書道の時間

 すこし特殊な授業が始まる、書道の時間だ。

 生徒たちは既に書道セットを机の上に広げて、先生のやってくるのを待っている。


 チャイムがなり、美和子みわこ先生がやってきて、

「お手本の7ページを開いて書いてください。必ず5枚以上書いてそのうちのできが一番良いものを提出してください」

 と、本日の課題を説明する。


 私は久しぶりに筆を握る。いつぶりだろうか、下手すると10年くらいは握っていない気もする。

 まず、すうっと深く息をすってからゆっくりと吐き出す。墨汁の独特の匂いが部屋にはただよっていた。

 いつもは少し猫背気味の背筋をピンと伸ばしてみた。


 お手本をじっと見つめてから、それをなぞるように字を書き上げる。

 そうして一つの作品が完成された。


 この出来上がった作品を一言で表すと、それは『下手』である。バランスがどうも偏っている。

 この教科は美的センスと日頃の訓練のたまものであり、大人になり年月を経たところで字がひとりでに上手になるはずはなかった。


 この作品を見られたらどう思われるだろう?

 少しまわりが気になり見回してみると、私の作品はだいぶマシな部類に入るようだ。

 さすがに小学生には負ける訳にはいかない。


 書き続けよう、半紙を変えようと視線が隣に移ったとき、キリンちゃんの作品が目に飛び込んできた。

 それは、なんと言おうか…… 私のそれよりかなり上手かった。


 気を取り直して書き続けよう、それしかないだろう。

 もしかしたらキリンちゃんを越えられるものが偶然書けるかもしれない。



 しかし、しばらくすると問題が起こる。

 騒ぎ出す子供が出てきてしまう。クラスで一番やんちゃなそうすけくんだ。

 ちなみにこの子は先の理科の授業でも「リトマス試験紙は必要ない」「理科は覚えなくて良い」と言い放った人物だ。


 このそうすけくんは、さらさらと適当に5枚を書き上げて、暇を持て余し遊びだしてしまう。

 いちおう最低限のノルマはクリアしているので美和子先生も注意をしにくいらしい。


 騒がしいと気が散るので、こういう事は大人が注意しなければならない。

 私はすこし大きな声で言った。


「そうすけくん、他の人はまだ作業をしています。お静かに願います」


 そう言うとそうすけくんは反論してきた。

「そんなに真剣に書道をしなくてもいいんじゃないかな、みんなも適当にやればいい。

 どうせ成績に関係するわけじゃないし、この授業は不必要だよ」


 また『不必要』という意見が出てくる。しかしその論理は私の想定の範囲内だった。あらかじめ建てておいた対応を取ることにする。


「たしかに書道は成績には含まれません、テストの点数が出るような科目ではないです」


「そうだろ」


「ですが、人を見る時の判断材料として使われる事があります」


「なにそれ、そんな事あんの?」


「社会に出たとき、会社に入社する時ですね、面接でさまざまな審査されます。

 それは成績だけに限らず、話し方、話す内容、振る舞い方、そして字の綺麗さなどが判断基準です」


「話し方とかはわかる、だけど字が綺麗かどうかは関係ないんじゃない?」


「ではちょっと他のみんなにも聞いてみましょうか」


「なにを?」


「美和子先生、ちょっとだけお時間をよろしいですか?」


「ええ、構いませんよ」


「では、すこしだけお借りします。クラスの皆さん聞いて下さい。

 まず仮の話をします。皆さん全てが社長と思って下さい」


 みんなが少し騒ぎ出す。

「社長だって」「まじか」

 そういった声が聞こえてくる。


 私は話し出す、

「あなた方は社長です、社長は会社で一番えらいひとです、仕事の内容は部下に指示を出してやってもらいます」


 子供達は、うんうんと熱心に話しを聞いている。


 話を続ける。

「指示をした部下は仕事をします。あなたは部下がちゃんと仕事をしているかチェックしないといけません。

 しかし部下は100人いて、全員を見張って監視することは出来ません。

 そこで報告書という書類を書いてもらい、あなた方はそれを読んで状況を把握します」



 小声でキリンちゃんに話かける。

「作品をちょっと借りてもよい?」


「うん」

 そういって了承りょうしょうしてくれた。


 そうすけくんに話しかける。

「提出しようとした作品はどれだい?」


「これだけど」

 といって、かなり字が汚い作品を差し出して来た。


「すこし借りるね」


 そういって二つの作品を手に取り、ガラにも無く教壇の前に立った。


「さて、みんなは報告書という書類を読まなければなりません。

 もちろん、それらは文字から出来ています。

 そしてここで問題です。社長であるあなたは部下を採用しなければなりません」


 そこで二つの作品を高く掲げて見せびらかす。


「どちらの人を採用しますか?」


 ほぼ誘導尋問の詐欺のような質問をする。もちろんみんなの回答は決まっていた。


「こっちー」といってキリンちゃんの作品を指さす。


 キリンちゃんに視線を移すと、自分の作品が選ばれたのが誇らしいような、照れくさいような、複雑な表情を浮かべている。

 みんなの方へ向き直り、ひときわ大きな声で結論を伝える。


「ほらね、字というものはけっこう重要なんだよ」


 するとそうすけくんが顔を真っ赤にして反論してきた。

「そんな事があるのかよ!」


 この質問に対して私は真摯しんしに答える。

 ここまでは冗談めいて話していたが、これからはそうすけくんを真っ直ぐ見据えて顔を引き締めて答える。


「社会ではあるんだよ、実際には10人くらいが申し込んで採用されるのは1人しか居ない、そういった厳しい状況が発生する。

 そういう時は、字が汚いといったごく簡単な理由で落とされたりする事もある。

 他にもことわざで「字は体を表す」「書は人なり」といった言葉があって、字にはその人の性格や品格のようなものが現れると思っている人も多いし、書道というものはあまり馬鹿にできないよ」


「……わかった、がんばる」

 とそうすけくんはこの言葉を受け止めてくれた。

 この雰囲気はクラスのみんなにも同じように伝わったらしく、このあとの書道の授業はとても真面目に執り行われた。




 後日談になるのだが、書道に関しては少し困った事にもなってきた。

 小学生は飲み込みが早く、上達も早い。一方私の腕前は……

 ひっそりとは練習しているのだが、あまり良い成果には繋がってはいない。


 自分の蒔いた種だが、これは少々耳の痛い話でもあったりする。

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