愚者の炎にくちづけを

津島修嗣

第一部 愚者の炎にくちづけを

第一話 発火 ‐IGNITION‐

発火〈1〉

 




 愚者の炎にくちづけを





 1.発火IGNITION





 炎はいつだって肉体の内側からやってくる。

 自分の胸を掻き抱く形で座り込んだまま、鮫島さめじま朱空しゅらは携帯型デジタル音楽プレーヤーの音量を上げた。



  ――愛しい人よ、殺してやる。

  ――愛しい人よ、すべて殺す。殺しつくしてやる。



 大きめのヘッドフォンからは、解散して久しいロックバンドの奏でるラブソングが垂れ流しになっている。

 これはキラーチューンだ。一度聞いたら忘れられない曲を表す言葉。

 躍動する音の本流に身を委ね、呼吸を重ねる。左手で口元を覆って、ゆっくりと息を吐く。湿気で前髪がくるりと巻いた。

 ……寒い。

 胸の奥底が凍えて仕方がない。

 吐く息は確かに白い。けれど、雪の季節にはまだ遠い。乾いた空気には冬の匂いがかすかに混ざりはじめているのみだ。

 ……寒い。

 とても寒い。寒くてたまらない。

 でも、これは自分だけが感じる寒さだ。

 朱空が寒さを覚えるほどに彼の生み出す炎はよく燃えた。

 こういうときは、まずきまって指先がぴりりと引きり、眩い稲妻が一筋はしる。待ちきれないとでもいうように、炎が身体から勝手に溢れ出すのだ。

 そして、それは寒ければ寒いほどよく燃える。自分ではどうしようもないくらいに炎は強くなる。

 堪え性がないのはよくないことだ。亡くなった両親も、学校の先生だってそう言っていた。

 それでも朱空の唇は勝手に歪んで、へたくそな笑顔をつくっていた。

 そうとも。実際待ちきれない。

 それに燃やすのも、燃やして灰になるのを見るのも、本当は大好きなんだ。

 廃倉庫の硝子窓から覗くすすけた空は、抜けるように蒼かった。





 ――今日もよく燃えそうだ。





 〈1〉




 火の手が上がってしばらくすると、倉庫は赤黒い炎に包まれた。

 火が内側へ渦巻くように燃えている。あれは古い木材が造る色で、本来の朱空の炎はもっと白く透き通っている。

 集まってきた野次馬に混じって、当の放火犯である朱空本人も火事を見つめていた。

 建物の中に人がいないことは確認済みだった。

 どうしても我慢できなくなったときに、人のいない廃屋を探して火をつける。

 指紋や毛髪、足跡でさえ燃えてしまうから、証拠は一切残らない。それが朱空のやり口だった。

 最初はゴミや廃材から始まって、いまはこれ。エスカレートしていると言われればその通りだが、同時により大きな炎を生み出し、操るすべを覚えていった。今では自在に発火を制御できるようになっている。

 野次馬の様子をじろじろ見たり、消火活動を愉しげに眺めるなんてことはもちろんしない。

 疑われる行動は取らないよう、あらかじめ本やインターネットで放火嗜癖しへきについては調べてあった。足がつくこともないように、時間も場所も選んでいるつもりだった。

 甲高い悲鳴のようなサイレンが近づいてくる。

 今日はもう帰ろう。そう思ったときだった。

 ……突然背中がふわりと温かくなった気がした。

 妙な気配だと思ったときには既に手遅れだった。


「きれいね。それによく燃える」

「……ッ!?」

「だって、そうでしょう? あれは実にいい炎だ」


 背後から掛かった声に、朱空の背筋がぶるりと震えた。

 ひどく甘ったるくて、やけに官能的な声。


「きみは、〈念動発火パイロキネシス〉の異能保有者。そして目の前の火事はきみの仕業。そうだね、鮫島朱空くん?」


 ぎょっとして振り向くと、そこには黒いトレンチコート姿の女が立っていた。

 たぶん朱空よりも一回りくらい年上だ。

 澄んだスミレ色の瞳は、朱空ではなく、朱空の生み出した炎の渦を映していた。心をさらってゆきそうな大きな瞳だった。その眼がすうっと細められた。


「前を向きなさい。怪しまれてしまうよ」


 朱空はさらに驚いたが、思わず言うとおりにしていた。

 ……だって後ろにいたのは、あまりにもきれいなひとだったから。

 すらりとしたなまめかしい姿態。雪を欺くばかりの白皙はくせきの美貌。

 透き通って色のない幽鬼のような肌に、ぽってりとした紅い唇。涼しげで怜悧な目元。でもそこには夢見る眼差しが宿っている。

 とりわけ印象的なのは、しっとりと青みを帯びた長い黒髪。光が干渉しあって色づく鴉の羽と同じ、複雑な黒だ。

 目の前に現れたのは、魂ごと全身くまなくとろかされてしまいそうな、凄絶な美女だった。


「鮫島朱空くん。わたし、あなたを誘惑しにきたの」

「は?」

「勧誘ってことさ。まあ、誘惑でも間違いじゃないか。鮫島くん、きみが言うこときかない子なら、身体を使った手段にでる予定だから」


 女が胸を張ると、整った双丘がたゆん・・・と揺れた。

 コートを着ていてもわかるくらい大きな胸だ。正直、丘というより山という感じの迫力すら感じられる。

 今、朱空の視線をどうしようもなく引き付けてしまう不可思議な引力が生じていた。目の前につきつけられているのは、おそろしくも立派な肉の凶器であった。

 しかしこの女、ぜったいわざとやっている。


「……なんだよ、あんた」

「わたし、みなみつ。日向ひむかい水蜜みなみつ。ハニーって呼んで」

「ふざけんな! 呼べるわけないだろ!」


 我に返った朱空が立ち去ろうとすると、女は素早く腕を掴んでそれを制した。

 有無をいわさぬ態度だが、あくまで物腰はおおらかだ。


「ねえ。さらったりしないから、まずはわたしの車に乗ってくれる? じゃないと、ちょっと面倒なことになりそうなの」


 わかる、と付け足す。朱空が首を横に振れば、視線だけむこうへ、と水蜜は言う。

 言うとおりにして様子をうかがえば、道路脇に停まった黒いバンから男が二人降りてくるのが見えた。彼らはこちらに向かってわき目も振らずに近づいてくるではないか。

 同業者、水蜜が無感情に囁いた。


「〈念動発火〉は希少な能力だからね。きみ、厄介事って嫌いでしょう。はっきりいってわたしも相当面倒くさい女だけど、向こうはもっとウザいし面倒だと思うよ。でも、選ぶのはきみだ」









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