卒業式 3
式は中盤を迎え、卒業生を泣かせる為の演目が始まった。
まず5年生の代表が壇上に上がり、送辞の言葉が我々6年生に向けて贈られる。
「6年生の方々、ご卒業おめでとうございます。
運動会では、様々な競技で助けてもらいました。
他にも、さまざまな学校の行事を、他の学年の生徒を支えながら
今度は私ら5年生が頑張ります。
先輩方を見習い我々はより一層、
この小学校は我々に任せて下さい。先輩方は中学生になっても精進を続け、お手本となる素晴らしい先輩で居続けて下さい。」
5年生の代表は一呼吸置いて、ゆっくりと最後の言葉を述べる。
「大変お世話になりました」
少し間を置いて後ろの5年生の全員が大きな声で復唱する。
「大変お世話になりました」
これは良くできている送辞だろう。クラスメイトの何人かは素直にこの言葉を受け取り、感動し肩をふるわせている。
だが、大人である私には引っかかることがあり、あまり感動できなかった。
まず、言葉づかいが子供っぽくない部分がある。
『
これらの言葉は、小学生ではまず使わない。
おそらくどこかの文例が乗っているサイトから落としてきたのだろう。しかもこれらの言葉が使われているところを見ると、中学生用か高校生用のモノだ。
送辞の文章を考えた人物は、自分で考えていないことは明白である。
また、感動できない理由は言葉遣いだけではない。内容にも違和感を感じた。
その理由とは、小学校では学年が違うと関係は非常に希薄だからだ。
これが中学生ならまだ部活動などを通じて上の学年との交流もあるのだが、小学生では皆無と言って良いくらい何も繋がりが無い。
送辞の言葉に必ずといって良いくらいに出てくる内容に、運動会のくだりがあるが、実はそのくらいしか接点がないからだ。学年をまたいで何かしら協力する
それにともない、5年生全員で復唱した最後の言葉『大変お世話になりました』この言葉がどうも
しかし相手の立場を立てる為に行われる、このお世辞のような『
例えば仕事の電話などでは、たいして世話になっていない相手にも関わらず『いつもお世話になっております』などと言ったりする。この風習は、大人になれば嫌でも身につく事だろう。
だが、まさか小学生でこのような扱いをされるとは思ってもみなかった。
もしかするとこういった事は、この
5年生からの送辞が終わると、今度は曲が掛かる。
桜をメインテーマとして、卒業を意識したフレーズがあちらこちらにちりばめられた曲だ。
卒業式に歌う曲として、なんども練習したこの歌を、我々は演奏に合わせて歌い始めた。
この曲は歌詞は良いとは思うのだが、言葉の選び方が
私の心には、あまり響いてこない。奥ゆかしさや、情緒といったモノが欠けている。
大人になってしまった身としては、どうも純粋に受け取る事ができない。
しかしまだ若いクラスメイト達は違う。率直な言葉は充分過ぎるほど子供達の心に届いたようだ。。
歌声の中から
まあ、選ばれた曲が最近の流行歌で本当によかった。
泣かせようとするお目当てが小学生なので、最近の曲から選ぶのが当たり前といえば当たり前なのだが。これがもし『時代』や『贈る言葉』といった私の世代に合わせた選曲だったら、心をわしづかみにされて危なかったかもしれない。
いい大人が
歌が終わると、我々6年生の代表から『卒業生答辞』がのべられる。
「今までおせわになりました。
6年間この小学校で育ててもらい。感謝しています。
中学に入っても運動、勉強と頑張っていきます。
今までありがとうございます」
少し遅れて我々も全員で感謝の言葉を復唱する。
「ありがとうございます」
手短に答辞がのべられた。これで卒業式は終わりだ。
教員の方向と保護者の方向に深々と礼をすると、我々は体育館から湧き上がる盛大な拍手の中、クラスへと戻った。
帰り際、保護者の席を見ると桐原さんが
この後は、教室で最後のホームルームが開催される。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます