オトナになった

蛙が鳴いている

オトナになった

 神経痛、筋肉痛、関節痛、五十肩、関節のこわばり、うちみ、くじき、冷え性、疲労回復、健康増進……。

 とにかく色々な効果があるらしい。これは、とてもいいことだ。

 お湯に浸かりながら温泉成分などが書かれている説明を読んでいた。身体全体にまとわりついていた眠気がお湯の中へ溶けていくようで、とても心地がよい。

 肩までお湯に沈めて、脚をのばす。手で顔を拭って空を見上げる。しっかりと青い。今日はどこへ行こうか。

 朝食を食べて、少し部屋でのんびりとして、十時少し前にチェックアウトする。この近くの観光地を見て回ろうか。電車に乗って移動しようか。ロビーに観光マップがあったはずなので、朝食を食べたらもらって来よう。

 大きく息を吐く。お湯で温められている全身がさらに緩んでいくような気がした。一人。家族もいない。友達もいない。何も縛られるものがない。自分の行きたいところへ行き、食べたいものを食べる。自由。噛みしめるように、もう一度息を吐いてみる。

 オトナになったな、と思った。

 オトナの階段を一段上ったな、と思った。

 一人旅。

 なんてかっこいい響きなのだろう。


 大学生の夏休みは長くてとても助かる。九月に入ってもまだ夏休みで、以前から憧れていた一人旅をしてみようと思い立った。行先はぼんやりとしか決めないで家を出た。とりあえず好きな武将の城を見に行こうと思って、新幹線に乗った。はじめて新幹線に一人で乗った。泊るところも決めてなかったので、当日泊れるところをネットで探した。温泉があって朝食も付いているところがあった。平日だったので予算内で泊ることが出来た。

 「旅」という言葉には憧れが詰まっている。「旅行」ではなく「旅」なのだ。小学生のころからロールプレイングゲームをやってきたせいかもしれないが、「旅」とか「冒険」という言葉は心が躍る。ほとんどの男子はそうに違いない。

 今日も泊るところは決めていない。とりあえず目的地を決めて、観光して、そのときの気分で決めればよい。泊りたいと思ったら宿を探せばいいし、帰りたいと思えば帰りの切符を買えばいい。インターネットはすごく便利。そういえば昨日新幹線の切符を買ったときも、かなりオトナになった気がした。


 考えてみれば、これまでも幾度となく「オトナになった」と感じた瞬間がある。

 アルバイトして初めて給料をもらったときは、自分で稼いだという嬉しさとともに、オトナになった気がした。部活帰りに仲間たちとラーメン屋に行ったときも、ドラマやマンガで見たようなシチュエーションを自分がやっていて、オトナになった気がした。中学生になったときに初めての制服を着たときも鏡に映る自分の姿を見ながらもちろん思った。

 もっと前のことだと、一人で電車に乗ったときも、やり遂げたあとに達成感と安心感に包まれながらオトナになったと思った。あのときは目的地に着くまで、電車内にいる人すべてが悪い人に見えて、襲われるんじゃないかという不安と戦っていたのだ、たしか。

 そういえば小学校低学年くらいのときに、友達数人と自転車で隣の駅まで行ったことがあった。あれもすごく自分がオトナになった気がして誇らしかった。次の日にクラスで自慢しまくった。

 ぱっと思いつくだけでもこんなにも「オトナになった」と感じた瞬間がある。幾度となく自分は「オトナになった」のだ。そして今も一人旅をして朝風呂に浸かりながら「オトナになった」と感じている。


 実際のところ、もう既に二十歳を超えている。お酒は飲めるし、車だって運転できる。クレジットカードだって持っている。悪いことをしたとしたら、しっかりと罰せられる。一般的にはオトナなのに「オトナになった」なんておかしいよな、とも思う。

 湯船に浸かりながら、両手を上に伸ばす。空気はまだいくらか涼しくて気持ちがいい。ツクツクボウシの声が聞こえる。伸びをしていたらあくびが出た。

 家では昼夜逆転気味の生活をしていたのに、しっかりと朝起きて、これから朝食を食べる。なんて健康的なのだろう。

 

 なんとなく、多分これからも何度も「オトナになった」と感じる瞬間があるのだろうな、と思った。

 きっと就職したときに思うと思う。あとは結婚できたとしたら、そのときにも思うと思う。マイホームを買うとなると絶対に思うと思うし。あと多分新幹線に一人で乗っただけで思ったのだから、もしかすると飛行機に一人で乗ったときにも思うかもしれない。一人で海外旅行に行くことがあれば、多分思うと思う。ゴルフすることがあればそのときにも思うかもしれない。


 タオルを湯船に入れないでください。身体を洗ってから湯船に入ってください。よく拭いてから上がりましょう。

 入浴マナーについての注意書きが目に入った。戸が開いておじさんが入ってきた。貸し切り状態ではなくなってしまった。充分朝風呂を堪能したし、そろそろ出ることにした。

 最後の仕上げのような気持ちで、もう一度肩までお湯に浸かる。そういえば初めてメタルバンドの時計を買ったときにも「オトナになった」と思った。ブラックコーヒーが飲めるようになったときにも「オトナになった」と思った。

 こんなに何度も「オトナになった」と感じてきていて、これからも何度も感じる予定がある。どれだけ自分は「オトナ」に憧れていて、いつになったら「オトナ」として完成するのだろうか。

 一人旅をしたかったのも、一人旅に憧れたのではなくて「オトナ」になりたかったのかもしれない。かっこつけて高い腕時計を買ったのも「オトナ」になりたかったからなのかもしれない。


 身体を洗い終え、湯船に入ってきたおじさんと交代するように湯船からあがった。しっかりと身体を拭いて大浴場から出る。ロッカーを開けて、バスタオルで一通り身体を拭いたが、汗がどんどん吹き出してくるので、扇風機の風に当たり身体を冷ました。

 温泉成分のおかげか、身体のぽかぽかは長いこと続く。

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