第60話 『交響曲ヘ短調』 ミエルク
フィンランドで最初の交響曲を書いたのは、アクセル・ガブリエル・インゲリウスさま(1822~1868)であるとされております。エルッキ・サルメンハーラさまがお書きになった『フィンランドの民族文化と音楽伝統の誕生』(『フィンランドの音楽』 1997 オタヴァ出版印刷所)によれば、『オーケストラの置かれた状態の貧困さのため、我が国では十九世紀にはオーケストラのために作曲するという伝統は生まれなかった。』のだそうです。
インゲリウスさまの作品を実際に聞く機会は、なかなか、なさそうですが、同じ本によれば『カレヴァラ(フィンランドの民族叙事詩・・筆者注)調の5/4拍子のScheroz finnnico が含まれているものの、曲自身には特にフィンランド的なところは何もなく、インゲリウスのオーケストラの扱いは素人のものだった。』と、いうことなのだ、そうであります。
ただ、インゲリウスさまは、フィンランドとスウェーデンの『音楽評論』の分野では、開拓者として重要とのことです。
まあ、しかし、そう言われると、聞いてみたいものですが、カスキさまの交響曲と共に、一部ファンの期待は、いまだ満たされておりません。(カスキさまのほうは、なぜかネットでは流されているようですが。)
そうしたなか、フィンランド最初の本格的な交響曲は、この、不遇の天才によってもたらされたのです。
エルンスト・ミエルクさま(1877~1899)は、経済的には恵まれたご家庭であったようですが、病弱で、その早熟な天才は、わずか22歳で打ち切られてしまいました。
富裕な商人のご家庭で、文化的には大変恵まれていたようです。お母様は、エルンスト・ファブリティウスさま(1842~1899 フィンランドで3番目のヴァイオリン協奏曲を書いたという方。)のご兄妹で、お歌の先生だったそうです。
ピアノは10歳から始めたと云うので、比較的遅くからですが、上達は早く、ブルッフ先生の教えも受けたとのこと。(つまり山田耕筰さまとは、兄弟弟子ですな。)
この交響曲は、1897年に書かれています。
シベリウス先生は、もう30歳を超えていましたが、まだ『第1交響曲』を書いていませんでした。
どうも、この曲の発表が、シベ先生に刺激を与えたのかもしれません。
実際のところ、この曲の冒頭は、ティンパニの軽い連打から始まりますが、しべ先生の第1交響曲もそうです。想像ですが、シベ先生には、ちょっと対抗意識があった可能性もあるように思います。
しかし、ミエルクさまは、1899年春、持病のリンパ腺結核(結核菌がリンパ節に感染する病気。現在は、抗結核薬がありますが、最初に有効なものが出来たのは1944年の事とか。)が悪化し、スイスに療養に赴きましたが、22歳のお誕生日の2日前(10月22日)に亡くなり、ロカルノで埋葬されたとの事であります。
奇しくも、シベ先生の第1交響曲の初演は、1899年4月26日。
ミエルクさまのこの作品、やましんが聞くに、第3楽章が絶品です。
20歳の時期に、このような奥深い音楽が書けたのは、確かに奇跡のようなものです。
同じフィンランドの、トイヴォ・クーラさま(1883~1918)は、戦争のごたごたのさなかに銃で撃ち殺されて早死にしました。
ふたりとも、シベ先生を超える作曲家になった可能性もある天才でした。
惜しい事です。
とはいえ、なのに、なぜ、役たたずのやましんが、なんでまだ生きてるの? という、周囲の疑問に対しては、本人は答えるすべはありませんけども。(相当ひねてますね。夕べは、たぶん政府による『模擬戦争』に狩りだされ、ぎたぎたになる夢でございまして、槍やら弾やら棒やら、小型核爆弾やらが、やたら降りそそいできて、困りました。起きたらもう、くたくたですよね。週の半分近くは、そんな感じですが、お話を創るネタにもなります。むしろありがたいと、思うべきでしょう。でも、やっぱり安らかな眠りも欲しいなあ。)
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