其の三

イエネズミ


 ハツカネズミ・クマネズミなどに代表される、人家やその周辺に生息するネズミ類の総称。時には病原菌のキャリアーとして表沙汰になることはあるものの、往々にして陰に潜み人の生活の間近で生きている。それは多少の差異はあれど古今東西世界各地でも同様の事。勿論、我々の住む現代日本もそうであり、ここ異世界大ラグナント王国でも―――





「どういうことだ!絶好の機会であのようなしくじりを!」

「まあ急くな。前にも言っただろう?策は十重二十重に用意していると。」


 豪邸とはいかぬまでもそこそこに大きな家、その一室に二人の男一匹の犬。太めの中年男は憤りをぶつけてはいるが、相対する隻眼の男と猟犬はどこ吹く風と言った態度であった。


「先の騒ぎも『迷い込んだ野良犬が偶然壇上に跳びかかっただけ』と処理されたと聞いている。こちら側に疑いが向く要素は無いだろう、なあドラッテ殿?」

「しかしだゼボップ、それでもマクシマルの警護は強化される。」

「正面のは、な。俺の愛刀マフトフは影からの闇討ちを得意とする。あれの失敗のおかげで警護が前面に集まるならそれは願っても無い。」


 ゼボップは傍らに座らせたその愛刀の頭を撫でた。しかし飼い犬らしい媚びたリアクションは無い。その怜悧な顔つきからは、犬だてらに喜びはおろかおよそ感情というものが無いようにすら思える。


「展開としてはいきすぎなほどに良好だよ。今夜にもマフトフをマクシマルの屋敷に潜り込ませ、仕事を完遂させよう。ひいてはそちらも、成功時の追加報酬のほうの用意を忘れずに…」

「ああ、わかった…」


 そう言い残し、隻眼の男は愛犬を連れ部屋を出た。その瞬間、鉄面皮を心がけていたゼボップの口元が緩んだ。暗殺稼業として、成功もしきらぬうちに皮算用を立てるのはご法度ではあるが、この状況は上手くいきすぎて思わず笑ってしまう。


 唯一懸念する事柄があるとすれば、アシュリーを始末した場に居合わせたクオータービーストの娘か。何故か都合よく州衛士まで追って来ていたせいで始末には至らなかったが、まあ小事だろう。あの齢の子供の言う事を馬鹿正直に信じる州衛士もおるまい。よしんば信じて調査に乗り出したとしてもその前に仕事は完了する。盤石の大勢を前に、かような鼠一匹の如き心配事など何ら影響はしまい。


―――しかしこのゼボップという男、像に立ち向かった鼠一匹がその鼻に入り息を詰まらせ斃した、という逸話を知るまい。そう、事態はまさにその鼠によって瓦解を始めていたのだ。





「…なるほど。確かにそのドラッテという男の屋敷で連中を見かけ、そのような会話をしていた、というのじゃな?」


 飲食店の裏手、生ゴミ捨ての大きな桶の前にかがみこみ、カーヤ・ヴェステンヴルストは何かに話しかけていた。会話の相手はゴミ漁りに来た小さなハツカネズミ。この鼠はドラッテ邸の軒下に巣を張っており、いわばそこの住人。言葉が交わせるのならこれほど信用に足る情報源もあるまい。


「重要な情報、感謝する。今は金も無いのでこれぐらいしか礼も用意できんが、受け取ってくれい…」


 そう言って袖の下から取り出したのは固くなったパンの塊。昼食として神父から渡されていたものを、自分では食べずに取っておいたものだ。鼠はそれを咥えると、もう用は無しとばかりに去って行く。見送るカーヤの瞳には、闘志と不安がないまぜになったかのような色が渦巻いていた。





 そして、日は暮れ夜の闇がザカールを包む。昼の仕事の者は明日のための休息に入り、夜の仕事の者が蠢き出す時間。飲み屋、風俗、殺し屋、そしてWORKMAN。


「―――というわけじゃ。奴ら今夜にも次の手に打って出る。それを止めるつもりなら今から行動するしか無いぞ?」

「お前に仕切られるまでもねェよ…」

「………というか、鼠の言う事に信憑性は有るの?」

「野に生きる獣は嘘をつかん、というか知恵ある者と違って嘘をつけん。おぬしらには分からぬことだがな。」


 得た情報が得た情報である、WORKMANはその夜に火急に招集を受けた。自信を持って話すカーヤとは対照的に、マシュー・リュキア・ギリィの表情は固い。やはり畜生から聞いた話などを十全に信じることは難しいのだろう。マシューに至っては、見るからに虫の居所が悪い。しかし神父だけは、何かの確証があるかのようにその情報を聞き入れていた。


「ご苦労様ですカーヤさん。まさかこれほどに早く的の存在が判明するとは。いやはや、獣と話が出来るという貴女を誘った私の慧眼もなかなかなものでしょう?」


 その顔は何時もの笑顔を通り越し、不自然なほどにご満悦であった。確かにこちらの存在を知っている、さりとて始末に値しないのなら、こちら側に引き入れるという判断もありだろう。実際そのおかげでこうまで早く真相に辿り着くことが出来た。しかし今回の「仕事」の発端はそもそもその新入りの我儘を半ば無理やり聞き入れたようなものだ。何を企んでいるのかと、怪訝な顔を見せる三人が思うのも已む無きことだろう。


「では今回の的は、下院議員ドラッテ・オリウス、犬使いの殺し屋ゼボップ、そしてその飼い犬マフトフ。事実上、頼み料はありませんが。」


 そのような仲間の疑いを知ってか知らずか、神父は話を進める。そしてカーヤのほうを振り向いた。その笑顔からは先程までの呑気な様子は消え、切れ長の瞳には無情の光が宿っている。


「ではカーヤさんのほうの条件も再確認しましょうか。」

「うむ…」

「今回の『仕事』、以降の貴女の取り分から前貸しという形ですので、暫くは無償で我々の為に働いてもらいます。『仕事』上の頼みとなれば首を横に振る権利はありません。」

「………」

「足抜けも許しませんし、この稼業のせいで命を失うことになっても当方は関与しません。逆に貴女のせいでWORKMANの存在が公になろうとした場合、今度こそ始末します。無論、このようなイレギュラーな依頼は今回の一度きり。宜しいですか?」

「う、うむ…一度聞いてわかっていた筈じゃが、改めて厳しい条件じゃのう…」

「人ふたりと犬一匹の命と引き換えなのです。その重みを考えればこれでもまだ不足かと。」


 カーヤは思わず顔をしかめた。確かに頼みを聞いてもらったが最後、二度と逆らえなくなるかのような契約。覚悟は決まっていたとはいえ、一時の友の死を憐れむ感情で受けるには厳しいものがある。そんな心象を反映するかのように、霊安室に重い沈黙の時が流れた。


「まあ、あの副議長さんが死んじまったら景気も悪くなるだろうし、となりゃ表仕事もあがったりだ。明日の銭の為と思ってひと『仕事』してくるかぁ!」


 ばんっ、と膝を叩く音が沈黙を破る。と同時に大声を出したギリィ・ジョーが腰掛けていた空の棺桶から飛び降り、「仕事」に臨むべく霊安室を後にした。


「………表仕事は関わりないけど、それが『仕事』なら。」


 続いて、石壁にもたれかかっていたリュキアが一言言い残し部屋を出た。しかし神父とマシューはどういうわけかぴくりとも動かない。やがてばつが悪くなったのか、カーヤが一礼しそそくさげに退出した。



「ベルモンドさん、貴方は行かないのですか?」

「……なあ神父様よォ、何であのガキをWORKMANに誘った?」


 長い沈黙の後、マシューが問うたのは当然の疑問だった。


「秘密を共有することで秘匿性を高める、獣の言葉を解する能力が役立つ、その2点では不足ですか?実際に役立ちましたし。」

「そいつァ結果論だ。大体密偵ならリュキアとギリィでも事足りてただろ。それをよりにもよって、あんな世間知らずなガキによォ…」


 マシューはぼさぼさの髪を掻きながら、吐き捨てるように言った。言葉だけを聞く限りでは、これまで散々迷惑をかけ倒した子供を仲間に加えることに反対しているのかと思ったが、彼の表情を見る限りそのような単純な話ではないらしい。神父もそれとなく察していた。


 WORKMANに加わるということは、血の臭いに溢れた地獄への一本道への道連れにするのと同義である。人の恨みの為と言ってはいるがやってることは人殺し、因果は巡っていつかは自分も野垂れ死に、それが定めだ。そのような道に子供を引きずり込んだことが、マシューにはどうしても解せなかった。しかも、魔族として実年齢はこの中でも一番長いのかもしれないが、その長命を思わせぬほどに世間知らずで純真な少女なのだ。そんな少女であるということも、マシューの心にしこりを残した。


「この『仕事』、やるにはやるがそのんとこ説明してもらわねェと、気になってしくじるかもしれねェぜ?」

「なるほどそうでしたね、ベルモンドさん。」


 ここ半年におけるマシューの「仕事」内容を見れば、彼がそういう考えに至ることは神父も理解できたことだろう。やがて観念し、優し気な語り口で説明を始めた。


「…実のところ、彼女を迎えたのは貴方達の為でもあるんですよ。」

「俺達の為?」

「ええ。貴方達はここ最近の『仕事』によって哀しみを背負い過ぎた。人の恨みだけを晴らすだけでなく、己の人生に関わる『仕事』が多すぎた。そしてその度に、その悲しみや憤りを隠そうとWORKMANの掟に縋る…」

「………」

「掟だから仕方が無い、決まりだからそうせざるを得ない、そう思い込んで心を殺す。その行きつく先は考える頭も感じる心も無くした殺しの機械人形オートマトン…そこまでは私としても望むところではありません。そうならないように、あの娘のように心のままに泣き怒れる者を傍に置いておいた方がいいのではないか、と。まあ老婆心ですかね?」


 そう語る神父のうっすら覗く瞳からは、珍しく聖職者らしい慈しみが見て取れた。むしろこちらが機械のようだと思っていた表情乏しき男の意外な一面に、マシューもすっか毒気を抜かれてしまった。はぁ、と溜息を一つつき、再び頭を掻く。


「ホントに大きなお世話だぜ、ったくよォ…あと俺の前で機械人形オートマトンって言葉、不用意に口にするんじゃねェよ。」

「ははは、これは配慮が足りませんでしたね。」


 まったくもってトラウマを揺さぶられる日だ、そんなことを思いながらマシューは苦笑いのまま、「仕事」へと赴くのだった。





 その夜は新月だった。外は月明りも無く、不気味なほどに暗い。何かよからぬことが起こるのならば、たぶんこういう夜なのだろう、万人にそんな予感を抱かせる夜であった。そしてまさに今夜、よからぬことを企んでいる男がひとり、丁度風呂から上がったところだった。


 ドラッテはほんのり赤く染まった丸い体をすぐさまバスローブで包み、自室へと就寝に向かう。彼が期待するのは明日の朝刊、その楽しみを胸に抱いて眠りにつくつもりだ。庭に面した吹き抜けの廊下には外の寒風が吹きこむが、風呂上がりの上気した肉体には苦ではない。


 しかし彼の期待は結実しなかった。いや、明日の朝刊を見ることも叶わなかった。


 廊下の天井には、WORKMANギリィ・ジョーが待ち構えていた。天井の戸板の窪みを右手の尋常ならざる握力で掴み、貼り付く。もし今夜が新月の闇夜でなくとも完全に死角、意識の外での待ち伏せ。その闇に潜む小柄な暗殺者の姿を、浮かれ気分の素人に気付けと言うほうが無理な話であろう。


 そして真下をドラッテが通過した瞬間、手を放し落下。そのまま彼の背に取り付き、左手で顔面を覆った。上機嫌から急転落下の襲撃に、ドラッテは慌てふためいた。しかし背中に付いたハーフリングの執拗な拘束を振りほどくことは出来ず、その場で膝をつく。


 州の実権を握る大物の命を狙っているのだ、報復や反撃をまるで覚悟していなかったというほど、ドラッテも楽天家では無い。それにしても早すぎる。演説会での襲撃は関与を疑われていなかったのではないのか?ゼボップが仕掛けているのはまさに今の今ぐらいだろうに、まさか失敗し即報復が来たとでもいうのか?混乱しもがきながら、口を塞ぐ暗殺者の左手を何とか振りほどき叫ぶ。


「モッ…モガッ……なっ、何者だ!?マクシマルの手の者かっ……!?」

「残念ながらそんな御大層な使命は無えよ。ただ雌犬一匹の恨み…アンタにはそれぐらいが―――分相応だ。」


 ギリィは返答するが早いか右手に握っていた長針を、標的の首筋に突き刺した。脂肪が厚くやや入りが浅かった感覚は有ったが無事延髄まで到達。そうなればもう後は「意志ある金属」の流動性に任せるがままである。念を込め、髄を走らせ、脳を掻く。やがて、顔を抑える左手で生気が感じ取れなくなった。即死だろう。


 針を引き抜き死体を見やると、随分と絶望したかのような顔をしていた。死に際にギリィの言葉が聞こえ、己の存在の矮小さを思い知らされたからであろうか。しかしそのようなことは、暗殺者には無用の興味であった。ギリィは辺りを見回し人の目が無いことを確認すると、廊下から庭に出て、塀を飛び越え夜の闇へと消えていくのだった。





 山の手へと続く遊歩道、ドラッテに今夜決行と宣言し屋敷を出たゼボップとマフトフは、ここで夜が来るのを待ち構えていた。計算通り今夜は月の無い夜、事を起こすには絶好の日取りである。ここまでとんとん拍子に進んだ仕事の総決算を今まさに成そうとしていた。


「標的の顔、家、そして寝室…すべてわかっているなマフトフ?」


 隻眼の飼い主の呼びかけに、猟犬はこくりと頷く。


「よしっ!行けっ!」


 そして号令と共にマフトフは矢のように飛び出した。文字通りに、標的の命を射抜く矢として。


 人っ子一人通らぬ夜道で、ゼボップはマフトフの闇に消えゆく後姿を眺めていた。ここからマクシマルの邸宅まではかの犬の足で5分ほど。屋内に侵入し暗殺を完遂するまでは、滞りなく進んで10分ぐらいだろうか。そして帰り道でまた5分、合計でおよそ20分ほど待つこととなるだろう。さほど長い時間でもない、ゼボップは道端の岩に腰掛けて待とうとした。


 しかし、腰を下ろそうとした瞬間、ゼボップは殺気を察知した。このような稼業に生きる者である、同業者の気配には敏感なのは当たり前だ。踵を返し、辺りを見回す。見渡したところで植樹しか目に入らぬが、何者かがその影に隠れこちらの命を狙っていることは明白であった。


「どこのどいつの差し金かは知らんが、大方犬を放った直後の今を好機と思ったのだろう?」


 ゼボップはその何者かに向けて話し始めた。返答らしい返答は無い。


「犬さえいなくなれば俺は無防備…とでも踏んだようだが、生憎それは楽観と言わざるを得ない。この世界に生きるのだ、俺とて白兵戦の一つや二つはこなせる。」


 そう言いながら懐からナイフを取り出し、掌の上で転がした。いかにも多くの血を吸ったかのような、気味の悪い煌めきを放つ短刀。よく手入れされたそれを見れば、彼の言う事がハッタリではないということもわかろう。


「さあ、来い。犬を使うしか能の無いロートル暗殺者と侮ったこと、後悔させてや―――」


 なおも続くゼボップの威嚇も意に介さず、何かが彼の声を奪った。道端の樹上に身を隠すリュキアの放った必殺の黒糸が、その首を捉えたのだ。この光の無い闇夜で、隻眼の男にこれを見切れというのも酷な話であるが、先程までの威勢と比べ実にあっさりと間合いを取らせたことにリュキアも拍子抜けする。


 だからといって手を緩める気も無い。引き手を絞り黒糸をさらに首に食い込ませていく。情けなくも慌てもがくゼボップも、ようやく糸の存在に気付き、それを断ち切ろうとナイフを突き立てた。しかしダークエルフの怨溢れる黒糸は、なまじっかな刃では断てる気配を見せない。


 機を見切り、リュキアは樹上から飛び降りた。枝に引っ掛けた黒糸が滑車の如く滑り上がり、的の体を引っ張る。やがてゼボップの足は地面から離れ、首を起点に街路樹に吊り下げられた。これ即ち、絞首刑と同じ状態である。


(………やっぱり、犬頼みのロートル暗殺者じゃない…)


 リュキアは黒糸を回収しながら心の中で毒づいた。ゼボップの体は落下し地面に打ち付けられたが、最早痛みを感じることもないだろう。その糸の切れた操り人形のような死体を一瞥すると、リュキアは再び樹上へ跳び、そのまま樹の影を伝って教会へと帰って行くのだった。





 そのような飼い主の無残な死など知る由も無く、マフトフは夜の高級住宅街を駆け抜けていた。時間が時間だけに外を出歩きその姿を見かける通行人は皆無であったが、もし人がいたとしても風か何かが吹いたとしか認識されないだろう、それ程の健脚であった。標的のいるマクシマル邸にはもう数秒もせずして到着することだろう。


 しかし突如、その一陣の風は足を止めた。目の前に立ち塞がったのは襤褸のマントで身と口元を覆った小男。その風貌は明らかに金持ちばかりのここらに住む人間のそれではない。何者が、いったい何用でこのような山の手に現れたというのだろうか。


 マフトフには心当たりがあった。その男の目的などはさすがに気付けはしないが、その目に映る闇の濃さを見れば自分と同類―――暗殺者であることはわかる。そして己に向けられた殺気を見れば、大人しくこの場を素通りさせる気が無いということも。人と獣という別種なれど、およそ10メートルほどの間合いに空気が軋むほどの緊迫感が走る。何人ともこの間に割って入ることなど出来ないだろう。



「待てっ!待ってくれマシュー!それにマフトフも!!」



 いや、割って入る者がいた。尻尾を振り乱しながらマシューの目の前に現れたのはカーヤ。子供らしい空気の読め無さがなせる業であろうか。夜の静寂をつんざくような大声を上げながら、仲間となった男に縋りついた。


「マフトフを殺すのは勘弁してはくれぬか!?」

「………」

「一時の感情で殺してくれと頼みはしたが、今になって思えば息子を死に追いやることはあの母犬の、アシュリーの望むところではないじゃろう…奴とて心ある生き物なれば、母を手にかけたことを後悔もしていよう…のうマフトフ!お前もそうなのじゃろう!?じゃから―――」



ぱぁんっ



 殺し屋たちの領域に踏み込んだ少女はこの決闘と止めようとしていたのだ。そんな少女の心変わりへのマシューの返答は、無言の平手打ち。これまでいくら迷惑をかけられようとも威嚇行為で済ましてきた彼が、初めて振るった暴力。非力な男のビンタなれど成人男性の力、子供の体には十分な衝撃で、カーヤは道の端へと吹き飛ばされた。


「―――今更甘っちょろいこと抜かしてんじゃねェぞ。手前ェももうWORKMANなんだ、腹を括れ。大体そんな大声出したら住人が起きて寄って来ちまうだろうがよォ…」

「じゃが…じゃが……!」

「それにあの犬はなァ―――」


 静かに、しかし腹の底から確実に苛立ちが感じられるような重低音でマシューはカーヤをたしなめた。道端から身を起こしたカーヤは、赤く腫れた頬を押さえながら涙目で睨み返す。突然の暴力に驚きこそすれ、未だ納得はしきれない、そんな意志を含んだ視線であった。


 瞬間、マフトフの体が跳ねた。このやりとりを一瞬の隙と見たのだろう。標的はあくまでマイネル、何者かは知らぬが眼前の同業者に付き合う意味は無い。実に合理的な判断で、マシューとカーヤの間を抜けて目的地に向けて足を跳ばした。


 しかし、カーヤに構うその瞬間さえマシューにとっては隙ではなかった。子供を跳ね飛ばし説教する間ですら、対手への警戒は怠っていない。その動きにいち早く反応していた。むしろ対手への敵意を捨て、間隙をついて逃げようとしたことが、マフトフにとって最大の隙になったともいえよう。


 小脇に差したサムライソードに手をかけ、抜刀のモーションのまま切り上げる居合術。その剣閃が、目の前を弾丸の如き疾さで通り抜けようとする獣の首を捉える。


―――そして光無き夜空に、死の神の名を冠する犬の生首が舞った。





 闇深い林道を歩く影が二つ。ひとりは「仕事」を終えたマシュー・ベルモンド。もうひとりはマフトフの遺骸を抱え、返り血に塗れた魔族の少女カーヤ・ヴェステンヴルスト。マシューはどうせ野良と見分けのつかない犬一匹の死体など捨て置いても問題ないと言っていたが、カーヤはどうしても弔ってやりたいと教会まで運んでいるという次第だ。どちらが魔族でどちらが人間かわからぬやりとりであった。


「何でじゃ…何故なんじゃ……」


 道中、カーヤはずっとそう呟いていた。救えたかもしれない命、落とす必要が無かった筈の命、それが何故このような結末になってしまったのか。己の依頼が発端の自業自得とはいえ、整理できぬ理不尽さを噛み締め泣きながら歩く。顔に付いた犬の血が涙でまだらに滲み、幼い顔をひどく醜く汚していた。


「俺が聞く耳持たなかったのは勿論としても、マフトフだってお前の話を聞こうとはしなかっただろうぜ。」


 傍らで泣く少女に無視を決め込んでいたマシューであったが、道半ばあたりで何か思うところがあったのか口を開いた。


「こういう『仕事』をしてると、同業者ともよく顔を合わせる羽目になったりするんだ。その中にはなァ、生まれてこの方殺し屋として育てられてきたって奴も少なかァ無ェ。世の常識も倫理も知らず、ただ何者かの殺しの道具としてのみの存在…マフトフもそいつらと同じ目をしていたぜ。」

「………」

「そんな野郎が母親殺したことを気に病むと思うか?死を悼む感情を持ち合わせてると思うか?お前の青臭ェ説得なんざ屁にも思わねェだろうぜ。」

「…じゃが!それはそのように育てたあの片目の男が悪いのじゃろうて!親元から引き離し殺しの道具として育てたあの男の責じゃろうて!ならば猶更…猶更……!!」


 カーヤがひきつけを起こしそうなほどに泣きわめき吐き捨てたのは、ひとつの命を歪めた男への怒り。わからぬ怒りではない。ではない、が、世界はそれで割り切れるほど単純でもない。しかし、そのシンプルな怒りがマシューにはあるいは羨ましく思えたことだろう。


「ああそうだ。だからそういう連中を見かける度に俺はこう思うんだ。『ああ、俺ァ生まれつきの暗殺者じゃなくて中途採用で良かった』『ガキの頃いい親に育てられて良かった』ってなァ。だからお前も、天国のおっ母さんに感謝するんだぜ。そして―――」



「―――今感じてるその理不尽さ、死んでも忘れるんじゃねェぞ。俺たちがそれを忘れないためにも、な。」



 マシューはそっと憔悴するカーヤの肩に手を置き、引き寄せた。返り血が付くのも気にせずに。そしてその掌は、未だ殺しを生業とするものとは思えぬほどの暖かみを湛えていた。





 下院議長選挙は下馬評の通り、州議長の肝いりの保守派議員が当選した。立候補者のひとりが自宅で急死したという事件もあったが、大勢にはさしたる影響を与えなかった。悲しいかな、ドラッテ・オリウスという男の影響力は事を起こさねばその程度だったということだろう。ゼボップの死も裏稼業の人間らしく闇から闇へと葬られ、人々の俎上にのぼることも無かった。ザカール州では何一つ代わり映えの無い日常が続いていた。


 カーヤはあの後マフトフの墓を作り、それから教会を出て行った、とマシューは聞いている。それから数日、彼女を見かけていない。足抜けは許さぬと言っていた神父も特に追う様子は無かった。そりゃ失踪も已む無しだ、あのような世間知らずをWORKMANに加えようということが土台無茶な話だったのだ、とマシューは思いながら見回りを続けていた。


 見回り順路は自宅の周辺へと差し掛かった。ふと、今朝弁当を貰い忘れていたことを思い出したマシューの足はそのまま自宅へと向かう。門前に差し掛かると、ぱんぱん、と布団を叩く音が響く。メイドたちが大掃除の最中なのだろう。耳をすませば彼女たちの会話も聞こえて来た。


「お姉様―、暖炉のすす払い終わりましたー。」

「お疲れさま、フィラちゃん~。キリもいいしそろそろご飯にしましょうか~。そちら床の水拭きも終わりましたか~?」

「うむ、あと二往復程度で終わりじゃ!」


 マシューの歩が止まった。メイドたちの聞き慣れた声に混じる、聞き慣れない声。いや厳密には、最近嫌というほど耳にしてきたがここに存在するのは不可解な声と言うべきか。子供らしいかん高い声と、不釣り合いな古風な口調。思わず家に駆けこみ確認すると、そこには予感の通り、狐のクオータービーストよろしく耳と尾を生やした少女が床を掃除していた。


「かっ、カーヤ!何でお前が俺の家に!?」

「なんじゃマシューか。まだ勤務時間中じゃろう。何故帰ってきておるのだ?」

「質問してェのは俺のほうだよ馬鹿!一体何がどうなって…」

「いいえ、質問したいのは私ですよ?何ですかその言葉遣いは。」

「古代レブノール訛りは矯正しなさいって、私どもの父上も日頃から注意していたじゃないですか~」

「あっ、うん、すまない…」


 いるはずのないWORKMANの仲間を目撃してつい裏の顔を覗かせたマシューを、駆け付けたメイドたちはたしなめた。条件反射で平謝りしてしまうが、実際はそれどころではない。


「いやそうじゃなくてね、この娘は一体何なのかということをだな…」

「何でも屋さん、だそうですよ~。最近街外れにお店を構えたそうで~。」

「ちょっと気合を入れて大掃除したかったので、人手が欲しかったんですよ。」


 慌てふためくマシューをよそに、メイドたちは事も無げに答えた。視線をカーヤのほうに移すと、何故か自信満々で無い胸を張っている。


「借金をこさえる我が身じゃ。いち早く返済もしたいし、貸しのある教会にいつまでも厄介になるわけにはいかんからのう。だので自立して商売を始めたという次第じゃ。」

「聞くとは無しに聞いたところでは、ご両親も亡くして一人で借金返済をしなければならないとかで…」

「こんな年端もいかない娘なのに、可哀想ですよね~…」


 フィアナはハンカチを取り出し目元を拭きながら言った。掃除の手伝いならもっと力持ちに任せればよかろうに、完全に情にほだされて雇ったのだろう。マシューは口をぽかんと開けながら冷ややかな視線を送っていた。


「それに方々に散って生活していたほうが、それぞれ『仕事』にぶつかる確率も高くなるだろうからのう。神父もそう言っておったからからこその独立じゃ。」

「ばっ、馬鹿!こいつらの前で『仕事』のことは言うんじゃ…」


「仕事?…まあ!州衛士隊のお仕事にも関わりがあるのね!」

「こんな幼いのに州衛士にも信用があるなんて、本当に偉い子ですわ~…」



 フィアナたちの勘違いで事なきは得たが、この不用意な発言はどれほどマシューの心をすり減らしたことだろうか。これからこの能天気な子供の言動に気を付けながら、「仕事」のいろはを教えて行かなければならない。そう考えると、強いとは言い切れぬ胃腸にひときわの痛みが走るマシューであった。


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