『テルミーアバウトユアセルフ(3)』
眉の間に皺が刻まれていく。
そいつを感覚として捉える心のうちは、少なくともいい気分とは言えなかった。それが証拠に浮かんだ言葉はほとんど無意識のうちに、昔の呼び方で彼女を指し示している。
なんでかって?そりゃあ簡単な話ですよ。
ここに来てもう一度、彼女に疑いを持ち始めたから。
そしてそれ以上に、今まで彼女に漠然と抱いていた『二面性』という印象が、今度は明確な姿形を持って再び姿を現した。
それが隠し事への不満や嫌悪という以上に、言いようのない不安を運んできていた。
「寝ぼけながら見ちゃったんじゃない。開くと通知消えちゃうし」
「そう……なのかな」
もしかしたら勢いで正直に吐いてくれるかも。
そんな期待がなかったといえば嘘になるけど……そう簡単にはいかない、か。
指先でピンと吸殻を弾き、水を張った灰皿に吸い込まれる様を見やりながらコーヒーで乾いた喉を潤す。
この分だと、メッセージの後追いかけるように電話掛けたことはまだ伏せていた方がよさそうだ。この手札はもっと後の段になってから切る事で、残された逃げ道を封じる決め手となるだろう。今単なる追撃の一手として遣うのはもったいない。得たかった確信は今までの反応だけで既に手中に収まっているのだから。
「先輩が疲れてんの知ってるんだから、俺ももっとしつこく連絡すりゃよかった。ごめんね」
「えっ、あ……うん」
先輩がもう一度画面に目をやる前に、端末を持つその手を握りながらまっすぐに目を見て謝る。周りに誰もいないからこそ可能となった、演技じみたこっ恥ずかしい芸当。先輩の目が泳ぎ、顔に朱色が差し込まれた。
ゆっくりと離れながら、ぼんやりとした顔のままの先輩が、手から滑り落ちそうになった端末をポケットへしまい込むのを目の端に捉える。
我ながらサブイボ立つくらいに似合わないそのアクションは、意識を逸らすという大役を十二分に果たしてくれた。
「た、高柳君、遅いね」
「……そーねぇ」
とはいえ、自分を常温に戻すのが早すぎたか。
未だ残る照れをごまかすような早口に、すっかり素に戻ってうっかりぼんやりとした口調で返す俺を見て、先輩は面食らったような顔をしたのち肩をすぼめてしまった。
もう少し砂糖を吐いておけばよかったか。それきり何も言わない彼女を見て、少しだけ申し訳なさを感じながら残りのコーヒーを流し込む。既に無言で間が持たない間柄を通り越している事が、今となってはありがたかった。
――ともあれ。
これではっきりした。彼女の後ろには、何者かがいる。それも本人に無断で端末を覗けるほど、ひどく近しい形で。
遅かれ早かれ、先輩は着信履歴を確認するだろう。そこで俺と『誰か』が話していた事実を初めて知った彼女が、その矛盾を前にしてどういう反応を見せるのかは、後ろに立つ者のベールを剥ぐのに有効な一手となりうるだろう。
今までのような興味本位とは異なる。こうして誤解が生まれてしまっている以上俺も立派な当事者であり、そこには知る権利がある……とはいえ実際のところ、その候補には即座に当てが付いてはいるんだけど。
――幾度か話題に上った、先輩と一緒に暮らしているという友達だ。だが今知りたいのはそいつが誰でどんな奴かなんてことじゃない。
俺が問題にしているのは、関係をより近づけておいてなお、どうしてその存在を隠すのかって点だった。
いくら優秀だって言っても先輩だって人の子だ。端末を忘れて出かけてしまうことだってあるだろう。そして同居するほど親しい友達が、鳴りやまない電話をおせっかいついでに代わって取ってあげることだって不思議なことじゃない。
至極ありふれたケースだ。
それを隠す理由がどこにある?
ついでに言うなら、あの電話口の向こうから伝わってきた、少なくとも好意的ではないように思えた空気も気になる。
先輩もそうなら俺だって人の子だ。顔を合わせてもいない人間から
問題はその上で、塩にもほどがある対応をされた事。つまり先輩の口伝から作り上げられた想像の俺は、その子にとって決して好意的なものではなかったという事になる。
それが
実はそうじゃなく、やっぱり知らない間に不興を買っていた俺の事を、伝える先輩が悪意満載に愚痴っていたとしたら……うわ、どっちかっていうとそっちの方がキツいわ。
先輩の性格からしてそんなことは万が一にも有り得ない……と思いたいのだが、ここにきて新たに彼女のまだ見えない部分が多分に存在すると知った今、その信頼という担保は崩れ始めている。
そこにはたとえどこまで親密になろうとネガティブな思考を完全に払拭する事が出来ない、生来の陰キャ気質も手伝っているけど。
「先輩、あのさ」
焦点を合わさず前を向いたまま、とっくに空になっていた缶の飲み口を離して呟く。
今まで感じていた好意のすべてが、自分の自意識過剰による幻だった。
脳裏をかすめた仮説は朝に覚えていた不満とも、さっき感じた不安とも違う薄暗い何かを
「どうしたの、改まって?」
その声を受け、対照的にこちらを向いて距離を詰めてくる先輩。どこか嬉しげなのはだんまりだった俺が不意に話題を振ってきたからだろうか。今となってはそれも自分の妄想かと勘繰ってしまうし、その度に喉奥に小骨が刺さった心地を覚える。
刺さって来るものの正体は、亀裂の入った信頼の欠片。そいつを確かめたり直そうとしたりの度にヒビは広がり、拍子に弾けた欠片がまた刺さる。
後戻りできなくなることを恐れて下手におっかなびっくり触れていては、延々とその繰り返しだ。
「俺に何か隠してない?」
向き直り、努めて平静を装ったまま、切り込む。
こんな無意味な自傷行為はいつまでも続けられるもんじゃない。ならばいっそと一息に叩き割った俺の一言に、先輩は笑顔のまま固まった。
一瞬遅れてまん丸になったその目を覗き込むと、音も寒さも指先の感触も遠くへ消え去った。次の反応を見逃すまいとするあまり、他の感覚が酷く鈍くなっていく。
時間の経過も曖昧にしか感じ取れない中、次に動いたのは先輩の目だった。捕らえるこちらの視線から逃れようとするように、眼球が脇へと逸れていく。
つまりは正面切って立ち会う気がない。
今や
「……何か隠したいなら構わないけど、もう少しうまく隠してくれねえかな。気にかかってしゃあないわ」
いらだちを隠しきれない口調をぶつけながら、頭は二の矢を番えている。まずは電話の件だ。こんなに早く切ることになるとは思わなかったが、こうなった以上は仕方がない。その後の状況によっちゃ本人には悪いが、一志をガン無視した一件も持ち出すつもりでいる。
俺と先輩との間だけじゃない。喫煙所サボりトリオの中に不穏の種が芽吹き始めているのは明らかだ。そいつが取り返しのつかないほど成長してしまう前に片を付けなければ、全員無味乾燥な大学生活に逆戻り。そいつは誰も望んでいないだろう。
それが真偽の程は分からない大義名分だってことは重々承知している。だがそんなお題目を掲げでもしなければ、仕掛けた側の自分がどこかで折れてしまいそうだった。
決意も何も持たないまま、ただ不安に駆られたってだけで火蓋を落としてしまったのだから。
「つうか昨日――」
「いやー悪ぃ悪ぃ!学務課から呼び出し食らってたの忘れててさー」
……まーたこのパターンかよ。
振り上げる拳の落としどころを無くしたことによる、無為な脱力感に苛まれながら声の方へと向くと、そこには絶妙にこちらの神経を逆なでするような間の抜けた笑顔をひっさげ、これまたチンタラした足取りでこちらに向かってくる一志の姿があった。
先輩がさっき視線を逸らしたのは、俺より一瞬早く奴の接近に感づいていたから、ということだろう。
「もう飯食っちゃっ……あれ?どしたのおふたりさん」
一瞬で異常な空気を察したのか、一志の笑顔がぎこちなく歪んでいく。
それでも冗談めかした口調を崩さないという懸命な努力もむなしく、俺達3人の間をことさらに気まずい沈黙が横たわった。
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