02 メディック
高床の民家の後、複数の土壁の民家を通り過ぎ、頑丈そうな倉の前で止まった。
入口の框は何かを引きずったような赤黒い痕が付いている。
少女が中に入ると怒号が聞こえてきて、続いて少女のキンキン声が聞こえる。
倉の出入り口から半裸で初老の男性が現れた。男性にも青い翼が生えている。
「はじめまして、イシャがあるのか?」
地の国の言葉だ。片言のそれに「そうです」と短く伝える。
知らない文化は何が不敬に当たるか分からない。これが最良の選択だ。
中に案内されると派手な柄の敷物に、軍服を着た男性が苦しそうに倒れていた。
急いで男の横に駆け寄る。つん、と酒の匂いがした。
「おい、大丈夫か? 言葉は分かるか?」
「ああ」
男性は四十代ほどだが、苦しそうに絞り出した声は老人のようだった。
肌が紫色に変色し、ほとんど呼吸ができない様子だ。
僕は男の軍服を見て、短くため息を吐いた。
「僕は帝国のメディックだ。伝えたいことがあるなら話せ」
男はニヤリと不敵に笑って吐血した。
軍服の胸元にはエンブレムと地の国の言葉で「連邦」と書いてある。
僕はオーバーオールから携帯ナイフを取り出し、エンブレムを汚さないよう丁寧に軍服を切り、血液で真っ赤に染まった下着を裂いた。
胸に玉虫色に光るパイプが刺さり、筒の中から鮮血が溢れている。
敷物は最初から派手な柄ではなかった。魔力の混じった血が染み込んだせいだ。
床や敷物の血痕を見る限り、どうやらここまで運んだのはつい最近らしい。
惨状を見れば男が助からないことは明白だった。
「アンタは助からないし、助けられない。悪いけど、僕は帝国の人間だ」
男の口元がゆっくり動き、僕はそれに耳を寄せる。
「最期に母なる大地の言葉が聞けて良かった」
そう言って男は息を引き取った。
翼の男性やいつの間にか服を着た少女、他にも数名が集まって祈りを捧げる。
全員が翼で自身の身体を半分ほど包み、指を組んでひたすら目をつむっていた。
彼らの後ろ姿は泉で出会った時の少女と同じ姿勢だと分かる。
僕はそれに倣い、指を組んで男性の安らかな眠りを祈った。
青い翼の少女が僕に寄り添い、片言で「アリガトウ」と伝える。
「……」
沈鬱な表情でうつむいていると、少女はもう一度「アリガトウ?」と言った。
初老の男性が少女に呼びかける。
「プラシア」
少女の名前はプラシアというらしい。
プラシアに連れられて家屋を出る。後に続いた男たちが遺体を運び出した。
名残惜しそうに遺体を眺めていた僕は手を引かれるままに付いていく。
滝壺の近くにあった高床の民家に案内され、中に入ると横になった老婆がいた。
「また助けろってか? 悪ぃが、アンタらが帝国の敵か分からんうちは無理だぜ」
奥まで進み、藁を編んだ敷物の上に膝を置くと、ギシリと木の床が鳴る。
老婆はぴくりともせず、頬には虫がたかっていた。
「おいおい。いくらなんでも死んだ人間は助けらっ⁉」
老婆が勢い良く跳ね起きた。
「死んでないわい! ……ぐ! たーっ、いたたた……」
少女が急いで駆け寄り、老婆の背中をさする。
「いきなり起きるから痛めるんだよ。……って、言葉が分かるのか?」
「わしゃお前さんと同じ人間さね。翼はあるじゃぁの」
老婆の翼は深い青色で、羽がところどころダマになり、斜めにねじれていた。
「プラシアのようにゃぁ飛べんがの。どうじゃった? 飛んできたんじゃろ?」
言葉が分からないからか、プラシアは居心地が悪そうに二人の様子を窺う。
ちょうど僕と目が合い、ぼん、と顔を真っ赤にして押し黙った。
軽快な笑い声を老婆が上げて、正座するプラシアの太ももを掴んで揺する。
「わしら翼人族が身を寄せて飛ぶのはつがいと決まっておるんじゃよ」
「つがい⁉ ま、待って僕には……」
まるで裸を見たことがお見通しのような物言いに僕は慌てふためく。
「何を早とちりしとるんじゃぁ馬鹿者。お前さんは翼を持たないが、プラシアの翼で飛んだじゃろ。わしらは掟に従い、お前さんを同じ翼人族じゃと認め、げほっごほっ」
老婆が咳き込み、僕が背中をさする。
プラシアは入口の近くの壺から水を汲み、柄杓のまま僕に渡した。
枕元に置いてあった盃に柄杓の中身を移し、咳が収まった老婆に飲ませる。
震える手は指が不自然に硬直しており、少し動かすだけでも辛そうだ。
「なあ、婆さん。痺れてるのは手だけじゃなく足もか?」
「ほう? よう分かるな、起き上がれんようなって三日じゃ」
僕は老婆から盃を受け取り、怪訝そうに室内を見回す。
「俺は医者だ。もしかしたら」
「ええんじゃ。手足が痺れて最期は心の臓まで痺れる。これはそういう病じゃ」
老婆は集落の様子が丸分かりの風景をまぶしそうに眺める。
プラシアは老婆から視線を外し、悲しそうに目を伏せた。
「助かるなら助ける。その言い方だと他にもそういう症状の者がいるのか?」
「おるわい。爺さんもこの病で死んだ」
僕は鉄砲指をあごに当てる。考え事をする時にお決まりの仕草だ。
何かに気づいたように顔を上げ、手に持ったままの盃を掲げた。
「盃で飲むのは酒じゃないか?」
「そうじゃが……? なんだい急に。飲みたいのか、ほら」
老婆は部屋の日の当たらない奥まった場所にある樽を指した。
プラシアがいそいそと移動し、慣れた手つきで銚子に注ぐ。
僕の盃に銚子を傾けて出たのはつきたての餅ような香りの酒だ。
ごくりと喉を鳴らすが、せっかくの盃を板張りの床に置く。
「なんじゃ。飲まんのかい。ならわしが」
「飲んではダメだ」
不服そうに老婆が睨みつける。
「酒は百薬の長じゃ。そんなことも知らんのか?」
「時と場合による。まさかあの兵士にも酒を飲ませたのか?」
信じられないことを尋ねるように言ったので、老婆は珍妙な顔つきになった。
「いんや、あやつは飲まんかった」
「そうか……。でも、分かってきた。婆さん、この家、昔は倉庫だったろ?」
床をコンコンと手の甲で叩く。
「ああ、十年ほど前までな。それがどうしたんじゃ?」
「もう一つ。亡くなった爺さんってのは村の外から来たか、帰ってきただろ?」
老婆は驚く。傍らのプラシアはきょとんとした顔だ。
「よく分かったな。わしと爺さんは二十年も前にこの村へ逃げて来たんじゃ」
「ちょうど連邦との紛争が激しくなった頃か……」
僕は苦い顔をした後、村の様子がよく見える出入口に視線を移した。
「そしてこの村を変えた何かを持ってきた。違うか?」
酒の注がれた盃を持ち上げる。
「うむ、わしと爺さんは稲作を伝えた。定住の条件はそれで充分じゃった。狩猟が減って使わなくなったこの倉庫をもらってなぁ」
遠い目をした老婆はきっと亡くなった夫を思い出しているのだろう。
持ち上げた盃をプラシアに渡す。思わず受け取ったプラシアは困惑した。
「森に住む村人が米の酒を作るなんておかしいよな。普通は狩猟や採取をする。森は人の手が入っていたから、あんなに綺麗だったんだ。そして兵士が運び込まれたのは米を保管する土倉だ。この高床式倉庫は荷重に耐えられない」
勢いに乗って存分に語った。息を切らしてよろめく。
「そして村は稲作によって大量の米を手に入れた。酒を作れるほどに。毎日のように白米を食べる習慣が付いた」
老婆はおそるおそる尋ねる。
「いったい何を言い出すんじゃ……」
僕は人差し指と親指で作った丸越しに老婆を見た。
「婆さん、アンタの病は脚気だ」
【脚気】-かっけ
ビタミンB1が不足して起こる疾患。倦怠感、食欲不振、足のむくみや痺れなどの症状が現れる。ビタミンB1は玄米、豚肉、うなぎに多く含まれる。アルコールはビタミンB1を多く消費する。
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