アラフォーの手習い 3

 ほどなくしてピアノ教室のドアが開いた。授業の始まる時間が来た。



「お時間になりました、こちらへどうぞ」


 受付の時にも対応してくらた40半ばの先生がドアを開け、室内へと招き入れる。

 ちいさな教室なので受付から教師まで、全てをひとりでこなしているのだろう。



 室内に入ると最近リフォームをしたらしく新しい木の香りがする。教室の様子は木の質感を大切にした全面木目調の内装で、明るめの照明が設置されており、その下にピアノが並んでいる。

 部屋は二つにわかれていて、電子ピアノが横に2列、縦に4列ほど並んでいる大きな部屋と、グランドピアノが置いて有る個室があり、それぞれは厚めのガラスの壁で仕切られていた。

 壁をよく見るとすべて防音仕様になっているようだ。今は休職中とはいえ、仕事柄こういった点が気になってしまう。


 部屋に通された私は適当な席に付く、先生からは比較的かんたんな譜面を渡される。


鈴萱すずがやさんは初めてですよね、これから頑張っていきましょう。もし分からない事があればすぐに言って下さい」


「はい、よろしくお願いします」


「では、まずは譜面を読み上げてみましょう。みなさん行きますよ」


 まずは譜面を読むことから始まった。「ドドシラレミファ」そんな感じで声にしで読み出す。

 なるほど、このレベルならついて行けそうだ。


 一通り読むと、いよいよ演奏が始まる。

「音は間違っても構わないので、とにかく鍵盤を押して下さい。ではいきますよ、さんはい」

 そういうと音がなりはじめた。

 バラバラとそろわない気の抜けたような、なんとも妙な合奏だったが、それは間違っても構わないという安堵感あんどかんを与えてくれる。

 私も安心して鍵盤を叩いていると、先生の目にとまったようだ。


「鈴萱さん、以前にピアノをしていましたか?」


「20年以上前ですが、少々やっておりました」


「どのくらいひけますか? 試しに弾いてみましょう」


 そう言われて弾いてみると、不思議と体が覚えているもので、ある程度それなりの演奏ができた。


 先生は少し感心したように「なるほど、以外と弾けますね」と言って何かを考えている様子だ。

 すこし得意げになっている私に、このような提案をしてきた。


「これは大先生に見て貰ったほうが良いかもしれません、あ、大丈夫です追加料金とか掛りませんから。

どうです、見て貰いますか?」


「あ、まぁ、お金が掛らないならお願いします」


「分かりました、では今すぐよんで来ますね」


 そう言って先生はドアを開けたまま出ていく。廊下から階段を上る音が聞こえて、そのあと「母さん、ちょっときてくれる?」そういった声が遠くから聞こえてきた。


 主婦の方からは、

「大先生のお出ましよ、あなた凄いわね」

 と、なにやら分からないが、どうやら褒められているらしい。



 しばらくすると、齢70歳前後のおばあさんがやって来る。

 その人は見間違うハズも無い、私の子供の頃のピアノの先生だった。

 しわこそ深くなっているが、背筋はピンとしていて、声にはまだ張りがある。

 どうやらまだ現役で教えているらしい。


「では、弾いてみて下さい」


 大先生のご命令で私は演奏を始める、ひととおり演奏が終わると。


「なるほど、なるほど、あなたはあちらの個室へいきましょう、私が教えます」


 そういって私はひとり、グランドピアノがある独居房どっきょぼうへと連行される事となる。



 個室に入ると、大先生から先ほどとは違った譜面を渡される。どうみても中級者向けの譜面だ。


「では、まず弾いてみて下さい」


 言われたとおり弾こうとするが、難しくて上手くはいかない。


「鈴萱さん、まずはゆっくり弾いてみましょう。テンポを半分ほどに落とします」


 優しく声を掛けられた。

 私が大人になっているからだろうか、大先生が年をとったのが原因かはわからないが、昔の厳しい印象とは異なり、性格がかなり変わり丸くなったようだ。


 テンポを半分ほどにしてもらっても、やはり中級者向けの楽譜は難しく、何度かは完全な手詰まりを起こしてしまう。


「しかたありませんね、久しぶりに昔のようにコレをつかいましょう」


 どうやら私の事を覚えていてくれたらしい。嬉しいように思えたが、次の瞬間どこからかはえたたきを出してきた。

 大先生と同じく、こちらもまた現役のようだ。


「さて、ビシバシといきますか」


 人という生き物は本質的は変わらない。こうして私の地獄の特訓は始まった。

 途中、何度となく間違い、そのたびに手をはたかれる事となる。まあ、痛くはないのだが、はえたたきがちゃんと消毒されているのかが気になった。


 ……なんとか練習を終える。一安心していると、大先生からさまざまな追加の課題を頂く。

 こうして特訓は教室内には留まらず、家の電子キーボードが再びフル稼働する事となる。




 そして時は経ち、特訓を開始してから2週間後、学校での演奏デビューとなった。


 私が電子キーボードの前に座り演奏を行う事が分かると、子供達は、

「じょうだんだよね?」「本当に演奏できるの」

 そんな疑問を投げかけてきたが、演奏がはじまると直ぐに私の腕前に納得したようだった。

 必要以上に複雑な曲を練習していた私にとって、今や学校の曲は簡単だ。


 手持ち無沙汰になった美和子みわこ先生は指揮棒をふるっている。


 何曲か歌ったあと子供達が気がついた。

「あれ、なんか今日は歌いやすい」「ほんとうだ、なんでだろう?」

 そんな声が聞こえてくる。


 理由は、不安定な美和子先生の演奏が原因なのだろうが、私は

「今日は指揮者がいるからね」

 大きな声でクラスのみんなに言うと。


「なるほど」「そうか指揮者ってすごいんだ」

 そういって子供達は納得していたが、美和子先生だけは自分に原因がある事に気がついているようで、少し恥ずかしそうにしていた。

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