『テルミーアバウトユアセルフ(2)』
「……何か怒ってる?」
――そりゃこっちのセリフだよ。
と、数秒前までは思っていたのだが。
どうも短絡的、かつ反射的にその言葉を口にする局面ではなくなったらしい。並んで歩きながら時折こちらの顔色を覗き込んで来る先輩の瞳に、ひとまず返す目で曖昧な笑いを乗せておく。
「あーいや、別に、朝メシが重すぎて胃もたれしてるだけよ」
「あはは、何それおじさん臭い」
……にしてもこいつは、どういうこった?
知らない間に怒りを買って、解決策どころかその原因すらわからないまま先輩と顔を合わせたらどうなるか。日曜の夜からこっち、ずっと頭を悩ませていた無数の想像はいずれも外れてくれた上、少なくとも今は険悪なではないムードで肩を並べられている。
だがそいつを喜ばしい事とは思えなかった。何もアクションを起こせなかったどころか、あの態度の手掛かりすらもつかめなかったという事実は変わらない。だとのに勝手に好転しているこの状況に、却って底の見えない不気味さがいや増していた。
自らの怒りを敢えて隠して接する。そうすることで却って相手に自分の意思を強く伝わるケースがあるけど、こいつはそんな面倒くさい女子あるあるとは根本からして異なる気がする。
こみ上げるあくびと一緒に首を左右に振って関節を鳴らし、そのついでに横顔を盗み見てみる。
さっき正面から合わせた瞳にも、そして今視界の端に捉えた横顔にも、怒りや不満の色は見えない……というよりも、隠した様子すら窺えないのは明らかに不自然だろう。
このメソッドのキモは僅かに程度にでも、内包した不満を相手に匂わせること。仮にそれを全く包み隠してしまえば相手が何かを勘づく事ができず、手法として成り立たない。その
なのに今の先輩は、まるで昨日の事がなかったように――
「……全然聞いてない。やーっぱり怒ってるでしょ」
あれこれ探っている間に、先輩の言葉をいくつかスルーしてしまっていたようだ。不意に尖った口調に考えを中断され、慌てて頭を振って向き直る。
「ごめんて。ちょっとボケーっとしてただけ……いい天気だし」
「ふーん……」
今度は信用も得られなかったようだ。眉を
向けてくる半眼と、への字に曲がった眉。そこには表れているのはポーズ程度の怒り、それ以上に冗談めかした色が濃い。とは言え一応は気色ばんだところを見せているあたり、後付けで理屈を合わせるつもりだろうか?
……いや、多分違う。
今見せている怒りの根っこはあくまで、話をロクに聞かない俺の態度に対してのものだ。つまりこの場で初めて生まれたもので、溜め込んでいたものを奥底から取り出したってわけじゃあない。
「まだ頭が覚め切ってないからさぁ」
「まぁ、そういう事にしておいてあげるけど」
廊下の突き当り、明け放したままの扉から外に出る。その冷たさに少しすえたような冬の匂いを混ぜた木枯らしが鼻をくすぐった。
――くちん。
喫煙所が見える階段を降り始めたところで丁々発止のやり取りが急に止まり、代わりに聞こえてきた小さなくしゃみ。反射的にポケットに突っ込んでいたティッシュを取り出すと、先輩はずず、と鼻を鳴らしながら手を伸ばしてきた。
「ありがと……でも、怒りたいのはこっちも同じなんですけど?」
律儀にもきっちりお礼を挟んだ後、急に話のトンボを切る先輩。そこに僅か勢いを増した不満を見て取った俺は弁明を一旦喉の奥へと引っ込め、話を聞く姿勢に入る。
もしかしたら先輩は、今の怒りを呼び水に話を昨日の事へと及ばせるつもりだったのかも知れない。となればここは少しでも真面目に受け止める姿勢を見せなければ、失礼というものだ。
相変わらず全く思い当たる節がないのは変わらないし、得てして知らない間に買っていた不興ほど、掘り出してみたら即死級の地雷だったりするんだから。
そんな心支度を済ませたタイミングで、踏み出す足が最後の階段を下り終える。幸か不幸か一志はまだ来ていないようだった。
今日も今日とて無人のベンチを見やったあと、自販機へと向かって長丁場に備えていつも買うヤツより大きなホットコーヒーを2本買って、ブラックの方を先輩へと寄越してやる。
……ベンチの落ち葉を払っていた手をいったん止めてまで受け取ってくれるあたり、やっぱり根が深い怒りじゃない気もするけど。
まぁそこはそれ、蓋を開けてみなければわからない、か。
「――連絡は、しっかりしてくれると嬉しかったんだけどな」
「は?」
――連絡?
横に座った俺火をつけ終えると同時に、ぽつりと零れた先輩の嘆き。
その声が小さくて半分ほど聞き取れなかったってこともあって、咥え煙草のまま
「は?じゃないよー……こう見えて今結構忙しいんだよ?私」
そんな態度が火に油を注いでしまったようで、先輩の声のボルテージが少しずつ上がってくる。
とはいえ俺には相変わらず、その正体が見えてこない。そんな状態で出来る事と言えば上半身だけをこちらに向け、ただ視線を右往左往させるだけ。上目にこちらを睨め付けてくる彼女に返す文句も見当たらないまま、合間合間に逃げるように傾けるコーヒーの味も、ロクにわかったもんじゃない。
やがて察しの悪さに呆れたのか、目線を外してひと口コーヒーをあおった先輩が、深いため息の後で続ける。
「竹田先生がこないって知っていたら、昨日学校に来る事もなかったのに!」
――なんだって?
それは今飲み下しているカフェイン以上に、頭の中の眠気を吹き飛ばす一言だった。その言葉が示すひとつの事実への驚きに、せわしなく動いていた眼球もびたりと動きを止めてしまう。
すなわち、さっきとは違った意味で言葉を見失っている。そんな俺の変化も気に留めない――というか、気付いていない――様子で、先輩は頭を振った。
「しかも達也はちゃっかり休んでるし!なんで連絡寄越さなかったの?」
「いや、俺、ちゃんとしたけど……」
「おかげで研き……仕事が押せ押せで今週ロクに眠れて――えっ?」
回転数を上げる先輩の譴責の合間、うつろな口調で挟んだ俺の反論はやや遅れてその歯車に絡まった。
途端に勢いを止めた先輩が一拍間を開け、慌てた様子で懐から端末を開く。そこに嘘や演技の匂いが全くしてこない事で、俺の頭の中でひとつの考えが急速に形を成していく。
「日曜日の夕方に」
補足する俺の声から戸惑いの色が消えていることも、今の先輩には伝わっちゃいないだろう。あるいはこちらに目を合わせていたなら、限りなく無に戻っていく表情から察しが付けられたのかもしれないけどさ。
「ほんとだ、メッセージ、来てる……でも通知無かったのに、なんで?」
――それは、アンタじゃない他の誰かが見たからでしょ。
喉まで出かかって、止める。
互いに抱いていた疑念と不満が晴れてみれば、そこには中身だけを変えて同じ者がまた新しく横たわっていた。
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