お客さん、どちらまで……?
おかしいな。
てっきり、あの並んでいる仏像の夢を見ると思っていたのに、と晴比古は夢の中で思っていた。
夜道でタクシーに乗っている。
しかも、自分が運転手だ。
タクシーは見覚えのない道で止まっていて、開けた覚えもないのに、勝手に後ろのドアが開く。
だが、バックミラーを見ていても、誰も乗ってはこない。
おや? と思って振り返ると、やはり、誰も居らず。
座席には、あの、なくなった木の仏像が、少し傾くように置かれていた。
勝手に口が動いて言う。
「どちらまで?」
仏像に訊いてんのか? と自分で自分に突っ込んだとき、誰かがドアを叩いている音で目を覚ました。
起きて、暗い中、つまずきながらドアまで行き、魚眼レンズから確認する。
ふて腐れたような志貴が立っていた。
ドアを開けてやりながら、
「どうした?」
と訊く。
どうせ、深鈴のところに行ってたんだろ、鍵持って出ろよ、と思っていると、いきなり、志貴は、
「先生のせいですよっ」
と怒鳴ってきた。
「なに亮灯に常識とか教えてるんですかっ」
とよくわからないことで怒り出す。
深夜、晴比古が寝るのを待って、志貴は深鈴―― 亮灯の部屋へと忍んでいった。
チャイムを鳴らしてみたのだが、何故か亮灯はドアの側まで来ておいて、開けてくれない。
「私、思ったんだけど、志貴。
結婚前にこういうのよくない気がしない?」
「な、なんで急にそんなこと言うんだよ」
ドアを挟んで聞こえてくる亮灯の言葉に、志貴はうろたえた。
「だって、今まで私たちは常識の外で生きてきたっていうか。
私は戸籍もなく、表向きは死んだ人間だし。
でも、こんなことになって。
もし、これから先、いつか私が天堂亮灯に戻って、ちゃんとした人生を生きていくのなら。
今までみたいに、退廃的に生きてちゃいけないんじゃないかなあって思って」
「ちょ、ちょっと待って、亮灯。
それはまあ、いいことだと思うよ。
君がちゃんと地に足をつけて前向きに生きていくことにしたのなら、僕もそれに従うよ。
でも、それと、今日はなしって言うのと違わない?」
結婚までしないとか、それ、なに? なに時代の話っ? と訊くと、
「だって、今日会ったおじいさんもそんなこと言ってたし」
と言ってくる。
「……亮灯。
そのおじいさん連れてきて」
待って。
なにかする気でしょう、と言われてしまう。
「ともかく、志貴。
今日は帰って。
今はひとりになって、いろいろ考えたいの」
そう言って、結局、亮灯はドアを開けてくれなかった。
「先生のせいですよーっ」
「いきなり怒鳴るな」
とベッドの腕を胡座をかいて聞いていた晴比古は耳を塞ぐ。
「先生のとこに居て、余計な常識とかモラルとか、亮灯がどんどん吸収してったから、こんなことになっちゃったんじゃないですかっ」
「いや……それ、悪いことなのか?」
「今までは僕が亮灯の常識だったのに」
と志貴は呟いている。
相変わらずの危険思想だ。
っていうか、お前、ジジイ呼んできて、どんな危害を加える気だったんだ、と思っていると、志貴は不満げに、
「帰ってみたら、先生は呑気に寝てるし」
と言ってくる。
「待て待て。
お前、俺が寝入るのを待って、深鈴の許に忍んでったんだろうが」
寝てて当たり前だろ。
八つ当たりじゃないか、と愚痴る。
「まあ、志貴。
考えてみろ」
落ち着きなく部屋の中を歩き回っている志貴に晴比古はそう呼びかけた。
「要するに深鈴は前向きにお前との結婚を考え始めたってことだろ」
えっ? と志貴が振り向く。
「お前、今夜相手にしてもらえなかったことしか頭にないようだが。
深鈴はもっと先、お前との将来をきちんと考え始めたってことだろうが」
「そ、それはそうかもしれませんが……」
俺に言わせるなよ、胸が痛むのに、と思いながら、
「まあ、お幸せに。
俺は寝る」
と晴比古は布団をかぶった。
頼むから機嫌よく寝てくれ。
寝込みは襲わないで……と願いながら。
さっき、苦悩した顔で歩き回っていた志貴を思い出していた。
ああいう顔をしていると、男でも惚れそうな色気がある。
他に女はよりどりみどりだろうに。
……深鈴ひとりくらい俺にくれよ、と思いながら、晴比古は目を閉じる。
もう一度、夢の世界に入っていったが、もうあのタクシーには乗れなかった。
『お客さん、どちらまで――』
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