はいよいよ路地裏へと至っていた。灯りと人に溢れ昼間もかくやの本通りとは裏腹に、人気無く月明りのみが辺りを照らす狭い袋小路。ドロネは遂にその行き止まりに野良犬を追い詰めていた。体力に得手があるわけでもない豪商の息子がここまで犬の足についてこられたのは、その執念ゆえなのだろうか。
「もう許さねえからな、この駄犬が…」
ドロネは近くにあった棒切れを手にする。そして大きく振りかぶりながら、逃げ場を失った野良犬を叩き殺さんと今一度力を絞り出し突進した。
びぃぃぃぃん
しかしその突進は、文字通りに自らの首を絞める愚行であった。距離を詰める中で突然襲い来る喉への衝撃。その不意の苦痛にひるむが突進の勢いはまだ生きており、ドロネはそのままつるりと足を滑らせ仰向けに倒された。
「…かはっ!!ごほっ!!」
喉が詰まり空咳が出る。立ち上がるのはおろかまともに呼吸を整えるのもまだしばらくかかりそうな様子だ。しかし怪我の功名というかなんというか、仰向けで夜空を見上げていると、ドロネは自身の喉を襲ったものの正体に気が付いた。
真上に位置する月の光に照らされているからこそ見える、本来なら闇夜で目視など出来る筈も無い漆黒の糸。それがちょうど自分の喉元の高さで、狭い路地に横一文字で張られていたのだ。ともすれば古典的な、しかして危険極まりない悪戯の類。だが誰が仕掛けたというのか。
その正解は、天上より現れた。右の塀から飛び上がり一直線に自分の眼前へと降下する黒い影。月明りによって僅かに見えるそれは人の形、しかも友が先刻求めていた「極上の女」と言っても差し支えないほどに美しいダークエルフだった。しかしその表情からは一切の情は伺えない。
そのダークエルフは、両手で張った黒糸を降下と同時にドロネの弱った喉にあてがい、押し付けた。喉はちょうど地面と糸とで挟まれる、そうなれば呼吸も声も奪われる。虫の息のドロネは、そのダークエルフの美しさに「ものの本に出てくる酷死天使とは現実に居ればこのような姿をしているのか」という、無意味な思考に頭を支配されていた
そしてリュキアは、その酷死天使よろしくドロネの命を完全に刈り取った。的の死を確認すると感慨も無くゆっくり立ち上がり、懐から干し肉を取り出しブチ柄の犬に与える。この野良犬はカーヤの頼みを受け的をここまで誘導する囮役だったのだ。はぐはぐと干し肉に貪りつく犬の姿を見て、ここまで眉一つ動かすことの無かったリュキアの表情が僅かに綻んだ。悪党の惨めな死には無反応な彼女も、愛らしい動物の姿に心動かされるのだった。
「くそっ!どこに消えやがったあの犬っころめ!」
一方、黒い犬を追っていたレイジアはその姿を見失っていた。気が付けばそこは住宅街、色町の灯りは随分向こうだ。頭に血が上ったまま追いかけすぎて気が付けばこんなところまで出てしまっていた。当然、にぎやかな向こうとは違いここは灯りも人通りも無い。急に心細い気分にならなくも無いが、それ以上に犬に舐められたままおめおめ帰る訳にもいかぬというプライドが先立ち、辺りを見回す。
一分ほど首を左右に回した頃だろうか、通りのほうからようやく人影が現れた。それは、夜回りの州衛士、なるほどこんな時間にこの辺りを歩く人間などこれぐらいしかいるまい。縋る思いでレイジアは声をかけた。
「おい!そこの州衛士!」
「へい、どうしましたお坊ちゃん?」
「この辺で犬を見かけなかったか?!」
レイジアがよく見ると、それは小柄な州衛士だった。加えてボサついた髪や眠そうなまでに垂れ下がった目尻はだらしなさを醸し出す。とてもではないが頼りにはなりそうにも無い州衛士、だが選り好みは出来る状況でもない。レイジアは彼に情報を求める。
「は?何ですって?」
「だから犬だよ!この辺で俺に無礼を働いた黒い野良犬見なかったかって聞いてんだよ!」
「いやあすみません、私すこし耳が悪く手ですね…で、何をお探しで?」
「だーかーら!犬!黒の犬を探してんだよ!!」
しかし、頼みの州衛士はこの有様であった。傲慢さ故に説明不足なレイジアにも問題があるとはいえ、この男相手ではそれどころではない。このままでは時間の無駄、見切りをつけてやはり自分一人で探そうとレイジアは踵を返す。その時だった。
「ああ、探している犬がいると。そういうことなら私知っていますよ。」
なんと話が通じたばかりか、心当たりまであると言うではないか。まさかの逆転にレイジアも驚く。しかしここまで手間を取らされたのも腹立たしい、明日父親に言ってこいつをクビにしてもらおう、そんなことを考えながら一度は向けた背を元に戻す。
ざんっ
レイジアが振り返ったまさに瞬間、白刃の斬撃が彼を襲った。股間から頭頂まで縦一文字に抜ける下段斬り上げ。何がどうなってこうなったのかはわからないが、死に至る傷を負った事だけはレイジアにもわかった。斬創から血が流れ、それと比例するように彼の意識は遠のいていく。
しかし、齢十六の素人にも「斬られた」と認識できる程度の斬撃である。彼の者―――マシュー・ベルモンドの腕を考えれば、手を抜いたと言わざるを得ない「仕事」であった。
「な…なにしてくれてんだよお前…?」
「いやァ、犬っつうから
「なんだよ…そ…れ―――」
全身の弛緩が始まったレイジアの身体が前のめりに倒れた。今際に聞いたマシューの言葉も少なからず彼に絶望を与えたことだろう。何せ勘違いのトンチのていで殺されたのだ、理不尽極まりない。マシューも我ながら性格の悪い事だと渋い顔をする。
しかし、理不尽な理由で少女を死に追いやった彼らにそれを糾弾する権利ははたして存在するだろうか。外道に相応しい地獄道へと堕ちた遺骸を一瞥し、マシューは物陰に隠れていた黒い野良犬に干し肉を餌付けするのだった。
連れの二人がどうなったかなど知る由も無いブルズは、未だ栗毛の犬を追っていた。彼も今やレイジア同様色町の外。それどころか湾岸、開発中の空地まで来てしまっていた。夜の潮風はこの時期でも冷気を持ち、彼の頭を冷やす。我に返ったブルズは、さすがにムキになって追い掛け回し過ぎたと自省する。
しかしその平静は一分も保たなかった。周囲をふと見回すと視界に入るはあの栗毛の犬、そしてそれに餌付けをする小柄な男。これを飼い主と断じたブルズは瞬時に沸点に達し、その男の前へと詰め寄った。
「おいそこのお前!これはお前の飼い犬か!?」
「………」
「このクソ犬が俺の足元に小便引っ掛けていきやがったんだ。飼い主だってんならお前にも責任があるよな?とりあえず土下座しろ。」
「………」
一方的に捲し立てるブルズだが、男は一向に黙して返事をしない。いや、語る言葉すら持たぬと言いたげなほどの憮然とした表情だ。平民はみな自分に傅いて当然と決め込んでいるブルズにとっては、逆鱗を撫でられたも同然の反応である。
「なんとか言ったらどうなんだテメエ!!」
完全に頭に血が上りきったブルズは足元に落ちていた角材を拾い、男目掛けて振り回した。その太刀筋は、腐っても第一近衛師団団員の息子ということなのか、なかなかに堂に入ったものだった。少なくとも同世代の与太者を相手取れば敵は無い程度の腕ではあろう。
しかし悲しいかな、対手はその程度の剣気で御せるような相手では無かった。ただの素行不良とは比べ物にならぬ修羅道を歩み幾多の命のやり取りを経験したWORKMAN―――ギリィ・ジョーにとっては、少しは出来る筈のブルズの剣捌きも素人のそれと大差無かったのだ。
矢継ぎ早の連撃を、挑発するかのように紙一重で躱すギリィ。しかし逆上し必死の形相を見せるブルズとは対照的に、その表情は心ここに在らずといった雰囲気である。実際、彼の意識は対手に向いていなかった。
(そう…これが俺の選んだ道なんだ、レイナ……)
ギリィの瞳は天国の少女に向けられていた。そして、嘘を信じたまま逝った少女に弁明するかのように、自分がその「道」を選んだその日の事を弁明するかのように思い出していた。
時は輝世暦313年、夏の夜。ギリィは、親しくなったパン屋の主人サンファを自殺に追い込んだ悪徳金貸しゾーラを衝動のままに刺し殺した。しかし直度、本来この夜にゾーラを殺す筈であった殺し屋に捕縛され、彼らのアジトと思しきアジトに連れていかれた。
見た目の割に頑強な黒糸に縛られ身動きが取れぬ彼の目の前にいるのは、州衛士の青年、露出の多い革装束に身を包んだダークエルフ、そして今しがたやって来たガリア教の神父。そして、リーダーと思しきこの男は他の二人に事情を聞いていた。
「なるほど。貴方たちが着いた頃にはもうこのギリィさんがゾーラを始末していた、と。」
「ああ、俺もこの『仕事』初めて三年になるが、流石にこんな事ァ今までに無ェからな。一応神父様にお伺いだけは立てとかなきゃと思ってよォ。」
「………それと、頼み料の今後。」
「馬鹿ッ!それは言わなくていいだろうがよ!」
言い争いを始めた二人はさておいて、神父は自分たちを出し抜いたという男を見据えた。ギリィも負けじと睨み返すが、その細目からわずかに覗く瞳は自分の内側も何もかも見透かしていそうな異質さが感じられ、内心気味が悪い。そして、神父はギリィに尋ねる。
「何故、ゾーラを殺したのですか?」
当然と言えば当然の疑問であった。確かにゾーラはいつ誰かに殺されても文句の言えぬ悪徳の男だ。だが神父の調べた限りではギリィは彼の被害に遭ったということもない。ならば正義感や義侠心の類で人を殺したというのだろうか、神父はそこが引っ掛かっていた。
「…サンファの仇討ち、とでも答えたほうが聞こえはいいか?」
「と仰るということは違うということですね?では本心は?」
「ただ単純に、あんな野郎がのさばっていることに我慢がならなかっただけだ。ゾーラだけじゃねえ、世の中クソみてえな輩が多すぎて反吐が出そうだ。」
そう答えるギリィの瞳に、神父は自分たちに似た何かを見出す。義理人情の域を越えた、単純なまでの悪への嫌悪。殺人という最も原始的な罪を背負ってでも、法においては赦される外道にかかる罰を与えずにはいられない漆黒の衝動。素人だてらにゾール暗殺を成功させた手腕と併せ、神父の中にひとつの考えが浮かぶ。
「さて、どうでもいいが俺は口封じに始末されるんだろ?なら一思いに殺ってくれよ。いい人が泣きを見るこんなクソだらけの世界、こっちから御免だしな。」
続けてギリィは吐き捨てるように言った。半ば自暴自棄の発言、しかし神父はそれを許さなかった。
「いいのですか?まだこの世界には貴方のお嫌いな連中がまだまだのさばっているというのに。このままでは逃げたも同然ですよ?」
「へっ、自分ならそいつらをどうにかできるとでも言いたげだな。」
「ええまあ、我々はそういう稼業ですので。」
この世の悪を掃する存在とは大きく出たものだ。そのスケールの大きさには驚かされたが、見れば三人組の零細殺し屋ではないか。誇大妄想もいいところだとギリィは鼻で笑う。
「はっ!じゃあ何かい?お前らは物の本に出てくる善玉か何かなのかい?」
「いえいえ。勇者アランほどの絶対善ならともかく、我々市井の善意など悪の食い物に過ぎませんよ。」
「所詮悪の潰える時など、他の強大な悪にいいように使われボロ頭巾のように捨てられる時ぐらいでしょう。そしてその強大な悪も、もっと巨大な悪に利用され捨てられ、そのもっと巨大な悪も更に巨大な悪に―――といった具合ですよ。今この世で、悪を潰せるのは悪のみ。」
「なれば世の悪を掃する方法はただ一つ。全ての悪の生殺与奪を握る程の、一番の悪になるほかない。」
「我々の名はWORKMAN。誰かの恨みを以て悪党を殺すこの世で一番の悪党です。」
「ま、裏稼業って都合上公権力にはからっきしだがなァ。」
「………そういうこと言わない。」
茶々を入れダークエルフに窘められる州衛士の姿は、最早ギリィの視界には入っていなかった。それほどまでに神父の話は衝撃的だった。そのショックで呆然自失としていると、自分を拘束していた黒糸が緩み、体が自由になった。同時に、目の前に差し出されたのは神父の右手。
「貴方にもしその気があるのなら、我々の仲間になりませんか?さすれば今夜のゾーラ殺しの一件も、仲間として隠匿できますが。」
この世で一番の悪党を名乗る神父は、とてもそうとは思えない温和な笑顔でギリィを勧誘した。州衛士とダークエルフはリーダーの予想外の行動に目を丸くしている。
しかし彼ら以上に驚き戸惑ったのはギリィであった。確かに世の善があてにならぬのなら、己の中の潔癖なまでの悪への嫌悪を鎮める術はそれ以外に存在すまい。しかしそれは自身が嫌う悪と同化するという本末転倒の術。神父の笑顔は正に天使の顔をした悪魔の誘い。理性・衝動・保身・プライド・父への憎悪、あらゆる感情が荒波のように寄せては引き心を乱す。永遠とも一瞬とも言える思考の末ギリィは――――
(そして俺は、神父の手を取ったんだ。)
気が付けばギリィはいつの間にか右手の腕輪を長針に変え、豪雨の如き乱打の中をかいくぐりながらそれをブルズの額に突き刺していた。一番の悪党になる道を選んだギリィは今や、この程度の相手ならば意識を外したままでも斃すことができるまでに腕を高めていた。ダメ押しとばかりに念を込めれば、ブルズの傲慢な思考を司る脳は搔き乱され熟れすぎた果実のようにぐちゃぐちゃになる。この一手も、ギリィがWORKMANの「仕事」をこなすうちに覚えた確殺の技。当然、ブルズの命脈はここに尽き、ギリィが長針を引き抜くとばたりと仰向けに倒れ静かになるのだった。
(まあ、こんなこと教えたところで、心優しいお前には土台無理な話だよな…)
栗毛の野良犬はいつの間にか帰っており、だだっ広い空地のど真ん中には、ギリィと死体がぽつんと佇んでいる。空には満天の星々。あの中の一つが天に上ったレイナなのだろうか、ならば見ていてくれただろうか、そんなことを思いながらギリィは夜空を見上げていた。
悪ガキ三人組が何者かに殺されたとの報は、翌朝には既に街中に広まっていた。親の権力をかさにかけた暴虐三昧の少年たちがもうこの世にいないという事実に、ある者は溜飲を下げ、またある者は安堵した。そしてそれはどうも、彼らの親たちも同様であったようだ。新聞社にはあまり大々的に広めないように圧力をかけ、葬式も家柄らしからぬごく簡素なもので済まされる。あるいは彼らもまた、手間のかかる恥ずべき馬鹿息子として扱いにこまっていたのではと邪推したくなるような死後の扱いであった。事ここに至りて、同じ苦しみを連中の親にも味あわせたいというファイエットの願いは、不発に終わったのかもしれない。
そしてギリィはこの日、教会の墓地に来ていた。目当ては勿論レイナの墓。墓前には真新しい生花が添えられている。神父の話では、父親が毎日のように訪れ花を替えていくのだという。それを聞いたギリィは申し訳の無い気持ちでいっぱいになった。
「なんだよ。親父さん、ホントにいい人じゃねえか。」
「なのにそんな人を悪者呼ばわりした挙句、俺みたいのに惚れるなんざ見る目が無えにも程があるぜ…」
今際の精神を共有しわかったレイナのギリィへの想い、それはただの尊敬ではなく慕情であった。しかも恐らく齢や彼女の人となりから見ても初恋と見て相違ないだろう。そしてそれだけに、凌辱され操を奪われた時の絶望たるや推して知るべしであった。そう、自殺を選ぶのも仕方がないほどに。
「昨夜見てわかっただろう?俺はいい先生なんかじゃない。お前の嫌いな腐れ悪党の上、大噓つきのコンコンチキさ。」
ギリィは自嘲した。自分は本来ならあのような純真な少女に愛されるべき男ではない。しかし上っ面の綺麗事を並べ半ば騙すような形で彼女の気を惹いてしまった。良かれと思ってしたことが結果最悪の事態に転じたことに、己の因果の重さを感じやるせなくなる。
「今度生まれ変わるなら、俺みたいのじゃなくて、もっといい奴に恋するんだぜ…」
ギリィは墓にお供えを添えた。それはレイナに初めてあげたものと対になるフェニックスの髪飾り。彼女が気に入り、そして自ら命を絶つに使った髪飾りは既に墓前に供えてある。二つ並べば、あたかもつがいに見えるようデザインされていた。
死しても灰より蘇るフェニックスの夫婦が表すは、来世での幸せな男女関係の祈願。もし転生というものがこの世に存在するなら、生まれ変わったレイナの恋愛に幸多からんことを。不幸な恋心を抱いたまま逝った少女に対しそのようなことを願いながら、ギリィは墓前に手を合わせるのだった。
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