『記憶のアイソトープ』
「あい、お疲れさんでした……っと」
並みいるタクシーに交じりながら、帰り足で賑わうロータリーの一角にバイクを止める。スタンドを下ろしてハンドルから手を放すと同時に、サスペンションがギッと揺れた。
「これなら充分、乗り換え間に合うよ」
安堵したようなその声に半身を
「それどころか、少し待つくらい。次の次だから」
「気ぃ抜いて乗り逃がさないようにね」
「大丈夫、3分前にアラーム掛けたから。ありがと達也」
労うような先輩の微笑みを受けながら、組んだ両指を天に上げてぐーっと腰を伸ばす。気休め程度に解れた筋肉が疲れを思い出し、手を下ろすと同時に間抜けなあくびを漏らす俺を見て、顔を上げた先輩が少し心配そうに眉根を潜めた。
「本当、お疲れ様。お礼は今度改めてするから、帰ってゆっくり休んでね?」
「んあー……」
受け取り方によっては帰宅を促すようにも聞こえるその言葉に、ガサツくグローブで目尻を擦りながら曖昧な
横目で伺うロータリーは人の往来こそ多いものの、俺が迷惑になる程車が乗り入れてきているわけでもない。意図して彼女の隠れた意に反目するつもりはないし、さっさと地元に戻りたい気持ちはある。
だが次の電車が来るまでたかだか5、6分。一服未満の時間を惜しんで、彼女独り退屈させることもないだろう。
そういう間柄なんだし。
「……ありがと。って、さっきも言ったか。お礼言ってばっかりだね、今日は」
返事の代わりにエンジンを切り、抜き取らずにキーから手を放す中途半端さで表す内心。そいつを持ち前の洞察で読み取った先輩ははにかむような照れくさそうな……ともかくさっきとは意味合いの違うように見える笑顔を浮かべた。
思わず言葉に詰まる。普段見せる快活さとイメージを対極にする、あやふやに緩む口元と泳ぎながら上目に使う瞳。その組み合わせがかなりの破壊力を誇るってことを身をもって知った。
「あー……よけりゃそいつも持って帰ろうか?仕事先に持ってくの邪魔でしょ?」
「いいよ。他に荷物が増えるわけでもないからさ」
いかん。このままじゃ別れが惜しくなる。
そんな
その即断ぶりからどこかで言葉の選択を誤ったかと言外に身構えたのがバレバレだったのか、先輩は慌てて頭を振った。
「帰ったらこれ見て、楽しかったーって思い出しながら寝たいから」
ああ、そういうことか。
安堵を覚えて頷く俺を見て、先輩は満足げに両手からグローブを抜き取り先に脱いだメットに放り込む。その手付きも慣れたもので、顎紐の取り方がわからず四苦八苦していたころがもはや懐かしかった。
「次に会うのは、週明けかね」
呟く遠くで1本、電車の走り去る音が聞こえた。
切り替えたつもりでもわずかに尾を引く名残惜しさが、無意識に声を少しだけ未練たらしいものにする。そんな俺に向かって、先輩は少しだけ間を開けてから首肯を返してきた。
「あ、でも火曜日になるかも」
「火曜?」
思わず訊ね返してしまう。というのも月曜日は俺と先輩、揃って取っている講義があるからだ。
「今日遊んじゃった分溜まった仕事片付けないとだから、もし出れなかったら代返頼める?」
「あー……いや、了解」
出会った頃ではありえないほど
そしてそこには、あいつの姿もある。昼間の一幕とここへ来るまでの道すがらで話したことを連想して、改めて悪びれる気持ちがよみがえってきたからだった。
「……高柳君も気付いているなら、わざわざ宣言しなくてもいいんじゃないの?」
そして、先輩はそういった機微を見逃さない。
再び手を動かし始めた先輩がメットをしまい込み、リュックのバックルをぱちんと鳴らす。勢いの良いその音に弾かれたように、俺の顎が上がった。
「あえて探りを入れないのは、高柳君なりの気遣いかも知れない。少なくとも、私はそう思うな」
先輩の言う事はもっともだ。
改まって報告したところで目に見える事実は何も変わらない。最悪長く頭を苦しめた悩みが『ご存知ですけど?』の一言で至極あっさり済まされるという脱力必至の結果も見えた。
だがそれでも、俺はふたつ返事を返せずにうーん、と唸ってしまう。
「けど、ずっとだまし続けているみたいなのは、やっぱ悪いなってさ……にしたって、きっかけがないと言い出せなさそうなのも事実なんだけど」
男気があるのかないのか。あるいは単に空気が読めないのか。
言葉にすれば結局は
「やっぱり、私から言おうか?」
やがて向けられたどこか試すようなその声には、即座にいいやと否定を返した。
時間にして10秒もなかったそのブランクに含みを覚えたってのもある。だがそれ以上にいくら打ち明けるまでに時間がかかったとしても、もとより誰かの手を煩わせるという考えはなかった。
「なんかこういうのは、ちゃんと俺の口から言わないとダメな気がする」
筋を通す、とでも言えばいいのか。
そんな体育会系の価値観とは無縁な人生を送ってきたつもりだったが、かといってそこの横紙を破る自分を想像すると、抱え込んだ腹の底がすっきりする気がしないのも確かだった。
間違っても俺は、押しなべて不義理を許さない性格じゃあない。それでも意固地なまでにその考えを変えないのは、相手が他でもない一志だからという点が大きい。
そこにもうひとつ、理由を付け加えるならば――
「そう言ってくれると思ってた、惚れ直していい?」
「やっぱり試してたんかーい」
少し悪戯っぽく笑う先輩に照れ隠しついでの軽口を返しながら、内心でどっと安堵の汗をかく。
実際一志よりも彼女の方が、よほど高い関心で俺の動向を見極めているのかもしれない。ここに向かうまでのやり取りの中でその兆候を見逃さなかったのは、ほとんど幸運だったと言える。
もしここで安易に彼女の助け舟に乗っかっていたら……その先に待つものは、あまり考えたくはなかった。
「アレよ。どうにもアイツに限っては適当をしたくないというか」
「あぁ、それは分かるかも。達也にも私にも、すごく気を遣ってくれるし、良い人だよね」
それこそ一番奴に堪えるワードなんだけどね……という返しはここじゃあ飲み、代わりに煙に巻くような薄笑いを貼り付けておく。
下心のあるなしを問わず、八方へと自分なりに良い人のふるまいをするからこそ、例外なく良い人止まりで終わる。そんな奴の美点であり欠点は、ここで論ずると陰口にしかならない。とはいえ暗い想像に走りそうだった頭を切り替えてくれたことに、感謝の念だけを遠くへと飛ばしておいた。
ハイハイ。この話はもうおしまい。
「……逆にもし、高柳君が達也に対して不義理を働いたら?」
例に漏れず俺の意図を察した――にしては、どこか過剰とも思える重い口調が返って来る。変わらない笑いに細めたその目の奥にある光が切れ味を増し、この問いかけが単なる余談で終わらない事を物語っていた。
茶化し抜きに答えろってことか。だがそれならば逆に、迷うこともない。
「あぁ、それはぴしゃっと言うだろうね。前に言った通りさ」
互いに思った事に対して遠慮はしないし
間違いをなあなあで流して、表面上だけを取り繕う方がよほど大人に見えるだろう。大した執着もない短期的に関係を保つには良策であるのは間違いない。だけど長い付き合いをしていくとなれば、くすぶる火種を消しきらないその選択は紛れもなく破綻への第一歩だ。
事なかれ主義の
その場は適当な作り笑いで覆って事なきを得たとしても、わだかまりは必ず火種となって互いの奥底で静かに燃え続ける。そして思わぬところで再燃した時、関係の支柱には既に手遅れな程火が回っていて、結果あっけなく燃え落ちて灰すらも残らない。
そんな根拠を掻い摘んで説明しているうち、先輩の顔からボロボロと、笑顔の装いが剥がれていく。
「……どしたの先輩?大丈夫?」
要旨を話終えてやっとその変化に気付いた俺がすっかり真顔に戻ってしまった先輩の肩に触れると、そこから小さな震えが伝わってきた。目に涙こそ浮かべていないがその表情は暗く、下唇の端っこを噛んでいる。
俯く目線は一向に俺と合わない。少なくとも今の雰囲気にも話の流れにもそぐうものではなくなっているあたり、その意識はここでないいつか、どこかに飛んでしまっているのかもしれない。
「だったら、私がもし、同じように――」
やがて意を決したように開いたその口を遮るように、俺達の間を能天気なアラームの音が流れた。
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