ジュブナイルリロード

八白 嘘

プロローグ

 革靴のソールが大理石の床を叩くたび、ひときわ澄んだ音が廊下に響き渡る。

 十二階建て本社屋の十一階。

 ここは特殊な階である。床だけでなく壁や天井も特別あつらえで、ちょっとした古城を歩いているような気分にさえなれる。

 理由は単純だ。我が社がインテリアデザインも手掛ける老舗家具メーカーで、応接室がこの階にあるからだ。つまり、ショールームを兼ねているのである。

 この階には、もうひとつ特別な部屋が存在する。

 大会議室。

 百名弱が収容できるコの字型の会議室だが、広すぎてあまり使われていない。定員四十八名の中会議室が四階にひとつ、小会議室に至ってはいくつか点在しているため、そちらを利用することが多い。

 大会議室の用途は、主に二通り。

 ひとつは、社外の人間、および株主を交えた会議。

 もうひとつは──

「……査問委員会」

 ちいさく、そう呟いた。

 査問とりしらべとは名ばかりの、懲罰を宣告するためだけに開かれる会合だ。

 そっと胸に手を当てる。

 心音は正常。脳髄は冷え切っている。胸ポケットの固い感触は小型のICレコーダーだ。どう使うかは、まだ決めていない。とにかく武器が欲しかった。

「査問委員会には──」

 足を止め、眼前の人物を睨みつける。

「──出席なされないんですか? 須藤すとう専務」

「ああ。その必要はないからね」

 専務が好々爺然とした笑みを浮かべた。品の良い眼鏡を光らせ、シャンと背筋を伸ばしたその姿は、老紳士の手本のようである。

「必要がない、とは?」

「なに、会議室に行けばわかるさ」

 そう言って、肩をすくめる。

 ビキ。

 脳の血管が切れる幻聴。

「……まさか、あなたに陥れられるとは思いませんでした。あなただけは味方だと信じていた」

「今でも味方のつもりだよ」

「すべての責任をおれに押し付けて?」

「記憶違いでなければ、その責任は君が自ら負ったものだ」

「そうですね。忌々しいことに、その通りです」

「──…………」

 専務は、溜め息をひとつ吐き、言った。

「君が懲罰を受けるのは、君が有能だからだよ」

「……馬鹿馬鹿しい!」

 おれは、大きくかぶりを振った。

 どうしてこんなことになったのだろう。最善を尽くしたはずだ。掴み取ったはずだ。有能であることが間違いなら、そんなものは野良犬にでも食わせてしまえばいい。

「──…………」

 専務は、しばしの沈黙のあと、

「会議室へ行きなさい、山本やまもと宗八そうはち係長。査問が待っている」

「言われずとも」

「ただし──」

 専務が、おれの胸ポケットに指先を入れ、ICレコーダーを抜き取った。

「このオモチャは置いていきなさい。君にとって、なにひとつ益になりはしないから」

「──…………」

 一礼し、専務の横を通り過ぎる。

 背後から視線を感じたが、振り返ることはしなかった。

 ソールが大理石の床に叩きつけられる音に耳を傾けながら、ジャケットの内側に右手を滑り込ませる。そして、内ポケットの中に忍ばせてあった予備のICレコーダーのスイッチを入れた。

 ひとつだなんて、言っていない。

 専務を出し抜いたという安い満足感に口角を上げながら、足を止めた。

 飴色の、重厚な扉。

 ここで、おれの運命が決まる。早鐘を打つ心臓に気づかないふりをしながら、両開きの扉の右側を押し開けた。


 ──刺すような西日。


 眩しさに眉をひそめ、右手で陰を作る。

「……?」

 朱色に染め抜かれた大会議室は、静寂に満ちていた。

 社長がいない。常務がいない。古参の重役たちが誰ひとりとしていない。嬉々としておれに懲罰を下すであろう本部長の姿さえなかった。

 大会議室にいたのは、

「やあ、すまない。眩しかったかな。夕焼けがあんまり綺麗だったものだから」

 ひとりの小柄な男性だった。

 リモコンで操作したのか、僅かな作動音と共にブラインドが下りていく。同時に、大会議室のすべての蛍光灯が点灯した。

 逆光に隠されていた男性の顔があらわとなる。

「──…………」

 その顔に見覚えはなかった。

 須藤専務より幾許か年若い相貌が、鷹揚な笑顔にほころんでいる。

「山本宗八係長、だね。適当に掛けたまえ」

「──…………」

 おれは、コの字型の会議室の中央へと足を運び、その場に立ち止まった。

「掛けないのかい?」

「座って査問を受ける社員を、わたしは見たことがありません」

 男性は、くすりと笑ってみせた。

「──では、はっきり言おう」

 男性が靴を脱ぎ、椅子の上で胡座をかいた。

「君も気づいている通り、これは査問ではない。勝手ながら、会合は一時間遅らせていただいた。これは、僕と君との個人的な会談だ。気が進まなければ退室して構わない」

「──…………」

 おれは、会議室のカーペットに正座し、男性を睨め上げた。

「はは、よろしい。態度は言葉より雄弁だね。時間はさほどないのだから、腹の探り合いはなしにしよう。僕は、出羽崎でわさき百矢はくやという者だ。名刺は必要かな?」

「出羽──……!」

 息を飲む。

 その名前に聞き覚えがあったからだ。

「力不足ながら、サキサカホールディングスで取締役副社長を任ぜられているのだが──どうやらご存知のようだね。弊社は、貴社の株式を三割ほど所有している。事実上の親会社だ」

 サキサカホールディングスは日本有数の純粋持株会社である。男性がサキサカの人間であることは、おおよそ察しがついていた。しかし、まさか副社長だとは思いもしなかった。

 なんとか表情を取り繕っているが、おれは混乱していた。良くて減給、悪くて左遷程度の査問会にサキサカの副社長が介入する理由など、まるで思いつかなかった。

「──縁故契約していた専属家具デザイナーが、海外のデザイナーの設計図を流用、つまり大胆過ぎる盗作をしたことに気づき、その対処のために一時的な異動を申請、受理。老舗ブランドの信用に傷をつける恐れがあるが、既に生産された四五五脚を販売しないわけにはいかない」

「──…………」

「そこで君は、判断力、発想力、行動力、なにより熱意によって、ほとんどの問題を解決してみせた。椅子を一脚背負い、単身ロシアへと乗り込んで、新進気鋭の若手デザイナーに貴社の技術力をアピールした。我が社はこれだけの精度であなたの作った家具を再現できるのだ、と。結果、四五五脚の椅子は無事販売される運びとなった」

「──…………」

「しかし、費用がかさんだ。若手デザイナーへのロイヤリティはもちろん、彼がもともと契約していた会社から権利を買い上げねばならなかった。当然、製造原価は跳ね上がる。そのため、純利を減らすか、価格を吊り上げる必要が生じた。この事案について、君の責任を問うために、査問委員会が開かれることとなった。間違いないかな」

「……はい」

 客観的に解説されることで、自分が理不尽の上に立っていることを改めて痛感した。涙すら浮かびそうになった。ブランドの価値を落とさずチェアを発売する方法はいくらでもあった──と、上司はおれを責め立てた。具体案を尋ねても、過ぎたことだからと詳細を伏せる。もし本当に妙案があったとしても、それは、現在という安全圏からの後出しでしかない。

 あのときおれが取った行動は、長期的に見れば最善であったと断言できる。

 代案も出さず右往左往しながらおれの意見を却下するばかりの本部長のケツを胸中で蹴り上げて、須藤専務から直接許可を取った。書面のない口約束に過ぎないが、許可は取ったはずだ。

 ロシアへの渡航費用すら経費として落ちないと専務に告げられたのは、おおよその問題が解決した後のことだった。

 すべては、おれの独断の行動である、と。

「君は有能だ。だからこそ角が立つ。大器晩成で徐々に頭角を現すならまだしも、君はまだ二十八だろう。互いに不本意な衝突の末、いつも君だけが正しかったなら、君は間違いなく嫌われる。それは、君の意思に関わらず、相手の無能を暴露してしまうからだ」

 本部長の顔が脳裏をよぎる。

「しかし、それは逆恨みでしょう」

「逆恨みだよ。だが、嫌われることに違いはない。忌憚のない意見を述べさせてもらうと、君は、貴社──この会社に向いていない。古い会社ではありがちなことだが、ここで求められているものは、社員すべての団結だ。第三者から見て、君は、その団結を引っ掻き回している」

「……なにが言いたいんですか」

 出羽崎氏が、にやりと口角を上げて、言った。

「君のいるべき場所はここじゃない。僕は、君を引き抜きに来たんだよ」

「引き、抜き……」

 現実感が薄れ、出羽崎氏が遠くなったように感じた。栄転。栄転だ。

 おれは、ふらふらと立ち上がった。

 喜べばいいのだろうか。どう感じるべきか、自分でもよくわからなかった。今の会社には愛着がある。誇りもある。しかし、おれが和を乱しているのであれば──

「ただし、条件がある」

 出羽崎氏の言葉に、はっと我に返る。その通りだ。なにか特別な理由があるに決まっている。サキサカの副社長がわざわざ出向くほどの理由が。おれの引き抜きは、その報奨のようなものだろう。

「二年弱のあいだ、ある場所に赴任し、成果を出していただきたい」

「ある場所、とは?」

「沖縄県石垣島にある、サキサカ系列のホテルだよ」

 おれは、そっと安堵の息を吐いた。サキサカホールディングスは国際企業である。日本国内であったことを喜ぶべきだろう。アフリカのコンゴ共和国あたりを提示される可能性も十二分にあったのだから。

 出羽崎氏が、場に不似合いなほどの笑みを浮かべ、言葉を継いだ。

「──書類上は」

「書類、上……は?」

 ゾワリ。

 背筋が粟立つ。

 なにか、たいへんなことに巻き込まれるのではないか、と。

「山本君。もうすこしこちらへ来てくれないか」

「──……はい」

 一歩、二歩、三歩。出羽崎氏の正面で足を止める。

「不躾なことを聞くが、身長は?」

「……? 一六八センチです」

「年齢のわりに童顔のように見えるが、学生と間違えられた経験は?」

「時折……」

 出羽崎氏の意図が掴めなかった。

「そうか、わかった」

 鷹揚に頷く出羽崎氏から、半歩だけ距離を取る。

「最後に尋ねよう。君の出向先がどんな常識外れの場所であっても、君の上げるべき成果がどんなに不条理であろうとも、引き抜きに応じる意思はあるかい?」

「──…………」

 自分の胸に手を当てる。心音は正常。脳髄は冷え切っている。

 おれは、口を開いた。

「──応じます」

 自分の存在が社を掻き乱しているならば、おれはここに留まってはいけない。自覚はあった。認めたくなかっただけだ。だから、出羽崎氏の言葉に反駁できなかった。こころのどこかで納得してしまったのだ。

 おれは、恵まれている。

 目の前に道が伸びているのだから。

「たしかに了解した。山本宗八君、君の本当の出向先は──」

 出羽崎氏が腰を上げ、真剣な瞳でおれを見据えた。

「君の出向先は、星滸塾せいこじゅく学園高等部だ」

「高等部──高校、ですか?」

 私立星滸塾学園。

 その名に聞き覚えはあった。

 政財界の御子息御息女たちが集う半寮制の学園で、一年あたりの学費は公立校より二桁多く、卒業後、就職活動の際には、東大主席以上の強い印象を面接官に与えるという。

「わたしは教員免許を持っていませんが……」

「構わない。必要ない。君には、星滸塾学園に編入してもらう」

「──……は?」

 意味がわからない。

 日本語と似て非なる言語で話しかけられた気分だった。

「……編入、とは?」

「もちろん、星滸塾学園の生徒となってもらうという意味だ。なに、違法ではないし、そう珍しいことでもない。君は童顔だから年齢を開示する必要もないだろう。十六歳の高校生として、青春を再び満喫してくるといい」

「はあ……」

 生返事が漏れる。

「実のところ、これは、我が社とは関係のない僕個人からの頼みなんだ。娘を──ささみを守ってほしい。あらゆる脅威から。あらゆる悪意から。そして、あらゆる欲望から。ささみを守り抜いてほしい」

 そう言って、出羽崎氏は頭を下げた。

 おれは慌てたが、なにを言っても失礼になる気がして、声を出すことすらできなかった。

「そのためならば、どんな手段を講じてもいい。たとえば──」

 すこし考えたあと、出羽崎氏が冗談めかして言った。

「ささみの貞操を守るためならば、ささみと交際してもらっても構わない」

「それは、本末転倒では……」

「もちろん、肉体関係を持たないプラトニックな交際であることが前提だよ。週に一度は報告書を提出してもらうがね。卒業まで付き合って、円満に破局してもらえれば、それでいい。人生経験にもなるだろう。僕は、ただ、娘を守りたいだけなんだ」

「──……わかりました」

 その行為は、正しいのだろうか。

 おれは考えないことにした。

 荒野に敷かれたレールが見えてしまえば、その上を歩くしかない。最善の未来へ続いているという確信があるから。

 おれたちは、思うほど自由じゃない。愚かであろうとすることは、賢しくあろうとすることより、ずっと難しい。たとえ、賢者より愚者のほうが幸福だったとしても。


 こうして、おれの二度目の高校生活は、唐突に始まりを告げたのだった。

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