第33話  『フレセの花々』 ペッテション=ベリエル

 なんとも、お腹の中に入れたカイロか湯たんぽのように(ゆたんぽは、お腹には入らないかな・・・)ほかほか、ほんわりとした良い曲集です。


 地元スウェーデンでは、現在も結構人気があると聞きます。

 日本でも、小川典子さまのCDが出たので、ぼちぼち知られているかと思います。


 このような音楽を書く方なので、さぞや、いつも、にこにことした、優しいおじさんだったんだろうなあと思いますが、実のところ、なかなか人間界というところは、そうは甘くは無いようなのです。


 甘く美しい旋律を書く名人だった、ペッテション=ベリエル先生は、とっても恐ろしい批評家としても知られていたようなのです。

 特に、フィンランドのシベリウス先生を、よく批判の矛先として攻撃していたようなのです。

 そこで、シベ先生のファンにとっては、親の仇の様な人物というイメージが、もしかしたら、幾分かは、あるかもしれません。


 ところが、日本語による資料のなかでは、いったい、どんなことを、実際に言ったのか、ということがわかるものが、なかなか見当たりません。


 学生時代に見た、有名な、エリック・タワスジェルナさまがお書きになったシベ先生の伝記本がございますが、そのなかに、いくつか記事があったような気がいたします。


 現在ぼくのその本は、ちょっとした人質になっておりまして、すぐに手元に用意できません。

 そのうち、なんて書いてあるのか、見てみましょう。


 もっとも、辞書と長い時間と努力が必要ですけどね。(読んでないんだ!)


 それはともかく、人を呪わば穴二つでございまして、いったい、どこまでが許される、評論なのか、評論ならば、どこまでも許されるのか、言う人によるのか、嫌いな相手の悪口は味方なのか、違法じゃなければ自由自在なのか、個人の人格攻撃は当然慎むべきものでしょう、とか、・・・・・、まあ、科学的な分野の議論というものは、ちょっと別としておいて、こと、芸術の分野では、古来なかなか、このあたりには、凄まじい闘いが繰り広げられてきたようなのです。


 また、そこに政治が絡むと、もっとやっかいになるようですが。

 これは、たとえば、ショスタコーヴィチさんなどが念頭にあるのですが。


 モーツアルトさんなども、他人をほめることは大変珍しくて、どちらかと言うと、悪口を言うことの方が多かったらしいですな。


 批評というのではないですが、また、そのモーツアルトさんを、まだ彼が子供時代から(当時は子供という概念は未発達だったようですが)、商売敵として攻撃した方もけっこうあるようです。


12歳の(12歳ですよ!)モーツアルトさんが書いた歌劇『ラ・フィンタ・センプリーツェ』も、イタリア人の興行師さまの妨害で、上演が出来なかった、なんていうお話があります。

 妨害した、された、は、どうも、当時もよくあったお話しのような感じです。まあ、それぞれが、ご自分の地位や生活がかかっていたことも事実でしょうけれど。


 しかし、アメリカの選挙運動などをみていても、みなさん、なんであんなにタフなんだろうと、感心するばかりです。


 『批評でダメになるようでは、プロとしては失格です』、という意味の厳しいお声も聞きますし、まあ、やましんも、確かにかつて仕事に関して、内外からお叱りを受けたり、時には反論したりもしたことがあるわけですが、やはり、犯罪をしてしまった場合は、まあ、やむ負えないのでしょうけれど、厳しい批評や、批判というものは対象になっているご本人の精神には、普通は、随分とこたえることでしょう。


 芸術家の方の場合、なかなか繊細な方も多いので、無慈悲な批評に苦しんだ有名な方も、きっと、多いのではないでしょうか。


 マーラー先生のご学友だった、ハンス・ロット様は、ブラームス先生から自作の交響曲に厳しい批評を頂いてしまい、そのあと列車内で発砲事件を起こし、その後二度と、再起できなかったようです。

 これに関しては、本人が未熟で、批判の言葉に耐えられなかったんだ、という厳しい解釈も見受けました。

 現代でも、列車内でもし発砲したら、やはり容認はされないでしょう。


 ときに、マー先生の『第一交響曲』には、そのロット様の『交響曲』にそっくりな部分があります。その楽譜は、一時期、マー先生が借りて、持っていたらしくも聞きます。

 ロット様の曲の方が、どうやら先にできています。

 ある意味、好意的に言えば、マー先生がご友人の『遺産』を後世に残したのかも、しれませんけれども。


 しかし、現在は、元の曲自体を、録音で聴くことが可能になりました。


 これは、マー先生が予測していなかったことかも、しれないですけれど。


 やましんが聞く限り、ロット様の交響曲は、なかなか傑作です。なにしろ、心意気が非常に高くて、明らかに将来有望です。どうして、もっと生きて素晴らしい作品を残せなくなったのか?

 いささか考えるところは、ございます。

 もし、ブラームス先生が、批判だけではなく、それなりの励ましもしていたのだとしたら、違ったのでしょうか。

 このあたりは、今さら分からない事ですけれども。


 まあ、厳しい批判にも、ほとんど、こたえない頑丈な方も、中にはあるようですけれど。


 有名なスポーツ選手の方なども、日々そこらあたりを乗り越えて行くのは、これもまた、恐るべき精神力であります。

 よほどの信念が固まってないと、出来ないでしょう。

 りっぱなものです。ただただ、感心するばかりです。


 どうやら、ペッテション=べリエル様も、後年、だんだん逆に攻撃されるようになったらしくて、結局は嫌気がさして、引退なさったいうCDの解説も、たしか拝見いたしました。もっともこれも、一次資料がございません。


 こういうお話は、おしまいにしまして、それにしても最近の世の中、客観的な資料はなしに、ネットなども活用して、偉い方が、やや無責任な感じで他人様を攻撃するらしきは、やはり、いささか心配な現象ではあります。

 でも、逆に何も言えなくなるのも、これまた困ったものです。


 ペッテション=ベリエルさまの、ほんのり音楽に、いつも癒されながら、このごろ、あまりお外には出ないやましんも、ほのかにそんなことを考えたりも、いたします。


 ときに、別に、アラン・ペッテションという作曲家がいらっしゃいます。

 このかたは、非常に苦しい少年期を過ごさなければならなかった、大変、不運な方でありました。

 その方が、お書きになった音楽について、非常に「自己憐憫に溢れた」音楽という批評も見ましたが、このあたりも、その音楽をどう受け取るかは、聞き手に任されるわけであります。

 ペッテションさんもまた、結果的には成功者だったのですし、少し(相当)渋いけど、どちらかと言えば、ぼくを、じゅわっとなぐさめてくださる側の方です。


 苦しい人生を過ごした方が、後々、多くの人を救ったり、なぐさめたりする存在になってくださることも多い、と言うこと自体は、まだ世の中、捨てたもんでもないと、言えるのでしょうね。


 願わくば、攻撃だけじゃなくて、寛容な精神も、あちらこちらで、もっと発揮されてほしいです。  

 



     🌼 🌼 🌼 うつ 🌸 🌸 🌷 うつ 🌷 🌻 🌻 🌸 


 

 

 



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