キッチンに立つ幸福な夢
花梨
食べないひと
先に聴覚が働いた。校庭を流れるはしゃいだ声が耳に響く。
目を開くと見慣れた天井。耳に優しくないチャイムが、授業の終わりを告げた。何時間目だろう。腕時計を見ると、二時五十五分だった。ということは、今終わったのは六時間目。廊下も騒がしくなった。
しかしその数秒後、保健室のドアが開いた。それだけで誰かわかる。もう五分、横にさせて欲しかった。
「大丈夫か眞弓」
「だいじょぶでーす」
軽い調子で答えると、怒ったように
無言でベッドに近付いてくる。怖、と思わず寝たまま腰がひける。手には、眞弓の鞄があった。
「またご飯食べなかったのか!」
太い眉が八の字になっていながらも怒っている。
「いや、まぁ。ははは」
ベッドに横になったまま見上げる祐希の顔は、昔に比べずいぶん男くさくなったと感心してしまう。
「忙しいのはわかるけど、体調管理くらい出来ないのか」
「食べる時間がもっ……」
もったいない、と言い終わる前に祐希は吠えた。
「いい加減にしなさい!」
保護者以上に保護者。お母さんより口うるさい、と眞弓は隠れて溜め息をついた。
下校道は、夕焼け前の薄い水色が覆う。
応急処置で買ったスポーツ飲料は飲んだだけで体に元気が回る。さすがだなぁと口に運びながら、道すがらひたすらお説教を聞く。正直、くらくらしているからあまり頭には入ってこない。
「聞いてる?」
「え、何?」
突然振り向いた祐希に驚く。しまった、聞いていると言えばよかったのに。
呆れ顔の祐希は、面倒くさそうに口を開く。
「ここ数日で何食べた」
「缶コーヒーと……チョコ何個かを食べた」
「それは食べたうちに入りません。ああ、おばさんがいない事に気づけなかった」
うなるような声で溜め息をつく。いや、溜め息どころの騒ぎではない。心の底から呆れ返った人間のみが発する言葉だ。
「食というのは、生きていく上ではかかせないことなんだ。食をおろそかにしては健全な生活はおくれないんだよ。こうしてたまに栄養不足で倒れるのが証拠だ」
食べることは生きること。
それを体で現しているのは祐希だ。小さい頃からよく食べているおかげか、背も高いし横幅もそれなりにある。恰幅はいいものの、格闘技などのスポーツはしていない。
「聞いてる?」
くるり、とまた眞弓を振り返る。その顔に怒りはなく、今度は不安そうなものに変わっていた。
「めまいとか、してない?」
眞弓は首を振った。ぼんやりしすぎたみたいだ。
「ゴメン、大丈夫。ちゃんと家帰ったら食べるから」
すると、祐希は激しく疑わしいというように眉をひそめる。祐希は眉をひそめるとちょっとだけ男前になる、と眞弓は思っていた。
「ぜーったい食べないだろ。家に食料あるのか」
久しく開けていない冷蔵庫の中身。何があるかなんて知らない。それが表情に出たのか、祐希は顔をしかめ、いつもの通学路からそれた。
「どこ行くの?」
「買い出し」
前を見たまま答える。今の状態では、それに不服を申し立てることは出来ず、眞弓はただついていくのみだった。
髪が短いから、首筋がよく見える。耳の下にほくろがあるのも知っている。昔はつついて遊んでいたけれど、今はなんだか手が出ない。大人になったのかな、と眞弓はぼんやりその背中を見た。肉付きがよくて、大きくて、やわらかそうで、暖かそう。
「とりゃ!」
その背中にエルボーを入れてしまった。
けれど、祐希は怒る様子もなく、振り向いた顔に微笑みを浮かべていた。
「元気そうでなにより」
眞弓は口を尖らせうつむいた。悔しいが、祐希には子供扱いをされている。
ひゅぅ、と風に流れ、口に入った髪を指でつまみとり、他の毛となじませる。髪の毛もごはんも、たいして味は変わらない。
スーパーに入ると、鞄を乗せたカートをからからと押しながら、次々と野菜や肉を放り込む。どこに何が置いてあるかを熟知した動作に見えた。眞弓はどこに何が置いてあるかわからないので、その足運びのスムーズなことに驚いた。テンポよく、食料品は祐希のすべらすカート内のかごに吸い込まれていく。
「あたし、あんまりお金ないよ」
財布の中身を思い出し、口を出す。
「立て替えるよ。眞弓のおじさんに後で請求しとく」
父に知らされたらまた説教が増える。仕事であまり家にいないのに、口ばかり出すんだから、と不服。
レジではちゃっかりエコバックを差し出し、ポイントカードまでつけてもらっていた。ポイントは、結構溜まっている。
買い物を終え、祐希は鞄二つと膨らんだエコバッグを持ち、眞弓の前を歩いていた。隣を歩くより、なんだか安心する。昔から、二人の距離は同じだ。
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