37歳おっさん、職業小学生 ~現実社会で小学生になるということ~

クロウクロウ

第1章 再び小学生へ

会社員だった最後の日 1

 目覚ましが鳴り上半身を起こして窓の方を見る。

 それだけでひとり暮らしの狭苦しいマンションの一室から、外を景色をながめる事が出来た。

 起きたばかりの頭に血が回っていない私は、ぼうっと空を眺める。


 赤トンボを見つけられない。先週あたりまでは見かけていた気がしたのだが、今日はたまたま居ないのだろうか。それとも冬が近づいてきて、もういなくなってしまったのだろうか。

 ようやく気温が落ち着いてきて過ごしやすくなったと思った矢先なのだが、もう冬が近いのかもしれない。


 しかし今年の夏は酷いものだった。

 水分を取ったそばからヒビ割れた陶器のように汗として吹き出し、あっという間に喉が渇く。

 ニュースによると『近年まれに見る猛暑』という話だが、ここ数年おなじニュースを聞き続けている気がしている。いったいどこまで気温が上がるというのだろうか。


 今年はなんとか事故はなかったが、これ以上気温が上がり続けるとどうなることやら。そのうち現場で倒れるヤツが出てきて面倒な事になるかもしれない。


 しかしまあ今年は無事に乗り切った、これ以上考えるのはやめにしよう。

 私の仕事は、ただでさえ心配事はつきない業種なのだから。



 私の名前は鈴萱 良介すずがや りょうすけ、建築業界に勤めているごく平凡な派遣社員だ。


 平凡と自分で言うのも変なものだが、これといって秀でた技術もなく、目立った資格もなく、コネも愛想もない。まさに特徴の無い人物と言えるだろう。

 あえて人と違う特徴をあげるなら、背が人よりすこし高いくらいだ。

 だがそんなものは社会においてはほとんど役にはたたない。利点を挙げろと言われれば、せいぜい満員電車のなかで少し見通しが良くなる事ぐらいしか思い浮かばない。

 そんな没個性ぼつこせいな私は、派遣先の会社にいいように使われている。

 本来なら勉強をして、なにやら有益ゆうえきな資格の一つでも取りたいところだが、日々の業務に追われていてそのような時間は作れない。


 今朝も朝食をとり、いつものように身支度をすませ、いつもの様に出勤する。そんな日々を送っている。

 ただ今日は少しばかり違う、いつも通っている建築現場には向かわない。

 なぜなら今日は月に一度の会議の日で、本社ある都心のオフィスビルへとおもむかねばならない。



 私は電車に乗り、大都会の駅と直結している大層たいそう立派なビルへと向かう。

 そのビルはいびつな形をしていて、柱が斜めになっていたり、必要だとは思われない無駄に大きな吹き抜けがある。


 この少し風変ふうがわりなビルの最上階に、勤め先の会社が入っている。


 このビルは周りのビルとは浮いていて目立ち、なにやら高そうにみえる。

 試しに家賃をしらべて従業員数で割ってみたら、なんと一人あたり月額8万円もかかっている。机ひとつの家賃としては高すぎる経費だ。

 もちろん外に出ている事が多く、ここに居ない時のほうが多い私にもこの経費はかかっている。


 この地区の家賃は高いのだろうか? 

 そう思って近くの物件も調べてみたところ、どうやら半額あたりが相場らしい。

 私としてはこのビルではなくて、そこら辺に移ってもらって差額で給料をあげて欲しい所だ。

 もしくはもっと人を増やしてくれれば、仕事も少しは楽になるのだが…… まあ、そんな話は無理だろう。


 いつもそんな事を考えながら、この不合理ふごうりなビルの中へと入っていく。



 本日は定例会議が行われる、正社員様だけではなく派遣社員も集めての全体を把握する会議が開かれる。


 この定例会議というものは、あまり良いものではない。

 内容のほとんどは、建築業界には付きものの『進捗の遅れ』や『問題点の発覚』などの報告がしめている。

 自分の報告にしろ、他人の報告にしろ、そういった話を聞くのは嫌な事だが、この会議にはもっと嫌な事がある。

 それは『誰の責任なのか』という責任のなすりつけ合いが行われるのである。


 立場が強い人間なら問題を押しつける側なので都合が良いが、私は派遣社員という非常に弱い立場なので、この場で出来る事と言えば、せいぜい目立たないように縮こまるくらいしかできない。

 もっとも責任を取るといっても、小さくてどうでもいい問題が多く、誰かが辞めなければならないような大問題にはまだ出くわした事はない。



 さて、時刻をむかえて人が集まり、会議が始められる。

 いつものように参加者が端から順番に現場の報告をし始める。その報告は手早く次から次へと流れて行く。

 これはとても良い傾向だ、時間が短いというのは大きなトラブルが無いという証でもある。

 もしなにか深刻なトラブルがあると、そこで会議は停滞してあれやこれやと話し出す。

 こうなると大変で、会議は長びきしかも解決策は出てこない。話したところで解決するようなたぐいの問題ではないからだ。


 会議は順調にすすんでいき、私の報告の番となった。

 私が受け持っている現場は問題も無く進んでおり、手短に報告を終わった。


 こうして会議は問題なく終わる…… かに思えたが、最後の最後に課長からなにやら話しがあるようだ。

 課長の話はとても嫌な話題が多い、ただの連絡事項などの話ならよいのだが……


「先日、公民館の耐震補強の見積もりで少しばかりミスが出た。

まだ初期の見積もり段階なので責任問題という話にはなってないが、

相手先に謝罪文を提出しなきゃならない事になってしまった」


 課長がこちらを見ているな、嫌な予感しかしない。


「悪いが、鈴萱すずがやくん、名前を貸してくれるかな」


 なにやら私に指名がきた、こうなるとほぼ断れないのだが…… せめてものささいな抵抗を試みる。


「本当に責任問題とかにはなりませんね?」


「大丈夫だ心配するな、文面もすぐこちらで用意するからサインだけ頼むよ」


 こう断言されると立場上、断れるはずもない。


「はい、わかりました」


 こうして強引に責任を取らされる形になってしまった。


 進行役のリーダーが確認を取る。

「ほかに連絡事項はありますか? なさそうなのでこれにて会議は終了します」


 その声とともに、参加者がおのおの散っていく。

 一方、私のそばには課長が近づいてた。


「先ほどの謝罪文の件すぐ用意するから、タバコでも吸ってきて。そのあいだに用意しておくよ」


「はぁ、わかりました」


 気のない返事をしてしまう。

 ここで愛想よく受け答えのひとつでも出来れば良いのだろうが、私はコミュニケーションは少々苦手な面があり、無粋ぶすいな態度を取ってしまうことが多々ある。

 相手によく思われていない事も少なからずあるだろう。

 本来ならうまく立ち回れるようになりたいのだが、こういった事はなかなか難しい。


「せめて気分を変えようか」


 独り言をぽつりとつぶやき、私はタバコを吸いに狭い喫煙所へと駆け込んだ。



 喫煙所はまだ誰も居なかった、さっそく私は火を付けて一服する。

 タバコは良いモノだ、自分の時間が出来る気がする。少なくとも咥えている間は喋らなくていいのだから。

 もちろん話かけられたら答えなくてはならないが、一呼吸おいて答えればよいので、ゆっくりと話ができる。


「タバコでも吸いながら会議ができれば、もう少しゆとりができるんじゃないかな」


 などと、この禁煙時代に無理な事を言ってみたりする。

 そうこうしている間にタバコはあっという間に短くなっていき、ささやかな休憩は終了した。


「さて、戻りますか」


 席にもどると机の上に書類が既に用意されていた。

 定型文を利用したありきたりの謝罪文がそこにはあるハズ…… と思ったのだが違っていた。


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詫び状


 このたびは初歩的なミスを犯してしまい、誠に申し訳ありませんでした。

 小学生レベルの間違いだったので、小学生から勉強をやり直す気持ちで改善に努めます。


   署名欄 __________

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 コレは書類として大丈夫なのだろうか? ふざけすぎではないだろうか?

 どう見てもダメにしか見えないが……

 これは署名をする前に課長に確認を取っておかないといけない、下手をすると後々とまずい事になりそうだ。


 書類を片手に課長の席へと移動をする。


「課長ちょっとよろしいでしょうか、この文面で大丈夫でしょうか?」


「なかなか秀逸だろ、俺が書いたんだ。

なんだ心配しているのか? 大丈夫だよ先方とは親しい間柄だから」


「はあ」


「それに『形だけの謝罪文でいい』との事なので、気にしなくていいよ」


「わかりました、では署名をしますね」


 反論すると面倒なので、すらすらと自分の名前を書いてしまう。

 うちの課長は基本的には良い人なのだが、こういった悪ふざけをする一面がある。

 付き合いが長いのでわかるのだが、この文面には悪意は無い。純粋に面白いと思ってこうしたのだろう。



 署名を終え立ち去ろうとすると声をかけられた。


「あと板橋区の事務所のリフォームの見積もりが来ているんだけど、

できれば今日中に資料作りをお願いしたいんだ、おおざっぱなヤツで構わないんだけど良いかな?」


 もちろん『できれば今日中』という事は、『今日中には絶対に仕上げないと行けない』という意味だ。

 一度くらいは『できれば、という話なので後回しにしておいたらできませんでした』とか言ってみたい気がするが……

 無理だな。社会人1年目ならいざ知らず、この業界に10年以上身をおいている私がそんな言い訳ができるわけもない。


「はい、わかりました」


「では見積もりの資料の場所は後でメールに流すからお願いね」


「了解です」


 課長の話が終わると、私はすぐに移動を開始した。この後に自分の担当している現場監督の仕事があるからだ。

 さきほど話が出た見積もりの件は、普段の業務が終わった後に残業として取り組む事になる。


 派遣という立場は何かとつらいものだ。

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