第103話 『涅槃交響曲』 黛 敏郎

 前回のようなわけで、中国の音楽理論は日本にも伝えられたわけでしょうけれど、日本では、音階の徹底的な分析までは行われなかったようです。


 つまり、(と言ってよいのかどうか、わかりませんが)実用的な範囲で、「ま、いいか・・・」と割り切ったようなのです。


 それが、最後まですべては説明しつくさず、言外の謎を残し、自らその意味を問いたださせる、日本文化の特質とつながってるんだかどうかは、やましんごときがいえる事ではありません。


 この『涅槃交響曲』は、NHKと共同で、『梵鐘の音』の徹底的な科学分析にもとずいて、それを西洋楽器による再構築ということに成功した第1楽章「カンパノロジーⅠ」から、全6楽章の交響曲にまで拡大していったとのことなのですが、何がすごいと言って、やはり、初めての事だったと言うところが、まずは、すごいんだと思います。


 当時最高の分析技術・科学的手法による、説明しつくせない音の、見える化でありますね。


 全曲の初演は1958年。


 とはいえ、いつも言いますが、ここは「うつうつ」でありまして、やましんの慰めとなる音楽かどうかという自分勝手な基準が、ここに入るかどうかのボーダーラインとなります。


 そう言う意味で言えば、この曲は、けっして楽しくはないです。


 また、じゅわじゅわするのでもないです。


 まずは、正座して聞かねばならない、という気がする音楽であります。(でも、ども体がとても、つらくって、結局は、寝っ転がるのですが・・・) 


 まあ、ここ10年程の間、両親や、奥様のご両親、親族、音楽の仲間、職場の同僚、そのご家族、ご近所様、などなど、かなり多くのお葬式に立ち会うこととなり、その都度、さまざまな宗派の(仏教以外には出会わなかったですが)お経を聞く機会を得たわけです。


 そうして、この曲も、ここ10年ほどは、聞かずに来たわけですが、改めて聞いてみて、以前は「すごいなあ」という感慨が大きかったものが、なんだか、もうちょっと、客観的に聞いてしまうようになったと、思ったのです。

 

 つまり、自分が祭壇に乗っかる日が近づいて来たか、という、ある種の、まな板に乗る寸前状態にある、ある種の呆然自失的状態にあるのである、と、いう感じかな。(三か月ごとに、病院のプチ手術台に乗るのですが、あれって、そう言う感じがしますよ。)


 まあ孤独死の可能性もあるので、さかんに60歳以上の一人暮らしは危ない危ないと報道されると、多少は気にならないわけでもありません。


 そこで、なんとなく、無感動に最後まで聞いてしまえるようになったということから、(よくわかんないけど)ここに入れさせていただきました。


 なお、やましんの、実に失礼な、しろと考えでは、声楽が入らない楽章が良いです。


 声楽が入ると、どうしても、発声が西洋音楽の発声法なので、とくにハモッてしまうと、相当西洋風に聞こえてしまい、あえて言えば、オルフ様の『カルミナ・ブラーナ」に近くなる感じもするのです。


 が、それも、また、良し、ということなんだろうとは、思います。


 芥川也寸志さま、團伊玖磨さま、黛敏郎さま、三人のこの天才は、1953年に『三人の会』を結成していました。


 作風は全然違うのですが。


 皆さますでに、他界されてしまいました。


 やましんは、團さまの講演(トークです)を横浜でお聞きした事があり、そのころは、新国立劇場のこけら落とし『オペラ』の公演準備中で、お忙しくも、随分お元気だったのですが。


 ほかのお二人は、テレビや録音以外で、目にしたことはございません。


 時間がたつのは、本当に早いものですね。

 



 













 


 

 






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