恋した彼女は×××。
生ビール
第1話 モノクロ
出会いの季節にはまだ早く、どこまでも伸びていく空虚な空。
人生がつまらないとは言わないけど、二十五を過ぎたあたりからは、なんとなくダラダラと過ごしてきた。
僕の名前は本郷偉月(ほんごういづき)。
気づけばもうすぐ三十路・・・。
なにかにときめいたり、夢中になったり。
そんなものは若いうちだけ。
やりたいこととやらなければならないこと。
この比率は、年々後者が勢力を増してくる。
あきらめることに慣れた僕の目は、おそらく退化し、色を見分けることも忘れ、この世はモノクロームでできていると、いつしか疑うことすらしなくなっていた。
言っておくが、引きこもりでもなければ、ニートでもない。
立派な・・・とまでは誇るつもりはないが、正社員として働いている。
雇われではあるが、街中にあるレストランの店長をしているのだ。
家から最寄駅までは歩いて約二十分。
そこから職場がある八つ先の駅までは約十五分。
いつもと同じ地下鉄の、いつもと同じ車両、だいたい同じ席。
そんなルーティーンともなると、だいたい乗り合わせる人は見慣れた顔ばかり。
僕が乗る駅は人の乗り降りこそ多いが始発点であり終点でもあるため大概座ることができる。
三駅目辺りから立つ人が目立ち始め、五駅目ではほぼ満員になる。
いつも通りイヤホンを耳につけ、抱えたカバンを見つめながらその短い時間をやり過ごす・・・はずだった。
風が吹いた。
閉じた目が光を感じた。
音楽を聴いているはずなのに足音が響く。
僕の五感が、何かを感じ脳内に信号を送る。
これを人は第六感と呼ぶのか、気のせいだとあしらうのか。
運命と心惹かれるのか、偶然と笑うのか。
きっとそのどれもが正解であり間違いだ。
捉え方なんて、所詮起きた事象に対する解釈次第。
ポジティブな人間が運命と呼べば、ネガティブな人間は偶然と笑うだろう。
しかし、その一方でポジティブな人間の心の中には「偶然かも?」、ネガティブな人間の心の中には「運命かも?」と、いつだって小さな矛盾に抗い期待している。
そう、世界というものは僕らに矛盾といういたずらを仕掛け、その結果に一喜一憂させられているに過ぎない。
僕はどちらかと言えば前者、ポジティブに捉えるほうである。いや、であった。
年を重ねるごとに嫌なものが絡みつき、ひねくれを生んだ。
しかし、地下鉄の発射ベルが鳴り響く今この瞬間、僕の心は踊り、世界はカラフルに彩られた。
恋をした。
彼女は僕の目の前にさっそうと現れた。
薄いピンクの、裾もとが少しひらひらしたひざが隠れるくらいの長さのスカート、もしくはワンピースに、濃いブラウンの一番上に大きな目立つ丸いボタンがついたピーコート、そして色を合わせたブラウンのブーツ。
女性らしい大きめのブランドバッグに、お弁当でも入っていそうな小さなショップバッグ。
清潔感のあるしなやかな黒髪ロング。
僕がシャンプーのCMを作ることがあれば間違いなくこの子を採用するだろう。
そして何か言いたげな色気漂う切れ目な瞳と髪の毛を耳にかける細く白い手。
キラキラとした映像と効果音が目に浮かぶ。
残念なことにマスクをしているので、容姿の全てを目視できたわけではないが、それでも醸し出す雰囲気は完璧な、そんな女性が僕の右斜め前の席に座ったのだ。
電車は十両編成。
一両に前後二つのドアがあり、窓を背に八人座れるくらいの席が等間隔に配置されている。
僕は決まって先頭車両の前から二つ目のドアから入り、横長な椅子の端に座る。
彼女は、そんな僕の前を通り過ぎ、静かに座った。
今までも一緒に乗り合わせたことがあるのか、今日初めて一緒になったのか。
もし乗り合わせたことがあったのならばなぜ気づかなかったのか。
彼女は美し・・・いや待て。
こんなことを言うと、全国の、いや・・・全世界の女子を敵に回すことになるかもしれないが、あえて言おう。
マスクには気をつけろ!
健全な男子諸君ならわかるだろう。
うしろ姿の超絶雰囲気美人!
夏の浴衣マジック!!
冬のふわふわロングニット!!!
幾度となく心をへし折られた淡い期待と苦い記憶。
つまりそう、マスクもそれなのだ。
しかし、男という生き物は奇跡的な、運命的なものを感じると過去の経験はリセットされ、同じ道を何度も歩んでしまう。
そう、バカなのだ。そしてまぎれもなく今の僕は、それなのだ。
僕の脳内に映し出される彼女のビジュアル。
マスクで隠れている鼻と口。それらが少しずつ浮き出てくる。
自分勝手に整えられたその容姿は、まるでアニメのヒロインそのものだ。
彼女の声は優しく、その吐息は色気に満ちていて、少し謎めくいたいけな美少女。
主題歌はドキドキする曲をあのアニソン特化型歌手に歌ってもらって・・・。
そんな妄想を繰り広げているうちに、僕の視界はサラリーマンに遮られた。
ふと気づけばもう五駅目を過ぎている。
耳元から流れてくる爽快なラブソングが、僕の心をいっそう沸きたてるが、その後も人は増え、彼女の姿を視界で捉えられなくなっていた。
これは一目惚れなのだろうか。
マスク越しの顔しか見ていない、むしろ僕の中でデフォルメされた彼女に惚れているわけで、本物の彼女を僕はまだ知らない。
それを考えると本当の意味での一目惚れとは言わないのかもしれない。
だが、それでも僕の直感が騒ぎ立てる、出会いだと。
現代風な言い方をすると、なんらかの“フラグ”が立ったと。
せめて、彼女がどの駅で降りるのか、それだけでも知りたかった。
別にそれを知ったところで声をかける勇気はないのだが、それでも彼女に対してまだなにも持っていない情報を一つでも多く手に入れたい。
僕が降りる八つ先の駅では一気に人が降り始める。
そうなればきっと彼女の姿がまた見えるはず。
「間もなく、勾当台公園~勾当台公園~」
運転手のアナウンスがイヤホンのむこうからうっすら響く。僕が降りる駅だ。
たくさんの人がぞろぞろと降りる準備を始める。
僕もその一人なのだが、彼女のいる方向が気になって仕方がない。
電車が止まりドアが開く。
僕も立ち上がりながら彼女の方を見つめる。
・・・が、悲しいことにもう彼女の姿はなかった。
前の駅で降りていたのか、ドアに近い為そうそうに降りてしまいそれに気づけなかったのか。
急いで電車を降り、周りを見渡してみる。
鼓動の音が聞こえる。お尻の辺りがムズムズする。
左右どちらにも改札に続く階段があるが、圧倒的に左側の方が近い。
先頭車両に乗るということは、よほどのことがない限りその改札を選ぶはずだ。
これは決して願望ではなく、わざわざ先頭車両まで歩いたのに降りてから間逆の改札へ向かうような物好きはそうそういない。
階段とエスカレーターの先へ目を細める。
すると、そこに彼女と思わしき黒髪の女性がエスカレーターを上っていくのが見えた。
本当に少しの、でも強い期待をこめて走り出そうとしたそのとき。
「よぉ偉月、今から仕事か?」
慌てた僕は目を見開きながら声がした左後方に目を向ける。
「どうした?まだ寝ぼけているのか?」
彼女を追いかけようと高ぶっていた鼓動が少し落ち着き、そこでようやく状況を把握した。
「あぁ・・・、なんだ、若林か。」
車掌室から左腕を乗り出し、白シャツに紺のネクタイ、同じく紺色のまさしく運転手らしい帽子をかぶった彼は、中学の同級生で大学卒業後は僕が乗る地下鉄の鉄道会社に就職した若林拓也。
彼との付き合いは中学卒業後、成人式のときの同窓会で会った程度だったのだが、仕事でこの地下鉄に乗るようになった頃、久々の再会を果たしたのだった。
「なんだとはなんだよなんだとは。」
彼は少し不服そうにそう言ったが、少し緩んだ表情をきりっと仕事モードに切り替え、「今日も頑張れよ。」と敬礼のポーズをとり、同時に電車のベルが鳴り響く。
彼もまたこの通勤ラッシュの中その電車を運転する、仕事中の身なのだ。
「安全運転で頼みますよ。」と声をかけ、僕も敬礼のポーズに応える。
ドアが閉まり、走り出しながら静かに、でも明らかに目立つ音で「フォンッ」と僕に向けられたクラクションが鳴る。
車のクラクションなら聞きなれているが、電車のクラクションを聞けるなんてそうないことだ。
しかもそれが僕に向けられたものだとは周りの人もほとんど気づきまい。
「フンッ」と誇らしげに鼻を上げ歩きだ・・・違――――う!!
今はそんな優越感に浸っている場合ではなかったのだ!!
姫!!
・・・なぜ僕の心が彼女を姫と叫んだのかは定かではないが、僕の中で名前も知らぬ彼女の存在は「姫」と位置づけられたらしい。
自分でも少し馬鹿らしく思ったが、変に馴染む気がして嫌いではなかった。
少し小走りにエスカレーターを上り、改札を出た後周りを見渡してみたが、それもそうか、彼女の姿はあるわけもなかった。
かなり残念な気持ちと、でも同じ駅で乗り同じ駅で降りるということを知れただけで、今日は満足だった。
きっとまた会えるはず。
ちょうどイヤホンからは懐かしいバンドの名曲が流れ始め、深く吸い込んだ息を吐き出し、職場へと歩き始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます