ソフトボイルド
北極熊
第1話 ハードボイルドに憧れてしまった
ハードボイルドに憧れてしまった。
いきなり何を言い出したのかと思うだろう。単純な話だ。ハードボイルドな生き様に憧れたのだ。
そもそもハードボイルドとは何か。それはとても深い問いだ。一言で言うと、卵をカチカチになるまで茹でることだ。と言うのは冗談で、感情に左右されることなく何事にも動じない人間。トレンチコートに中折れ帽を着こなし、葉巻を加えたり葉巻をやったりする、ハリウッド映画とかで見る渋い男だ。かっこいいと思わないか? 思うだろう。
と言うわけで、自分もそんな生き方をしてみることにした。ハードボイルドはなろうとしてなるものではない、その時点でハードボイルドとは言えない。なんて批判もあるだろう。が、そんなものはどうでもいい。俺は批判なんかに流されない。もう既にハードボイルドだからな。
さて、そうと決まれば早速行動だ。妄想だけで満足するのは中学生までであり、俺は大立派な大人だ。まずは仕事を変えよう。
この俺、竜崎ジン(22歳)は名古屋のスーパーでレジ打ちをしているのだが、これはあまりハードボイルドな感じがしないので思い切ってやめてしまおう。AI搭載ロボットが人間様の仕事を奪い始めた昨今だ。そう遠くない未来に俺もその一例に加わる頃だろうし、大して躊躇いはない。
代わりに賞金稼ぎ(バウンティハンター)の派遣会社に登録しよう。なかなかどうしてハードボイルドな職業だと思う。それっぽい服装も集めないといけない。なんと言ってもやはり、トレンチコートと中折れ帽がいい。色は好みの黒だ。あとは武器屋でレーザー銃を一丁買う。
だいたいこんなところか。
さあ、ハードボイルドな日々が待っている。
なんて思っている時が俺にもあった。
「はぁ……」
俺は人生でもトップ10にランクインするであろう情けない溜め息をついた。しかし、そんなたいそうな溜め息もあっという間に都会の喧騒にかき消される。
眼前に広がるのは空へと背伸びする高層ビルの群れ。21世紀初頭に始まった名古屋駅周辺の再開発はエリアを加速度的に拡大していき、半世紀以上経った今では駅から半径約1kmの一帯を3、400mのビルで埋め尽くしていた。
そのニョキニョキ生えたタケノコのうちの一本、バウンティハンター派遣会社ゴールドウルフのビル、その手前のベンチに俺は今哀愁を漂わせて座っている。
「よりにもよって猫探しか……」
新米ハンターに与えられた任務は、どこぞの奥方が逃がしてしまったらしい猫の捜索だった。初心者に大層な仕事は任せられない、そういうことだ。そりゃそうだ。しかし、猫を追いかけるなんてあんまり俺の重い描くハードボイルド像ではない。
「まあ、最初はこんなもんか……」
それでも俺は自分に言い聞かせ、重い腰を上げて歩き出した。何事も経験さ。高名なハンターだって最初からそうだったわけじゃない。千里の道も一歩からだ。
真っ昼間、名古屋特有のだだっ広い道路を無数の電気自動車が滑空している。その端の歩道を行き交う、掃いて捨てたくなるほど大勢の人間達。スーツ姿で腕時計を食い入るように見つめながらきびきびと足を動かす者から、数人でお出かけ中のご婦人方、さらにはぽつぽつとロボットまで見受けられる。清掃用の箱ものや、ご主人からお使いを頼まれたのであろう人型ロボットだ。それら全てがこの大名古屋市という巨大な都市の動脈を赤血球のように流れている。そんな中、トレンチコートのポケットに手を突っ込んで悠々と歩いている俺は、もしかしたらかっこよく見えているんじゃないか。そう思うと再びモチベーションが湧いてきた。
俺は鼻歌を歌いながらおもむろにスマートフォンを取り出す。
「赤い首輪を付けたややぽっちゃりの三毛猫。いなくなった場所は……っと」
依頼内容からは目的地周辺の地図を確認できた。依頼者の証言から、猫がいると予想されるおおまかなエリアが円で囲まれている。そこをタッチすると、地形情報が空中に立体的に投影された。
「下の方か」
目的地は名古屋駅から大きく外れた位置にあった。再開発から取り残された地区の中でも特に老朽化が進んだ街。人はそこを『下』と言う。『下』には主にロボットに職を奪われてしまった者達が住んでいて、貧民街のようになっている。ヤクザの大規模な隠れ家があるなんて話もある。どうしてそんなところから猫探しの依頼が入ったのかは疑問だ。貧民街の人間に猫の捜索ごときにバウンティハンターを雇う余裕があるとは思えないし、普通の奥さんがわざわざ猫を連れて『下』に行くとも考えがたい。ならば、猫が気まぐれで外から『下』まで小旅行をしたのだろうか。猫は行動範囲が広いと言うし。だがやはり、同難度の依頼の中でも報酬が相場の3倍はあったのも妙だ。そんなこんなでなんだかきな臭かったが、ハードボイルドグッズの出費がでかかったこともあり、所詮は猫探しだと高をくくって引き受けた。まあ、依頼の背景などに興味はない。ハードボイルドな俺にはな。
俺は電車に乗った。ぼんやりと窓の外の摩天楼を眺めながら揺られることしばらく、ビルは次第に高さを落としていき、ついには薄汚い雑居ビルの広がる風景に変貌していた。
駅の構内はずいぶんと寂れていて薄暗い雰囲気だった。人通りもまばらで、壁際には清掃ロボットがぶっ壊されて打ち捨てられている。代わりに、今時としては珍しいことに、生身の人間が駅の掃除をしている。色々と気になることはあったがあえて深入りはしない。
ボロい駅舎を出ると、俺は雑居ビルの建ち並ぶ貧民街へと足を踏み入れた。辺りは静まり返っていて、活気の満ち溢れた名古屋駅前と同じ市内とは思えない。
それにしても酷いところだ。立ち止まって見渡してみると改めてそう思う。道端には平気でゴミが散乱していて、壁という壁はセンスのない落書き天国だ。建物の老朽化も著しい。劣化したコンクリートの雑居ビルがゾンビの軍団の如く群がり、中には数秒後には派手に倒壊するんじゃないかというようなヤバそうな状態のものもある。それに少し臭う。にんにくと下水が混じったような異臭がほんのりと漂っている。
「フッ、最高だぜ」
俺は初任務にふさわしい地に唾を吐いた。
科学技術の発展速度が人間の手に負えなくなって社会に問題をもたらす。そういった事象は前の世紀でも公害とかの形でよくあったことらしいが、人間はまた科学技術に置いていかれているのかもしれない。それも、今度こそ取り返しのつかないほど置いてけぼりに。
おっと。普段来ないようなところに来たせいか、つい余計なことに考えを巡らせてしまった。今の俺がやるべきことは社会問題の改善策を考えることじゃない。目の前の任務を淡々とこなすことだ。あいにく自分のことで精一杯さ。とっとと依頼を済ませてこの湿っぽい街からおさらばしよう。
さあ、行くぞ。そう胸の中で呟いて足を踏み出した。寂しい風が吹く中、昼間から酔っぱらっているおっさんに肩をぶつけられるのを無視して進んでいく。スマホの画面を見て、猫の予想存在範囲へ向かう。
貧民街には寂しい風が吹いていた。明るい会話などは全く聞こえてこない。風に乗って飛んでくるのは陰気なヒソヒソ話と薄汚れた広告の紙ぐらいだ。ヒューと吹く風の中、道を掃除するものがいないせいか、散乱する砂粒を踏みしめるジャリジャリとした音が虚しく鳴り響いている。
ん? 気のせいだろうか、どこか遠くから銃声のような音が聞こえた。まさか、ヤクザか? いや、気のせいだ。ああ気のせいだ。触らぬ神に祟りなし。
早くも気が滅入ってきてうんざりとしながら歩を進めていると、やがて低層なビルとビルの間、薄暗い路地に入り込んだ。
ふと、どこからともなく聞こえる猫の鳴き声。
「!?」
暗い路地の奥に目を凝らすと、猫がこっちに走ってくるのが見えた。赤い首輪のぽっちゃり系三毛猫。間違いない、依頼された猫だ。
なんだ、ツイてるじゃないか。初任務がこんなにもうまくいくなんて、これからのハードボイルドなバウンティハンター生活も明るいぞ。そう思いかけた時だった。
猫に続いて、一つの人影が奥から現れた。
近付くにつれ、その全貌が明らかになる。タイトな紺色のボディースーツで首から下をすっぽりと覆った女。肩にかかる程度のストレートな黒髪に、一点の狂いも見られない100%完璧な顔立ちとスタイル。
一目でそれがアンドロイドと分かった。よく見ると、体のあちこちにレーザーがかすったような傷がある。しかもあろうことか、そいつはアンドロイドのくせに人間に負けないほどに感情のこもった水色の瞳ですがるように俺の顔を見ていた。
順風満帆に幕を開けるはずの俺のハードボイルドライフ。しかし、俺の本能は慌てるように警鐘を鳴らし始めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます